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24 夜灯冽その1

 聞き慣れたはずの鐘の音が心象に響く。


 屋上庭園から見下ろせる雨月ホールでは、ようやく閉会式が始まったらしい。グラウンドには屋台を片付ける生徒がちらほらいて、プールにはこそこそと密着している影が二つ。


 風景はあの日と同じ夕暮れ。黄昏時。思い出す。あたしが匁と出会った日のことを。





 母さんの親族が何かの事故で死んだ。その葬式に行くことになった。高瀬さんの運転する車で揺られている間は、面倒だと思っていた。


 死んだ母さんの親族とは何度か会ったことはあるものの、下の名前を知らないくらい接点はなかった。だから、葬式に行く気はなかったが、母さんから、せめて骨は弔ってちょうだいと頼まれたので、火葬場に足を運ぶことになった。


 駐車場に着き、砂利道を歩いて火葬場に入る。母さんの側に行こうとすると、見た覚えのない小さな女の子がちょこんと立っていた。


 その表情は、無そのものだ。


「あの子、いったい誰が引き取るのかしら」


「あたしは嫌よ。でも、施設に入れるのも見栄えが……」


 なるほど、どうやら孤児になってしまった女の子か。見た目からして、小学生の中学年と思える。この場の状況が理解できない年齢ではない。それにしては目元に泣いた形跡は見られないし、不幸を喚く様子もない。正直言って、気味が悪いとも思った。


 私がその女の子を凝視していたのが母さんに見られていたのか。


「あの子、――匁って子よ。……まだ時間はあるわ。気になるのなら話してみたら?」


 普段の私なら、年下の子供に関わろうとしなかったが、この時の私はたぶん、いらいらしていた。礼儀のなっていない後輩と仕事をしたせいかもしれない。初めて全国模試で一位から陥落したからかもしれない。


 そのどちらかは分からないし、今となってはどうでもいいことだ。


「――君」


 声をかけると、その女の子は私を見上げた。目が合った。


 その目はまるで、これから三途の川を通るのになんの抵抗もないようなお年寄りに近い色をしていた。


 火葬場で考えることとしては不謹慎だが、私はその目を見てこう思ってしまった。


 その幼い年で、どうしてそのような達観した目をできるんだ? ……面白い、と。


「……何? お姉さん」


「あっ、いや、そうだな……行く宛は決まっているのか?」


 そう訊くと、女の子は呆れたような口ぶりで答える。


「ううん。それってお姉さんに関係あるの?」


「あるさ。だって、――君は私の妹になるんだから」


「……妹?」


「ああ、実は憧れていたんだ。姉妹というものに」


 言葉ではそう言うも、私は姉妹には憧れていない。

 同級生や仕事仲間から妹がうざいだの、姉が偉そうだの、姉妹関係の愚痴を散々聞かされていたから、どうとも思わない。


 しかし、私はこの子と違って、親が死んだらみっともなく泣き叫ぶ。なんなら一ヶ月、いや、一年経とうが立ち直れる気はしない。生きている間、一生悲しむことすら予想できる。


 だが、それはこの子が例外なだけであって、大抵の人間には当てはまることだと思う。


 かくいう私も、他人から見れば例外の存在だ。優れた知能に優れた体格、優れた顔面に、優れた声色と、例を挙げれば切りがないほどだ。


 だからこそ、同じ例外の位置にいるこの子を引き摺り落としたくなった。理外の存在から、人の存在へと。


「お姉ちゃんの名前は?」


「私か? 私は夜灯冽。その小さな頭で覚える事だ。君も同じ苗字になるのだから」


「じゃあ、わたしは夜灯……匁?」


「必然的にそうなるな、匁。これから私が君に沢山の思い出をあげよう」


 ――そして、私に君の歪んだ顔を見させてくれ。


 手を差し伸べると、匁はあどけない手を重ねて、ぎゅと握り返してくれた。匁と手を握ったまま時間が進み、匁の両親の遺体が炉に押し入れられる時、微かに匁の握力が強くなった。


 火葬場から帰る前に母さんに事情を説明し、後日、正式に私と匁は姉妹となった。


 しかし、匁が夜灯家になってからの数日は何かと忙しく、構ってやれずにいた。その間は、高瀬さんが匁に付きっきりだったらしく、その期間のことを高瀬さんに訊くと、小学生とは思えない精神力を持っていると教えられた。


 さらに詳しく訊くと、匁は実家から私物を持ってくることはなく、両親が死んだというのに平然と小学校に通い続け、宿題も遅れることなく自分で終わらせる。見知らぬ家に来て緊張しているのか、と精神科医に相談しても、軽いネグレクトを受けた形跡はあるものの、これが匁の平常だと判断された。


 高瀬さんの報告を聞いて、私は匁に対しての好奇心が増大した。


 匁をどう扱えば、歪んだ表情を見せてくれるのか。泣き顔でもいいし、理不尽に喚く顔でも構わない。とにかく、匁の感情を爆発させてみたい。人というのはそういうものだから。


