16 神門その3
トントン、トントントン。
助手席から見るママの姿、久々だけど、どうしてなのかな、あんまり嬉しくない。
匁ちゃん、怒っているかな。ママがユウのこと、ぎゅーって抱きしめてくれたから付いてきちゃったけど、別れる前に、今日はママの家に泊まるって言っておけばよかった。
「ママ、お家に帰る、よね?」
「当たり前でしょ。あんたのせいで支払いが溜まってるし、あの人の怪我もまだ治ってないんだから、……ほんと、手間ばっかかけさせやがって」
「手間? なんの?」
トントントントン。指をハンドルに打つスピードが早くなる。
ママと一緒にいれるのに、なんでこんなに緊張しているの?
「あっ、あのね! ユウ、ママがね、プレゼントしてくれたこの長靴、今でも宝物なの」
信号が赤になり、ママの視線が足に刺さる。
「……あんたまだそんな安物履いてたの? そんなゴミで喜べるなんてねぇ。それを選んだのも、あの店の中で一番安かっただけなのに。まぁ、やる気出してくれるんなら、そんなのいくらでも買ってあげるわ」
「ほっ、欲しいわけじゃ、なくて、ね。パシャパシャってね、水溜りを走ると、ね」
「ねーねーうっさい! 事故ったらあんたのせいだからねっ! このっ……」
『パンッ』
――、トントントン、トントントントントントントントントン。
トントントン、トントントントントン。
トン、トントントン。
トントン、トントントントントントントン
……ドボン。
ようやく、代われたのさ。
匁嬢とのデートがよっぽどお気に召したようで何よりだが、強引に代わるのがこれほど簡単だったら……はぁ、無益なことを考える癖、どうにかしないとな。
しっかし、この豚と二人きりになると、空気が毒素を含んで満足に息を吸えない。だが、この息苦しさを耐えるだけで、オレの願いは成就する。そう思えるほど、ショッピングモール内での匁嬢の行動が美しかった。
警備員が邪魔をしなければ、敢えなく捕まえられていただろう。
すまんな、ユウ。荒療治だが、オレはもう足が痛くて痛くて、泣きそうなのさ。
頼むから、今日はずっと寝ていてくれ。
明日の朝には全部終わって、ユウの人生が戻ってくるはずだからさ。
無理やり歩かされた足が痙攣している。長靴の中で汗が蒸れて、掻きむしりたくなる。それだけが理由じゃないが、吐き気もする。喉を締めておいかないと、崩壊してしまうほど限界が近い。
やっぱり、苦痛に歪む顔はユウに似合わないのさ。
母親に笑顔でいてほしい気持ちってのは子供の標準装備。自分の年齢以下の親だろうが変わらない。例外じゃなく、オレも心に装備している。
だから、事が終わるまで目覚めないでくれよ。
窓に映る自分の顔を見ていると、エンジン音が止んだ。
「……さっさと降りて」
行き先が地獄だというのに降りる馬鹿がどこにいるのさ。
助手席のドアの鍵を掛けて、シートベルトを両手でがっしりと掴む。母親は運転席から降りたその足で、降りようとしないオレを引き摺り出すために、車のキーで助手席の鍵を開けて、オレのワイシャツを鷲掴み、外に引っ張り出そうとしてきた。
懸命に抵抗するも、母親の力には及ばず、シートベルトを握っていた拳を殴られ、コンクリートの地面に体が落ちた。辺りを見回すと、嫌な懐かしさが襲ってくる。
まだ、匁嬢は追いついていないのか。
だったら家の中には入れない。入ってしまえば、幽閉されてしまう。それに、あの部屋に戻ると、ユウが記憶を完全に思い出してしまうかもしれない。
「あんた、またママを困らせるの? いい加減にしてっ!」
何度も聞いた、その怒鳴り声。
「いい加減にするのはそっちだろうが」
「……は?」
「聞こえなかったのなら、もう一度言ってやるさ。いい歳こいたおばさんが、娘に寄生するのはいい加減にしろと言ったんだ!」
「なによ……あんたを育てたのは私よ! 寄生しないと生きられなかったのはあんたの方でしょ!? 誰が産んでやったと思ってんの? 誰がご飯を食わせてやったと思ってんの? 誰が――」
「誰が働いてやっていたと思っているのさ」
「なっ!」
「あんたは不思議に思わなかったのか? 子供が働く理由に親が入る、その不可思議さを」
「……親に向かってっ、このっ!」
破裂音。
しかし、頬に痛みがない。
反射で閉じた目を開けると、そこには。
「前にも忠告しましたよね。子供に、……暴力はいけない、と」
オレを庇い、母親の平手打ちを受けた匁嬢が立っていた。
「また私の邪魔をして! どれだけイライラさせのよぉお!!」
匁嬢は母親から繰り出された二度目の平手打ちを難なく右手で受け止める。
「わたしもあなたのことを足蹴しましたので、一度目は甘んじて受けますが、二度受ける理由はありません」
「……ッ! その子はあたしの子供なの! 自分の子供をどう扱おうが、赤の他人にどう言う謂れがあるの!」
「今の金……幽さんの体はあなたの子供ではありません。それに」
匁嬢はスマホの画面を母親に突きつけた。
