18 夜灯匁その1
「匁、今日の習い事はお休みして、どこかへ遊びに行かないか?」
太陽が昇ったばかりの早朝、お手伝いさんが焼いてくれたパンケーキをナイフで細かく切って口に運んでいると、隣に座るお姉ちゃんが朗らかに言った。
お姉ちゃんから話しかけられたのは十七日ぶりで、咀嚼していたパンケーキが喉に詰まる。水を飲み、ほっと息を落ち着かせてから、
「どうして? 小学校をズル休みしたら、お義母さんに怒られちゃう」
「安心しろ、母さんの許可なら貰っている。ひょっとして、匁は私と遊びたくないのか?」
「遊びたい! でも……わたしと遊んだせいでお姉ちゃんが高校に落ちちゃったら、たぶんわたし、泣いちゃうかも」
お姉ちゃんはここ二ヶ月、部屋に篭りっきりだった。
どの高校を目指しているのかは訊いても答えてくれなかったけど、ずっと頑張っていた後ろ姿を見ていたから、邪魔をしたくない。
「勉強は……もう必要ないんだ」
そう言ったお姉ちゃんの顔はひどく乾いているように見えたが、お姉ちゃんが遊びに誘ってくれたことに喜ぶわたしは表情の意味を汲み取れず、勢いよくテーブルに手をついて食器の音を鳴らす。
「だったら遊園地! 遊園地がいい! ジェットコースターとか、メリーゴーランドとか、コーヒーカップとか! あとあと……んーとっ、とにかく色んなアトラクションをお姉ちゃんと一緒に遊びたい!」
それが叶えば、クラスメイトのみんなが休み明けの日に家族と遊園地に行った、なんて話を羨ましく思うのは、今日で最後になる。
「すみません、高瀬さん。あそこの遊園地まで送ってもらっても……そんな困った顔をしないでください。はい、時間になれば母さんもお願いします」
お姉ちゃんは完食したお皿を流し台に置いて、そっと人差し指でわたしの唇をなぞり、指についた蜂蜜を舌で舐める。
「久しぶりの匁とのデートだから、頑張ってメイクしてこよう。三十分後……八時までには匁も準備を済ませておけ」
お姉ちゃんはわたしの頭を撫でてから部屋を出た。
扉が閉まる音、階段を登る音に続いて、お手伝いさんがお皿を洗う音が聞こえる。いつもはこの音が流れると、退屈な一日の始まりだったが今日は違う。
輝く太陽光がカーテンの隙間を抜けて、パンケーキのはちみつを煌めかせる。
お姉ちゃんの大好物のふわふわパンケーキ。昨日よりも、甘い、とっても甘い味が口の中で広がっていく。
一日の始まりがこんなに幸せな日はいつぶりだろうか。
宙に浮く足をバタバタさせるも、今日はお手伝いさんに行儀が悪いと怒られなかった。
やっばい! 幸せが溢れすぎて、死んじゃいそう!
だってだって、大好きなお姉ちゃんと手を繋いで歩けてるし、目線を上げると、ぱっちりとお姉ちゃんの目が合う。その度にわたしの口が勝手に歪んじゃうけど、お姉ちゃんは何も言わずに頭を撫でてくれるの。
憧れ続けた夢が一気に叶うだなんて、わたし、人生の運を全て使っちゃったのかな。まーいいやっ! だって、今日はお姉ちゃんが隣にいてくれてるから!
