13 シャワー
「ユウにオレがお願いしたことは言わないでくれよ。あの子の中で、オレは創作の登場人物でしかない。ただでさえオレが居るせいで脳のキャパシティが狭いっていうのに、無益な悩みは増やせない」
神門さんに有り合わせの食材で作った豚汁を振る舞ったので、お姉ちゃんの愛用しているシャワールームへ行こうとしたら、背後から釘を刺すように言われた。
「……分かりました。それら以外の条件はありますか?」
「ないさ。だけど、期限は守ってくれよ……あっと、一つだけあったのさ。出かける日には、松葉杖か車椅子を用意してやってくれ」
学校内ならまだしも、手すりや寄りかかる場所の少ない野外では歩くのが困難で、遊ぶどころではないのだろう。
しかし、遊びに行く場所をわたしが決めて良いと言われると、困ってしまう。近くの遊べる場所といっても、ショッピングモールや繁華街しかなく、テーマパークや水族館といった特別感のない場所ばかりで、子供を遊ばせるには最適解に思えない。
それに、日程はこちらで決めると言ったが、わたしは今日明日で休みを取れるほどスケジュールに余裕がある訳ではない。かといって、金門さんと放課後に遊ぶ約束はまだ果たせていないし、後回しにすればするほど、授業中に金門さんが襲来する可能性が高まる。その度に教室を去ってしまえば、教師のわたしに対する評価が地へと下がってしまう。
どうしようかと悩みながらも、シャワールームの下見を済ませて帰宅し、答えが出ぬまま朝を迎えてしまった。
テニス部が朝練を始めるのを横目に脱衣所へ入り、お姉ちゃんの愛用するシャワールームでお湯を浴びる。すると、カーテンの奥からペタペタと足音が聞こえてきた。その音が聞こえた瞬間、素早くシャワーを止めた。朝練は始まったばかりで、シャワーを浴びに来る生徒はいないはず。
足音が近づき、体を洗っていた手が止まり、胸が早鐘を打つ。
神門さんの情報が正しいなら、お姉ちゃんはこのシャワールームに入ってくるはず。シャワーの音は止めたし、できるだけ気配を消そう。……そしたら、裸のお姉ちゃんが。
極度の緊張からか、体内を廻る血が沸騰し、思考がぼやける。
お姉ちゃんなら、お姉ちゃんなら、お姉ちゃんだったら……。
「あれぇ? 匁ちゃん? おはよー」
「…………おはようございます。金門さん」
崩れそうになる膝に力を入れて、なんとか体勢を立ち直す。
そうだよね。お姉ちゃんは愛用の場所とはいえ、水音がした場所のカーテンを開けるはずないよね。でも、お姉ちゃんがわたしの裸を覗きにくるっていう幻想は楽しめた。
「お姉ちゃんと一緒ではないのですね」
「うん、部長はね。なんか……ね、臥煙ちゃんと走ってる」
金門さんは腕を動かして、走る動作を身振り手振りで表現する。
今のお姉ちゃんは陸上に夢中になのか?