角度的に内容をオレは見られないが、凝視した母親は口を開けたまま顎を震わせる。
「先日、あなたが実の娘をゴーストライターにしていたことを、あなたの担当編集に教えました。そしたら、このような文章がインターネットに投稿されまして」
顔を真っ青にした母親が、自身のスマホを両手の親指で連打する。
スマホを抱きしめて、含み笑い。
「どこのSNSにもそんな画像載ってないじゃない! ふふふっ、あんたのしてること、子供のいたずらレベルね。ばかばかしい。適当に作った画像であたしを騙そうなんて……ふざけんじゃないよ! あたしを馬鹿にするのもいい加減にしろ! さっきも言ったでしょ? 自分の娘なんだから手柄は全部親のものなんだよ!」
「ゴーストライターの件、認めるのですね」
「認めるも何も、あたしは二次元っていうかオタクっぽいもの、そもそも嫌いよ。ええ? 神門? 何そのだっさい名前。あたしならもっと綺麗な名前の主人公にするわ」
「……という事らしいです。これで証拠は揃いましたよね。……はい、わたしに暴行を加えた映像は後ほど送らせていただきます。はい、お忙しいところありがとうございました」
……ピッ。
「どこに、電話を……」
「あなたに殴られる前に、とある週刊誌の記者に電話を繋いでいました。それに、あちらに待機しているわたしのお手伝いさんに一部始終を撮影してもらっています。これで無事に、神門さんの親権は幽さんに戻ってきますね」
「け……せ。その画像ッ! さっさと消せ!!」
醜い冷や汗を撒き散らせながら、母親が匁嬢のスマホに向かって突っ込んできた。
必死迫る形相に向かって、オレは。
…………ユウは、匁ちゃんに寄りかかり片足を上げる。長靴のかかとを引っ張って脱ぎ、それをママの顔に放り投げた。
ゴムの弾く音、放物線を描く汗、清々しい風が足先に触れて、皮膚が呼吸する。初めての親への反抗、心が痛い。裸足でコンクリートを踏むと、小石が痛い。
でも、神門の方が痛かったに決まってる。
「ユウはね、ママに長靴ぶつけて心が痛いの。ママは……ママはッ! ユウを、神門を殴った時、手と心……どっちの方が痛かったの?」
「……は?」
「ユウは、まだ……この手に、目を刺した時のぐにゃって感覚が残ってるの。神門が、ユウの代わりに走ってくれたこと、殴られたこと、寒さに耐えてくれたこと、環境を変えようとしてくれたこと。……全部っ、全部。代わってくれてたから、寝てなんかいられないの!」
もう片方の長靴を脱いでママに投げようとしたのに、腕が、上がらない。
決別するためには全部、全部を捨てないといけないのに。
心がグサグサってなって、これ以上、痛いのは嫌なの。……嫌だけど、神門が痛がる姿は、これ以上見たくないのっ!
踏ん張り、長靴を振り上げようとしたユウの手を、匁ちゃんが両手で支えてくれた。
「これを、あれに向かって投げればいいのですね」
「……うん、ユウにはもう、いらないものだから」
匁ちゃんに長靴を渡す。
「ちょっ、暴力はっ!」
「わたし、以前に球速を測ったことがあるのです。確か、130キロほどでした」
『パンッ!』
長靴がレーザービームのように、直線を描いて投擲された。ママの顔面に直撃。衝撃のあまり、ママは後方へ吹き飛び、地面に仰向けで倒れた。
「匁ちゃん……ごめんね。ユウ、本当は知っていたの。……神門のことも、ママのことも、だけどね」
「幽さん、お話の途中で申し訳ありませんが、逃げますよ」
「……へ?」
辺りを見回すと、ユウたちを囲んで人が集まり出していた。帰宅ラッシュの時間にこれほどの大声と物音を出してしまったのだ。注目を浴びないはずがない。
幽霊部が無法なのは、あくまで学校内だけだ。
それを勘違いして、警察のお世話になった先輩が一人いたのを覚えている。
ユウが戸惑っていると、匁ちゃんはユウの体を持ち上げて、高瀬さんの車にダイブした。
シートベルトを閉める間もなく、車は一目散に走り出した。行き先は知らない。だけど、匁ちゃんとならどこへでも行ってみたい。
遮られた話を続けようと匁ちゃんの方を見ると、血に塗れた手のひらが。
「……えっ、匁ちゃん、その手どうしたの!?」
「名誉の負傷です。幽さんはあまり気にしないでください」
気にしないなんてできない。だって、ユウのために負った傷だもん。
「……一緒に病院に行くの」
「幽さんは別に」
まだ匁ちゃんは神門との約束を守ってくれているんだ。もうその必要はないのにね。
「ううん、足の怪我を直さないとね。神門が痛がっちゃう」
――、オレのこと、気づいていたのか?
「当たり前でしょ。神門はユウの子供なんだから、気づかないわけないじゃん」
――、……ユウの方が子供さ。
「もー、神門の意地っ張りめ。じゃーカッコつけの神門のために、言い方変えてあげるの」
――、言い方?
「うんっ、神門はね、ユウのヒーローなのっ!」
――、……ッ、もちろんさ!




