19 夜灯匁その2
――夜が明けた。わたしにとって、最も長い夜が明けた。
カーテンの隙間から刺す、憎たらしいほど眩い太陽光がわたしを責めているようで気が滅入るも、すぐにベッドから出て、虚ろな面持ちのままリビングへ足を運ぶ。
お手伝いさんが朝食を作り、爽やかな風が網戸を抜けて新鮮な空気がリビングに舞い込んでくる日常。ただ、お姉ちゃんがいないだけの日常。
「匁様、体調はいかがでしょうか」
お手伝いさん……いつもは訊いてこないのに。
「……お義母さんは、仕事に行った……の?」
「着替えている最中だと思われますが、お呼びしましょうか?」
「……いい」
部屋の時計の短針は、6を指している。
朝が弱いお姉ちゃんなら部屋で……、ううん、お姉ちゃんの部屋で寝ていたのはわたし。
「朝ごはん……食べる」
「かしこまりました。ご準備はできておりますので、お席に座ってお待ちください」
今日は、お姉ちゃんの特等席に座ろう。……この机の傷、懐かしい。わたしの席からは見えなかったから忘れていた。扉の位置も、キッチンの位置も、少しだけ、いつもとずれて見える。
わたしの席と数センチしか変わらないのに、見える風景には違和感がある。日が経ってもこの違和感を、違和感だと感じたままがいいなぁ。
目の前に置かれた湯気が立つコーンスープを掬い、口に運ぶも、熱さを感じない。粒々としたコーンの食感だけが口に広がる。輪切りされたフランスパンに苺のジャムを塗って食べても、味はしない。
こんな食事を続けたところで意味なんて、とため息を吐いたとき、扉の開く音がした。
「おねぇっ……お義母、さん……おはよう」
その音に反応して、衝動的に口が開いてしまった。
「おはよう、匁…………高瀬さん、私にも匁と同じものを」
お義母さんはピシッとスーツを着こなしていた。
わたしの服、昨日のままだ。お風呂にも入ってない。下着すら変えてない。フリーパスも腕につけたまま。お義母さんの目を見られない。見たくない。顔を、上げられない。
新鮮な空気が重く、口で呼吸していると、お義母さんが向かい合わせに座ってきた。
「あの、ね……匁。お姉ちゃんのことだけど、忘れろとは言わないわ。でも、嫌だったら習い事とか、家のことはやめていいわよ。私は……あなたがお姉ちゃんの背中を追って行動していたのを知っているから」
「それだけは嫌っ!!」
考える間もなく口が動いた。
「お姉ちゃんの代わりとして、家の役目を引き継ぎたい……の。これまで……、これまでにお姉ちゃんが築いてきた道のりを歩めたら幸せだと思うし、無駄にしたくない」
「匁ならできると思うけど、会食やパーティーの司会なんてつまらないものよ」
「つまらなくったって、わたしにはそれしかやりたいことがないの……です。わたしは……わたしはっ! お姉ちゃんの痕跡を一つずつ拾い上げることで、未練を残すことなく、お姉ちゃんのために死んであげ」
『パンッ!!』
言葉を遮るように、視界が直角に曲がった。
頬に電気が走り、赤く、鋭い痛みが襲ってきた。
顔の向きを戻すと、お義母さんは涙ながらに、
「ふざけないで! ……そんなこと冽は望んでいないわ。勝手な憶測をして、自分を殺すような真似…………ッ、ごめんなさい! 叩くつもりじゃ、なかったのに。……私は、つくづく母親失格ね。……本当に、ごめんなさい、匁」
スーツの生地が頬に当たり、初めての痛みと熱が情報として流れ込んでくる。言語化できないほど、頭が混乱している。昨夜、枯れたはずの涙が溢れてしまう。
「頑張れば……、わたしも頑張ればっ! もう、一度くらい……お姉ちゃんとっ、あっ、会え……ますか」
「……それを決めるのは私じゃないわ。ほんと、お姉ちゃんとは正反対の、優しくてかわいい顔ね。それを私は……」
お義母さんは赤い手で、わたしの腫れた頬をそっと撫でる。
「痛かったでしょ。こんなに赤くなってしまって。私ができた母親じゃなくて、本当に、ごめんなさい。こんな歳にもなって、みっともないわ。……痛かったわよね。本当に、ごめんなさい」
お義母さんは頬に添えた手でわたしの前髪を掻き上げ、おでこに唇を当てた。
お義母さんの顔……こんなに弱々しかったっけ。いや、お義母さんも辛いんだ。たぶん、お姉ちゃんの提案を聞かされた日から、ずっとずっと辛いんだ。
わたしを叱るために、わたしが想像できないような痛みを手のひらに宿して、こんなわたしを、叱るために……。
「もう少し、あなたたち姉妹のことをきちんと見る時間があれば……なんて言い訳よね。時間なんて戻らないものなのに。……ほらっ、冷める前に食べましょう。匁と朝ごはんを食べるの、いつぶりかしら」
食器音だけがリビングに響く。
事件の喧騒もひとたび止まれば、虫の音も聞こえないほどの静寂が訪れる。
お義母さんに自身を卑下させた。
そのことに気づき、お義母さんに目をやると、背中が少し丸みを帯びていた。昨日、わたしの隣を歩いていたお姉ちゃんと姿が重なり、体が急激に冷める。施されていることに今気づいても、もう遅い。時間は戻らない。戻らないからこそ、過去の喪失感を完璧に埋めることは不可能だ。
「冽がしていた仕事、匁に任せるわ。詳しいことは高瀬さんに訊いてちょうだい」