それで昨日、全中陸上の話を持ち出してきたのかな。
ともかく、金門さんの話が本当ならば、お姉ちゃんの走る姿はグラウンドへ行けば見られる。そうと分かれば、早急に着替えてグラウンドへ行かないと。
「でしたら、わたしはグラウンドに…………髪、洗ってあげましょうか? ……えっ?」
目線を下げると、金門さんの一糸纏わぬ姿が目に入った。小さな胸、傷跡、肉よりも強調される骨が、わたしの眼光を抉った。刹那、わたしの口が勝手に動いたのだ。
わたしが自身の優先順位の変化に慄いていると、金門さんは目を輝かせて、
「い、いいの!?」
声を荒げ、抱きついてきた。抱きついたといっても、段差に躓いた金門さんをわたしが支える体制で、だ。
「……いいですよ。それでは、洗うので前に来てください」
「うひひ、やったー!」
「暴れると目に泡が入りますよ」
「ぬっ、それはね……いやなの」
金門さんは手すりに体重を乗せて、目をぎゅっと瞑った。
自前のシャンプーを手のひらで泡立てて、マッサージするように両手で金門さんの髪をなでる。わたしのお気に入りのトイレタリーが、金門さんの肌に合っているようで一安心。そういえばわたし、お姉ちゃんとお風呂に入った時、洗ってもらってばかりだったな。
お姉ちゃんはわたしとお風呂に入るのを嫌がって、静かに脱衣所のドアを開けていたから、お湯が排水溝に流れる音を聞き逃さないように夜を過ごしていた。
だから毎晩、わたしが浴室へ侵入するころには、お姉ちゃんは自分の体を洗い終わっていて、わたしに世話を焼いてくれた。
お姉ちゃんの裸体は、今朝に食べたパンとジャムのように鮮明に浮かんでくる。
適度な筋肉、しなやかな白い肌、首筋のほくろ、歪な形をした足の小指、至る所から垂れるオーラを纏ったお湯、浴室に響く低い声。人の特徴的なシンボルは、脳裏にこびりついて記憶に定着しやすい。
手で触れると、さらに実感する。
痩けている肉、赤く硬い肌、髪の毛で隠されている凹み、ひどく腫れている足の甲、皮がぴたりと張り付いている肋骨、未熟な言葉遣い。
金門さんの肉体は、母親の特徴を表すシンボルで埋め尽くされている。
「この匂い……、もしかして、部長と一緒のシャンプーなの?」
呆然と髪の泡を落としていると、金門さんが口を開いた。
昨日のお姉ちゃんからはタバコの香りしか漂ってこなかったため、肯定はできないが、幼少期からずっと使い続けているブランドではある。
「そう……ですかね?」
「うん! おんなじ柄の詰め替え用をね、服を脱ぐところに置いてきたの」
「……ボトルを持ってきていないのに、なぜ詰め替え用を?」
「ん? 部長が持ってきてって言ったから! でもね、いつもの場所に匁ちゃんがいてね、びっくりしたの。……って、うわぁあ! どうしたの、匁ちゃん!」
お姉ちゃんが、持ってきて……だと? ということは、金門さんはお姉ちゃんと一緒にシャワーを浴びる約束をしていたということ。わたしがシャワールームに訪れるのを少しでも遅らせていたら、お姉ちゃんの美しき裸体を裸眼で見られたのにっ。
その事実が、ボディブローのように痛覚を刺激してきた。脱衣所まで響く会話音を流したせいで、お姉ちゃんがこのシャワールームに入ってくる可能性は皆無。
「どうしたの?」
「い、いえ、問題……ありません。もう一度、目を瞑ってください」
「……?」
硬直するわたしに疑問の目を向けてくるも、その目をシャワーヘッドのお湯で塞ぐ。
ひとまずシャワーを終わらせて、今の時間を記録しよう。お姉ちゃんが分刻みで朝のルーティンをこなしているとは思えないが、一つの参考として大きな価値がある。このシャワールームがお姉ちゃんの愛用している場所と確定しただけ、良しとしよう。
リンス、洗顔等々進めていき、バスタオルで体を拭く。その後、金門さんを脱衣所まで連れてテキパキと着替えさせる。
人の体を洗う、という行為は想定よりも時間が必要で、ドライヤーとメイクを済ましたら、予鈴が鳴る十分前になっていた。
予鈴が鳴り終わる前に教室へ入ると、なぜかわたしに視線が集まってきた。いつものことだが、今日はどことなく不穏な空気が流れている。
こんなピリついたな空気は、何度も経験したことがある。