 私の仕事が落ち着いてきたタイミングで、匁と食卓を囲んだり、勉強を教えてあげたり、頭を撫でてみたりと、姉らしいことをして、匁が私に抱く感情を増やすことを試した。


 効果は抜群で、匁は私が入浴している浴槽に忍び込んできたり、私が寝ている布団に勝手に潜り込んだりするようになった。


 背中から小さな寝息を聞いていると、姉妹も悪くないことに気がついた。

 私と同じ理外の存在が、私のことを無遠慮に尊敬しているのだ。人から好意的な視線を向けられることを嫌う奴はいない。わたしもそうだ。


 けれど、私に対する匁の行動は愛に満ち満ちているが、その表情は火葬場の時となんら変わらない無、その表情を壊すことが私の目的だ。


 それを達成するために、匁にバトミントンで勝負を挑んだ。


 姉と妹の上下関係を体に叩き込んで、圧倒的な点差の前に匁の表情を悔しさで捻じ曲げてやる。そう思うと、ただの授業なのに不思議とやる気がみなぎってきた。


 別に競技はバトミントンでなくても構わなかったが、匁が私の体育の授業に忍び込んで観戦していた時の内容がバトミントンだった。


 先生も匁の事情は知っていたので、私の提案を受け入れてくれた。


「匁、見ていてばかりではつまらないだろう。道具はある。一緒にバトミントンをしよう」


「でもわたし、やったことない」


「匁に沢山の思い出をあげると言ったな。その一つだ。それとも、私が初めてじゃ嫌か?」


「ううんっ、やる!」


 バトミントンのやり方は簡単だ。ラケットを振って、シャトルを相手のコートに落とす。それだけだ。わざわざ説明する必要もない。


 同級生の一人が点数係となり、ゲームスタート。


 黄色い声援が匁を包む。


 最初は私がサーバーとなり、シャトルを高く上げて、打つ。


 匁の足元目掛けて急降下するシャトルは、簡単に打ち上げられた。


 私よりも幼い匁が振るラケットによって。

 衝撃を受けるのは後回しだ。


 足を一歩前に出し、匁のラケットから最も離れた場所にスマッシュ。


『1−0』


 なんとか点数は取れたものの、油断をしては負ける。そう判断しても間違いがないほど、対面に立つ匁のプレッシャーが私を圧してきた。


『13−1』

『15−2』

『21−3』


 圧倒的な点差で私が勝利した。しかし、辛勝だと表せるほど試合内容は切迫していた。

 偶然や私のミスなら諦めはつくが、匁に取られた三点は実力でもぎ取られた三点だ。

 試合中集中し続けたせいで疲弊した私に向かって、匁は汗ひとつない笑顔で言う。


「楽しかった!」


 私は溢れんばかりの悔しさを抱いて、匁の頭を撫でてやる。


「それは……よかった」


 その日から匁はアヒルの子供のように、私がしていることを真似し始めた。

 どの競技だろうと、初めの勝負は私が勝利した。記録上では大差をつけて圧勝した。


 だが、同じ競技をやり込むにつれて、私と匁の差は縮んでいった。それも、かなりのハイペースで。

 このままでは当初の思惑と違い、匁の手によって私が人の存在へ落ちてしまう。匁に泣き顔を見せてしまう。特別な存在ではないと思い知らされてしまう。


 姉として、絶対にそれは成し遂げさせてはいけないという危機感が私を襲った。

 その危機感に背中を押され、私は調べることにした。匁の異常な成長度合いの原因を。


 匁の体格は幼く、握力や脚力も並。知能指数もそこまで高い訳ではなく、体力もキツめに練習している運動部員程度だ。


 そのどれかが悪いさをしているのかと思ったが、実際は違っていた。


 匁の天才的な技術の根本。それは、完璧なボディイメージだった。


 ボディイメージとは、自身の体に対するイメージや感覚のこと。完璧なボディイメージを行えると、脳内でシミュレーションしたことをそっくりそのまま実現させられる。


 この能力があれば、難しいとされているゴルフのホールインワン、弓道で狙った位置を穿つ。ボウリングでストライク。それらを全て誤差なく連続して再現可能になる。


 しかし、原因が判明したところで、私にできることは諦めないことだけだった。


「高瀬さん……私が匁に永続的に勝てるものはあるか?」


「正直に申しますと、体格……でしょうか」


「それ以外にはないのか?」


「……ございません」


「私が匁に劣っているとでも言いたいのか!」


 空の食器が宙に浮き、鋭い破片が床に散らばる。

 食器としての価値がなくなったものが蠢き、わたしを地獄へ誘おうと足元に絡みつく。


「高瀬さん……私は私の能力を最大限に活かし、匁を完膚なきまでに負かしてやりたい」


 でないと、私は甘えたがりの匁を一人にしてしまう。


「どのような師事をお求めですが?」


「『甘え』と『よくやった』の言葉は必要ない」


 いつもと違う、高瀬さんの険しい表情。


「承知しました」


 私は自分の言葉を改めて自覚し、立ち上がる。

 匁を人の存在へ落とすことに全力を尽くすと決意して。


「理由は分かりませんが、匁様はどのような種目、競技だろうと一回目は負けるように立ち回っています。あるとは思いませんが、匁様の苦手を発見するために勝負を挑みましょう」