お姉ちゃんの手を引っ張って、駐車場から遊園地の受付まで歩き、入場する。受付で購入したフリーパスを自分の手首に巻き付けた後に、同じものをお姉ちゃんの手首に巻いてあげていると、お姉ちゃんは逆の手で青い自動販売機を指差した。
「匁が迷子になったら、あの青い自動販売機を目印に集まろう。いいね?」
来月でわたしも十一歳だ。子供扱いされると、ムッと拗ねちゃいそうになる。
「迷子になんてならないもん」
「……そうだな、匁は迷子にならないな。でも、お姉ちゃんが迷子になるかもしれないから、目印は忘れないでくれ」
「そうなったら、わたしがいーっぱい走り回って、お姉ちゃんを見つけてあげる!」
「ははっ……、匁がいの一番に見つけてくれたら嬉しいが、まずは私が迷子にならないよう手を繋いでくれるか?」
「うん! お姉ちゃんが迷子にならないよう繋いであげる!」
「ああ、ぎゅっとね。……さぁて、どこから回ろうか。匁が決めてくれ」
「じゃ〜あ〜、あっ! あのからくり屋敷、すぐ入れるって!」
「……まったく、はしゃぎ過ぎて私の手を離さないでくれよ」
行きたい場所を訊かれても困る。だって、行きたいのは全部だから。
今日が終わってしまえば、お姉ちゃんとの遊園地の思い出なんて、今後一生作れないかもしれない。だったら、手当たり次第に見つけたアトラクションへ突入して、可能な限りお姉ちゃんとの時間を堪能してやるんだ。
まだ入場したばかりなのに、体と心が浮かれすぎて呼吸が乱れている。お姉ちゃんの手に触れていると、日々の習い事や行事の疲労感を回復する。
この手を離さなければならない時間なんて、来なければいいのに……。なんて不都合な思いは心の奥底へ仕舞い込み、目の前のアトラクションを全力で楽しむ。
カラクリ屋敷や子供騙しの謎解き、鏡の迷路も回った。
木製のジェットコースター、ガタガタ、キシキシと、木が唸っていた。壊れないか心配。
アリスのコーヒーカップ、不思議の国のアリスがモチーフのカップがお気に入り。
それから、それから――――。
園内を歩いていると、いつの間にか人の流れに逆流していた。そのことに気づくと同時に、聞き馴染みのある鐘が鳴る。
『ご来園の皆さま、閉園時間まで残り三十分となりました。お気をつけてお帰りください』
「あと、……三十分か」
疲れを感じさせるお姉ちゃんの呟き。
お姉ちゃんはベッドで眠りたそうにしているけど、……まだ、わたしは。
「……アトラクション、全部回ってない」
繋いでいる手は汗ばんでいて、お姉ちゃんの手に力はなく、わたしが握っているだけの温かい手。腕に巻いたフリーパスも、役目を果たしたかのようにくたびれている。
「そうは言っても閉園の時間だ」
お姉ちゃんは膝を曲げて、わたしと同じ目線になって言い聞かせるが、わたしは首を横に振り、軽快だった足に根を生やす。
声を出して笑ったのはいつぶりか思い出せない。表情筋も痙攣している。喉も痛い。心の底から楽しめた日は、生まれて初めてかもしれない。だからこそ、楽しい日の終わり際が泣きそうになる程、胸を痛くするだなんて思いも寄らなかった。
お姉ちゃんは梃子でも動こうとしないわたしに、ある提案をしてきた。
「それじゃあ、二十分だけ鬼ごっこをしよう。この遊園地の敷地で制限時間内に私を捕まえることができれば、明日も一日中遊んでやる」
願ってもない提案に、答えを出すのは一瞬。
「いいの!? やる! やるやるやる! 絶対負けないよっ!」
「……決まりだな。私が逃げる役をする。匁は鬼の役で私を追いかけてくれ。匁は一分数えてからのスタートだ。……わかったか?」
「うん!」
お姉ちゃんは繋いだままの手を数秒間見つめてから離し、わたしの前髪を上げておでこを撫でてくれた。その後、わたしに向かって両手を広げようとしたが、途中で手を胸の位置まで折り曲げて、何も言わずに人の流れに沿って歩き、わたしの前から去った。
すぐにでも追いたくなるような、地平線へ消えゆくその背中を瞳の中に捉え続けながら、一分数えるルールだからと足を踏ん張り、心の中で的確に数字を刻む。
――ごじゅうきゅ〜、ろくじゅう!
鬼ごっこスタートだ。
お姉ちゃんが向かったのは、入場口の方面。
ふふふ、お姉ちゃん、わざとかな。園内を何度も往復したから知っているはず。鬼ごっこのスタート位置から入場口までは、まっすぐな一本道になっていることを。
明日もわたしと遊びたいなら、そう言ってくれればいいのに。もうっ、遊園地まで来てわたしと勝負したいだなんて、お姉ちゃんは子供だなぁ。
二十分もあれば、歩いてでも時間に余裕を持って入場口へ到着できる。
みてくれなど気にせずスキップするわたしに周囲から和やかな視線が集まるも、わたしの足は上機嫌なまま機能している。
お姉ちゃんを捕まえられなくても、明日遊べなくても、今日だけは眠りにつく最後まで、お姉ちゃんの体温に触れていたい。暖かくしてもらいたい。抱きしめてもらいたい。
『ご来園の皆さま、閉園時間十五分前となりました。またのお越しをお待ちしております』
人の流れが閑散としてきた園内に、アナウンスが繰り返される。
……おかしい。
幾度も道を往来しても、人が隠れられるスペースを探しても、お姉ちゃんの残り香すら一向に感じない。周辺の人に尋ねても、お姉ちゃんと似た人すら見ていないときた。
お姉ちゃん、鬼ごっこって言ったのに、なんで隠れるの?
