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幕間その2

 

 あなたの笑った顔を正面から見ることは、ついぞ叶わなかった。

 あなたに助けられてからの数年間。あれほど肌が傷んで、歯を噛みしめて、声を荒げて、喜びを分かち合える人ができるだなんて思わなかった。

 塔の中で幽閉されていた頃の私に伝えたとしても、朝に見る白昼夢の月のように、信じられないだろう。私があなたに追いつくことは不可能になってしまったが、あなたの夢を諦めるつもりは毛頭ない。

 あなたは口癖のように、私の頭を撫でながら何度も哀愁漂う声で呟いていた。


「オレは恵まれすぎていたのさ。それは罪ではないが、悪である。オレはいつか、オレよりも恵まれた存在に教えを乞いたいだけなのさ」


 その言葉を聞くたびに、私は胸を痛くした。

 人間であるあなたは魔女である私よりも短い生涯で、背中に多くの業を背負ってきたことが明らかだったからだ。結局、別れの日にもわたしはその言葉に返事ができず、あなたの死に目に涙を流すことしかできなかった。

 動くことのない手を握り、三日三晩泣いた私は決意する。

 生涯をかけて、あなたよりも恵まれた存在になってやると。

 知力、財力、能力、全てにおいて恵まれていたあなたを、永年かかろうが、わたしは超えてみせてやる。

 だから、それまであなたには会いにゆけない。

 あの世というものがあるのなら、その日までずっと、ずっと待っていてほしい。

 あなたが生きた世界よりも、沢山の世界をあなたに教えてあげるから。



 どれほど走っただろうか。どれほど体の痛みを我慢すれば良いのだろうか。どれほど贖罪すればこの罪をなくせるのだろうか。

 家から逃げて清廉高校へ向かう時、オレの心は土砂降りだった。

 もう少し、きちんとした助言をしてあげるべきだった。肉体的、精神的に深い傷を負うまで、オレが庇ってやれなかったんだと悔いてばかりだ。

 一瞬でもユウが幸せになったばかりに、オレの存在が薄くなった。そして、取り返しのつかない場面でしか、代わってやれなかった。


 これほどの無力感を味わうと、人ってのは死にたくなるのか。

 清廉高校への道のりは長い。歩いて一時間は必要なほど。


 しかも、それはこの体が万全の状態での話だ。喉の渇き、節々の痛み、空腹、周囲からの視線。全てが相まって、SAN値が削られている。


 破れた制服から見える恥部を隠す余裕はなく、寒風が肌に触れて、微かな体力をも奪う……顔と体に付着するあいつの血も固まって、気分は最悪。いくら走っても、体は凍えたまま。それに……後ろからは聞き慣れたくなかったエンジン音。


 振り返るなと念じても、体は真実を明らかにするために動いてしまった。

 足を止めて、振り返る。

 やはり、


「くるか……化け物め」


 運転席には、必死な形相でハンドルをがっしりと握り、法定速度を無視して爆走している母親の姿が。

 傷を負った男を放置してまでオレを捕まえにくるとは難儀なものさ。


 まだ距離はある……が、油断は禁物。車が入れない路地裏を通るしか選択肢はない。しかし、大通りからはまだしも、路地裏から清廉高校へ辿り着けるだろうか。


 迷うな、即刻決断、歩みを止めるな。辿り着くしかユウに未来は残されていないのだ。不幸中の幸いか、家の中でも長靴を履いていたおかげで、荒い道も歩ける。


 生い茂る草木を分けて、人二人分の隙間しかない路地裏に長靴で踏み入れる。母親が車を捨てて追いかけてきたら逃げ場はないが、町内に響くエンジン音がその可能性をなくしてくれた。

 たらればを言う性分ではないが、つい、考えてしまう。


 学校司書に相談できていれば、と。男に襲われる前に幽霊部へ行けたら、と。母親が書いたのではなく、オレが書いたと週刊誌にでも垂れ込んでいたら、と。ユウの幸せを壊してでも、強引にオレが表に出られたら、と。

 青々とした空を見上げると、自然と涙が溢れてしまいそうで、瞬き。地面を見て歩く。


 なんとか……なんとか路地裏を抜けて清廉高校まで直線距離となったが、賑やかな校門の反対車線に、あの車があった。


 どうして? と、思ったが、あいつの近くには交番があった。そこに駆け込んだところを捉えるつもりなのだろうか。


 ……だからお婆さんは幽霊部を頼れと言ったのか。

 勝負は一瞬。この信号が青に変わった時が正念場だ。

 多くの学生やその保護者が待っている交差点、この体で人に紛れてもすぐにバレてしまう。


 ……だから、青に……今だっ!