 手始めに、体格がものを言うスポーツで挑んだ。


 水泳……勝てない。フォームの改善が進めば、匁に追い越される未来が見えた。

 スポーツクライミング……勝てない。壁を登る正解のルートを見つける速さが違う。

 ソフトテニス……勝てない。ボレー、スマッシュなどの基本技術の使い分けが完璧だ

 卓球……勝てない。剣道……勝てない。ゴルフ……勝てない。弓道……勝てない。スピードスケート……勝てない。飛込競技……勝てない。ダーツ……勝てない。フェンシング……勝てない。ボウリング……勝てない。柔道……勝てない。




 次は……空手か。


「やるぞ……匁」


「え?」


 コートで甘えを見せた匁の顔面に、後ろ蹴り。

 構えすらしていなかった匁は打撲音の後に地面に突っ伏した。


「一本だ。早く立て」


 匁は額を抑えて、うずくまる。


「れっ……さ……ど」


 高瀬さん? 


 試合中にコートに入ってくるのはルール違反だ。せっかく私が匁に勝てていたと言うのに、勝負を邪魔するな。


 ……勝負? 私はいつから匁と戦っていた?


 ここは、コートの上だ。

 なら、油断していた匁が悪いに……コートじゃ、ない?


「私は……私はっ」


 カーテンが揺れ、日光が脳を活性化させる。視界が広がった。


 ぼやけていたコートが鮮明になる。

 変わり映えのしないリビング。手料理の朝ごはん。傷ついた食卓。割れた食器。額から出血する匁。じんじんと痛む右のかかと。匁に応急処置を行う高瀬さん。


 こんなつもりじゃなかった。


 私はただ、偉大な姉として尊敬されたかっただけなのに。


 歪んだ顔だなんて言ったけど、血に塗れた顔をさせようとは思っていなかったのに。

 息を荒く、顔色を悪くする私に、匁は自分の状態を気にせず、言ってくる。


「お姉ちゃん、匁は平気だよ。だから安心して」


 べちゃり。


 血塗れの手が私の足を握る。

 匁の顔はなんら変わらない。いつもと同じ、私を崇める無の表情だ。紅く染まっているだけの、殴りたくなるほど屈辱を与えてきた表情だ。


 私なら……いや、人だったら誰しもが額から大量に出血するような目に遭えば、無様に泣き顔を晒す。そんな目に合わせたやつを憎む。


 だけど、匁は違う。私と違う。

 私は自惚れていただけの、ただの人だった。


「はぁ……はぁ、はぁ、はぁ! はぁ!! ああぁあぁああああ!」


 私は縋る匁を蹴飛ばして、自部屋に逃げた。


 ドアに背中を当てて、耳を塞ぐ。


 何度ドアを叩かれたか覚えていない。


 カーテンから差し込んでいた朝日が月光に変わった時、私はようやく自覚した。私が姉妹に憧れていたことに。私が匁のことを好きなことに。


 私は匁に勝つことで、好きだと伝える勇気が欲しかっただけなんだ。


「……冽様。匁様の出血の原因は額の血管が傷ついたことによるものです。傷跡は残ってしまいますが、後遺症はありません」


 女の子の顔に傷をつけて、喜べるはずがない。


「私は匁にどう謝ればいいんだ!? 見えるとこに傷をつけて……姉失格だ! 生きる価値がない!」


「冽様は疲れていたのです。別荘で休暇を取ってください」


「うるさいうるさい! 私は取り返しのつかないことをしたんだ! 泣いたって仕方がないのに、涙ばっか出でくる! 私はどうしたら取り返せる!」


「どうもしなくてもいいのよ、冽」


「母さん……でも、私は姉として死んでも仕方のないことをしてしまった。謝りたくても、あの子の顔を見ると、殴りたくなるんだ。愛しているのに……抱きしめてやりたいのに。今までに与えられた精神的苦痛が、匁を殴れと囁いてくる……」


「休めばいいのよ。いつまでも、休めばいいの。そして最後に――」





「勝てばいい。そうすれば匁の姉として蘇れる、だったな。母さん……それが今日だ」


 屋上庭園に通ずる扉が開いた。


 第二ボタンまで閉められた制服を着た匁が、息を切らして私の目の前に堂々と立つ。


 互いに目を合わせる。その表情は、相変わらず無に包まれている。


「あの日の鬼ごっこの続きをしよう、夜灯匁。いや……結城匁」


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