「ありが、とう……ございます」
コーンスープを一口。フランスパンを一口。物を口に運ぶ作業が滞る。
お姉ちゃんは普段、お義母さんとどんなことを話していたのだろうか。知る由もないことを頭に浮かべていると、お義母さんが苺のジャムを塗ったフランスパンを、わたしの口元に寄せていた。
「ほら、あーんして、匁。私のはまだあったかいわよ」
口で迎えるべきか、手で受け取るべきかで迷っていると、中途半端に開いていたわたしの口にフランスパンが突っ込まれた。それを歯でキャッチし、かじる。
「匁が冽の代わりをするのなら、ゆっくりと二人でご飯を食べる時間は、もう来ないかもしれないわね。だから、今日くらいは母親らしいことをさせてちょうだい」
口を閉じて、フランスパンを咀嚼する。
体は真冬の海の寒さに襲われているが、顔は烈火の如くヒートしている。自分のことしか考えていない浅ましさがガソリンとなって、触れると火傷しそうなほど。顔全体を真っ赤に熱している。
顔を袖でぐっと拭い、恥ずかしさと共に、フランスパンを飲み込んだ。
「だったら、お義母さんにも……わたしがあーんしてあげる」
お義母さんのお皿から一枚フランスパンを取り、ジャムを付けて開いた口に近づける。
お義母さんは一度顔を背けるも、パクッとフランスパンを頬張ってくれた。
自分でも、へたくそな笑顔だと思う。でも、今はこれが精一杯。
「ごめんなさい。……お義母さん」
「何を謝っているのかしら。あらっ、もうこんな時間ね。私は出るけど、匁は家で休みなさい。……もし、どこかへ出かけたかったら高瀬さんに言うのよ。わかった?」
「……うん」
頷くと、お義母さんは膝をついて力一杯抱きしめてくれた。まるで、お義母さんは顔を見せたくないように、強く、強く抱きしめてくれた。
「……ごめんなさいね。今日くらいは匁と一緒にいたいけど」
「わたしはそんなに子供じゃありま……ない、よ。行ってらっしゃい、お義母さん」
「ふふっ、私にとっては二人ともずっと子供よ。……行ってきます、匁」
玄関まで一緒に行き、お義母さんを見送った。
独りで味のしない朝ごはんを食べる気になれず、お姉ちゃんの部屋に戻る。
現実は過去に戻れないのだから、全てをなかったことにはできない。当たり前のこと。だけど、過去を掘り起こせば、心の穴を微かながらに埋めることはできるはずだ。
わたしの存在がどれほどお姉ちゃんにとっての絶対悪だったのか。
贖罪の意味も込めて、お姉ちゃんの残した足跡にわたしの足を重ねて走ろう。お姉ちゃんの痕跡を集めていたら、いつかお姉ちゃんがわたしに抱いていた感情を知れると信じて。
――お姉ちゃんが消えてから四年ほど経過した、中学三年生の夏。
わたしが歩んでいた道は、とうに未開の地へと化していた。見覚えのある足跡は途絶え、宝物は掘り尽くされ、日々、生きる理由が希薄になっていった。
あのお姉ちゃんのことだ。偶然にも、わたしと巡り会う場所には足を運ばないだろうし、香水の匂いや髪の毛一本という微かな痕跡ですら残すはずもない。
わたしはまだ、ジェットコースターの写真を見ないと寝られないというのに……と、お姉ちゃんを想っていたら、もうこんな時間だ。高瀬さんを待たしてしまっている。急ごう。
今日はラム社という出版社で出した写真集のサイン会がある。会場まで高瀬さんに車で送ってもらう道中。
「ところで、匁様は進学する高校はお決まりになりましたか?」
と、尋ねられた。
「珍しいですね。高瀬さんがわたしについて訊いてくるなんて」
「そうですか? 匁様のことは娘のように思っていますので、心配なのです」
「まだ、決まっていません。特に行きたいところもありませんし、適当なところにするつもりです」
本心は、お姉ちゃんの通ったはずの高校が良い。でも、お姉ちゃんが高校に通った形跡は見当たらないし、中学時代に目標としていた志望校も分からない。
お義母さんに訊いても、のらりくらりと躱されるし、お姉ちゃんの部屋には高校のパンフレットや進路調査票が何一つ残されていなかった。何かの賞や大会で入選している可能性を考慮してインターネットで調べても、お姉ちゃんの名前は出てこなかった。
こうなればわたしがテレビに出て、『あの人は今!?』的な番組でお姉ちゃんを探し出してもらおうかな。……ふふっ、番組の力を使っても、お姉ちゃんを見つけるのは無理だろうな。だって、わたしのお姉ちゃんなのだから。
「これは独り言なのですが……、先日、お母様が破けた制服を処分するように、とおっしゃってきたのですが、私にそのような時間はなく、後部座席にある紙袋に入れたままでして、ああ、どうしましょうか……別に、なくなっても構わない物なのですがね」
わざとらしいその言葉は、わたしの体のコントロールを奪うのに十分だった。
紙袋の中にある、緑色の袋を取り出す。結び目を解くと、そこには刃物で切られた痕がある黒色のワイシャツが綺麗に畳まれていた。柔軟剤の匂いがするそれを、ぎゅっと抱く。
「……すぅ、はあっ、
すうううぅう、はああぁあ、
ああああぁぁあああ、
んんっ! すうぅ、はぁああ、ああぁぁ!」
…………お姉ちゃんの匂いだぁ。