わたしへの嫌がらせ行為が始まった日。クラスの一軍と形容される男の人の好きな人が、わたしに好意を寄せていることが判明した日。わたしのコーチングを受けたクラスメイトが陸上部を退部した日に漂う空気と類似している。
入学早々、この空気を吸うことになるとはわたしも嫌われたものだ。
フレグランスの香りを撒き散らしながら自席まで歩くと、机の上に茶封筒が置いていた。学生鞄をフックに掛けて、茶封筒の中にある一枚の紙を取り出す。
それは、全ての教科が最高評価となっている成績通知表だった。律儀に、担任からのコメントまで記されている。
「ごぎげんよう、夜灯さん。あなたの今学期の成績は出ましたので、今学期は教室に来なくて結構です」
と、背後から歩いてきた担任から端的に言われた。
「納得できません。わたしは普通に授業を受けたいだけです。幽霊部だからといって、授業を邪魔をするつもりはありません」
「昨日の数学の時間に邪魔をしたのはあなたでしょう。さっ、ホームルームを始めましょう。朝礼の人は誰ですか?」
隣の生徒が小さな声で、
「あの……夜灯さん、ですけど」
「そのような名前の人はこのクラスにいません。みなさん、起立。……教師が起立と言えば、立ち上がることを中学校で習いませんでしたか? 起立っ、……礼、ごきげんよう」
成績通知表を握り、呆然と立ち尽くすわたしに構わずホームルームが進行する。
即刻わたしを、幽霊部の人間を排除しにくるとは。この担任は過去の幽霊部から何か被害を受けたのだろうが、こうも露骨だと仕返しをする気にもなれない。
わたしが教室内に留まっては、鬱屈とした空気も晴れないだろう。
皺のできた成績通知表を茶封筒に入れて、学生鞄を手に、教室を出る。
朝のお知らせの声がドア越しに聞こえてきた。
春の冷えた風が吹き乱れる廊下は湯冷めさせるのに十分で、いくつかの教室から、うっすらと響いてくる生徒の笑い声は孤独を感じさせる。
やけに、窓の外で舞う桜の花びらにピントが合う。
……そうだ、時間ができたから、金門さんを誘って遊びに出かけよう。夜は予定があるから、近場の……あそこのショッピングモールにしよう。そこのテナントでサイン会をしたことがあるから、店の配置は覚えている。子供が楽しめそうなゲームセンターや、駄菓子屋があったはずだ。
お姉ちゃんは、まだ走っているのだろうか。……今からグラウンドに行くのは、もう遅い。金門さんは一人で部室へ帰れただろうか……。いつまでも廊下に立っていないで、部室に行こう。金門さんと、神門さんとの約束を果たすために。
そう決意し振り向いた時、教室の窓越しに、わたしを吹奏楽部の体験入部へ誘ってきた少女と目が合った。しかし、瞬きする間もなく、視線を外された。
そんな些細なことで心情を揺らされることは、お姉ちゃん以外の人で今までになかった。金門さんと関わり始めたせいで、おかしな道筋へ足を踏み入れたのかもしれない。
両手で視界を塞いでも、脳裏に浮かぶのは今朝の金門さんの微笑ましい表情。
「歩こう、とにかく……部室まで」
自己理解を深めないために、足を動かすことに集中する。
部室へ行くまでの途中に、高瀬さんと電話をして車椅子の手配、ショッピングモールまでの送り迎えを頼もう。金門さんの著書を出版している出版社にも話を通しておかないと。
「……ふぅー、……ふぅー」
早く歩いているだけなのに、息が切れてきた。……駄目。立ち止まったら、立てなくなるよ、わたし。部室までは踏ん張って。みんなから嫌われても、わたしにはお姉ちゃんがいるでしょ。恋しい恋しいお姉ちゃんが、わたしにいるんだから、みんな嫉妬してくるだけでしょ。…………そうでしょ……そうだよ。
息を整えるために、その場に膝をつき、学生鞄を置いて中を漁る。化粧水やら筆箱やら、ポーチやらを廊下に散乱させながら財布を見つけ、その中から一枚の写真を取り出す。
あった、お姉ちゃんの写真。
昨日隠し撮りした、夕日を背にタバコを嗜むお姉ちゃんの写真を眺めながら、部室に捨てられていた吸い殻の入ったジップロックに、顔を埋める。
「……んんぅー、芳醇な香り。お姉ちゃんの、唾液の匂い」
すると、目の前にお姉ちゃんが現れたような気がして、乱れた精神が落ち着いてゆく。
まずは高瀬さんに電話しよう。