「おねーちゃーん! こうさーん! 一緒にかえろーー」
両手を口に添えて大声を上げるも、お姉ちゃんは姿を現さない。
迷子になったら一番に見つけてあげるって約束したのに。体調が悪くなっちゃったのかな。そうだとしても、トイレかベンチか医務室にいるはず……。
その場で右往左往していると、ふと、今朝の言葉を思い出した。
「迷子になったら……入場口の青い自動販売機、だったよね」
やっぱり、お姉ちゃんが迷子になるじゃんか。集合場所を決めておいて正解。五分もあれば、約束の場所まで辿り着ける。まだ時間はぎりぎりだけど、残っている。
勝負に勝ったと分かったとたんに、さっきまでの憂鬱が吹っ飛んでいった。迷子になったお姉ちゃんを子供扱いしてやるんだ、と悪戯心を抱きながら、自分の影を踏んで走る。すると、真っ赤な夕日と対照的な青い自動販売機に、見慣れた後ろ姿が。
「匁ッ!」
聴き慣れた声と腕がわたしを包んだ。
ぐっと体が持ち上げられる。ニットの解れた毛糸が頬に触れてくすぐったい。
「どうしようお義母さん。……お姉ちゃん、迷子になっちゃったみたい。探さないと……ねぇ、抱っこはいいから、お姉ちゃんを見つけてあげないと、遊園地に閉じ込められちゃう」
わたしはお義母さんの皺一つないスカートを引っ張って訴えるも、何も答えてくれない。
隣に立っているお手伝いさんの手を見ると、ぐちゃぐちゃに握り潰された跡のある写真が握られていた。
目を凝らすと、勢い良く落ちるジェットコースターに乗る満面の笑みをしたわたしと、そんなわたしを見つめる……乾いた表情をしたお姉ちゃんが写っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
耳元で洟を啜る音が聞こえる。強く抱きしめられて体が痛い。
こんなお義母さんは二回目だ。忘れていたはずの記憶が薄っすらと蘇ってくるも、過去に戻る冷静さがわたしにはない。
「誰も、悪くないの…………あなたも冽も悪くない。本当に、ごめんなさい。あの子の、こんな最悪な提案を認めてしまったせいで、うっ……うううぅ」
お義母さんの嗚咽の意味を考えたくない。今日は特別な日……特別な幸せの記憶のままで終わらせたい。でも、でも…………、勝手に流れる涙がそれを許してくれない。
わたしの大好きなお姉ちゃんは、わたしのことを嫌っていた。
そのことは……勘づいていた。いたけど……鈍感すぎる自分を殺したくなる。
「わたっ、わたし! おねえ……ちゃんと。もっ! もう、会えない、の? 嘘……だよね。おっ、お義母さん! 答えてよ…………なんで、わたしじゃいけないの? 大好きなのに、なんで……、なんで! ……さよならしないと、だめなの…………泣いてないで教えてよ。お義母さんッ!!」
わたしはお義母さんの胸の中でもがいた。必死に、駄々をこねるでは表せないほど、お姉ちゃんが去ったという事実に抵抗した。無意味だと理解した上で、泣き叫んだ。
お姉ちゃんは迷子のわたしを見つけてくれたのに、わたしはお姉ちゃんを見つけてやれなかった。
わたしに人といる楽しさを教えてくれたお姉ちゃんは、もういない。今後一生会えないと思うと、涙が衰えてくれない。身体中の水分が瞳に集中して、涙に変換されている。
泣き止む気配のないわたしを、お義母さんは強く抱きしめてくれているのに、わたしのふやけた口はお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、と吐き続けて、お義母さんを困らせている。
実の娘に消えさせる理由を作ったわたしを、お義母さんは愛してくれているのに、慰めてくれているのに、わたしは意識を失うまで、お姉ちゃんのことしか吐露しなかった。
その日の夜、泣き疲れたわたしはお風呂に入らず、着替えもしないでお姉ちゃんの部屋のベッドに倒れ込む。手首に残るフリーパスと、お手伝いさんから渡された写真を胸に抱いて、卵の殻にこもるように体を丸めた。
写真に映るお姉ちゃんの顔を見ていると、お姉ちゃんの枕から香る匂いを嗅いでいると、一緒に寝たことのあるお布団に触れていると、時を戻したくなる。
お姉ちゃんは、ずっと我慢していたのかな。
わたしの我儘で、ずっと困らせていたのかな。
逃げ道しか作れないほど、わたしはお姉ちゃんを追い込んでいたのかな。
なんで、わたしに相談してくれなかったの?
嫌いなら嫌いってハッキリ伝えてくれたら。近寄るなって伝えてくれたら。死んでって頼んでくれたら。……全部、叶えてあげたのに。
目を閉じても、お姉ちゃんの乾いた表情が浮かんでくる。
……よかった。まだ、お姉ちゃんはわたしの中にいる。