 信号が青に切り替わった。刹那、路地裏から飛び出して全速力で走る。屋上まで駆け上がる体力は考慮せずに、ひた走る。学校の敷地内にさえ入れれば、あいつは追ってこられない。入場チケットがなければ保護者だろうと入れないのだから。


 衰弱し切った体には人にぶつかりながらも前へ進めるほどの力は残っていない。

 歩くのに、話すのに、スマホを見るのに夢中な人混みを縫って走る。

 オレの体が先頭に出ると、背後から悲鳴が聞こえた。……それで母親も気がついたのか、慌てて運転席から出る姿が見えたが、この距離なら追いつかれまい。


 そう安堵してしまった時、叫び声が聞こえた。


「その裸の子! 私の子供よ! 怪我をしてるの! 危険だから捕まえて!」


 クソッタレな叫び。

 反論したい気持ちを押し殺して走るも、校門前にいた生徒が、オレの進行を妨げようとしてきた。……ッ、事情を知らないお前たちのその判断。


「…………死んでしまえっ」


 止まることはできない。避けることもできない。失意の中、生徒の群れに突っ込むと、


「君、クリスマスの時期にその格好は寒いだろう。それに……」


 目を開けると、校門の奥から出てきた、他の生徒の着ている制服とは真逆の色をした制服を着用している女生徒の胸に抱き寄せられていた。


「頼むっ、オレを、幽霊部のところまで連れて行ってくれ。あいつの言うことはでたらめだ。オレは、ユウは……あいつから逃げたいんだ! ……後生だ、頼む。……オレはこの子に、これ以上の苦痛を与えたくないのさ」


 なんて醜いのだろうか。涙ながらに、泥と汗と血を引っ提げて、年端もいかない女生徒に縋るオレの醜態を、あいつには見せられない。


 だけど、こうでもしないと。……どうにかお願いを訊いてもらわないと、あんまりにもユウに救いがないじゃないか。


「ユウは、とっても良い子さ。オレの考えがこれほどまでに稚拙でなければ、もっと、もっと有意義で楽しく、思い出して懐かしめるような記憶を作れたはずなのにっ! オレがユウを、ほったらかしにするような悪しき人間だったばっかりに、こんな目にっ!」


 口から出る言葉を塞き止められなくなっていると、女生徒は軽々とオレの体をお姫様抱っこし、オレの胸に脱いだブレザーを被せた。


「……君は頑張ったんだな」


 そう告げる女生徒の目は、晴天よりも煌めいて見えた。


「安心しろ。私がその幽霊部の部長だ。君の現状がどうであれ、この学校の敷地内では幽霊部は無法であり、認識されない。無論、私に触れている君もそうなる」


「せっかくの楽しい場に……申し訳ないのさ。オレがきちんと、やれていれば」


「そう悲観することはない。悔いたところで時間は戻らないのだから」


 オレに宿る懐疑心は反応していない。……なぜなら、この女生徒の瞳は覗いていられないほど、高貴に満ち満ちているからだ。


 オレを抱くこの温もりこそが、オレがユウに与えるべき優しさだった。こんな単純なことに、今気づいたところで……いや、そうじゃ、ないだろう。


「……オレを、幽霊部に入れてくれ」


「無理だ」


 即答。当然か。こんな同情話しか持ち得なそうなしょぼくれた少女は、幽霊になる価値がないと。


「ところがどっこい、無理じゃないのさ。非凡なる才能だろ? なら、ユウは該当する」


 屋上へと階段を登っていた女生徒の足が止まる。


「……話のニュアンス的に、君とユウという人物は他人ではないのか」


「ああ、他人は他人だが、同じ肉体に住んでいるのさ」


「切り替わるタイミングは?」


「お生憎様、そのタイミングは分かっていない。……だが、才能は保証するのさ」


 オレの言葉に女生徒は迷うも、がやがやと賑わっている教室に目をやってから、再び歩き出した。


「その才能とやらを私が今日中に知れば、私の判断次第で幽霊部に入れてやれる。だが、それが叶えば元の生活には戻れないぞ」


「戻りたくないから、死んで幽霊になるんだろ?」


「……そうだな」


 女生徒にも心当たりがあったのか、小さく頷いた。


「突然変わっても邪険にせず、優しく接してやってほしい。……できれば、頭も撫でてやってくれ」


「……どうして君は不幸を肩代わりさせた原因に優しくするんだ?」


「幼い子供はヒーローに憧れる者であり、母親の幸せを願う者さ。生まれつき標準装備されたものに理由なんてない。……それじゃあ、オレは……眠るの、さ」


 おそらく、ユウの精神は、もう……いや、邪推するのはやめておこう。

 ユウの記憶に残した母親に関する記憶は、プレゼントされた長靴、小説の賞を受賞し、頭を撫でられた記憶のみ。母親との間で生まれた幸福な出来事は、それだけだった。


 オレはユウの受ける痛みを肩代わりできるが、頭は撫でてやれない。でも、オレ以外なら、この子にしてやれる。だから……、


『ドーーーンッ!』


 けたたましい爆発音で、目が覚める。


「新田君の爆弾か……、怪我人を出さなければいいが」


 うわー、かっこいい人。……あれ? ユウ、さっきまでママと一緒に居たはずじゃ。ユウ、迷子になってママを困らせてるかも。


「ねぇ、お姉さん。ママがどこにいるか知らない?」


「君が……。ああ、知っているよ。でもね、お母さんの元へ行く前に、君に訊かないといけないことがある」


「なぁに?」


「君は、お母さんのことが好きかい?」


「うんっ! 大好きっ! だってね、ママはね、いつもね……ユウと遊んで……」


 どうしてだろう。ママと遊びに行ったって記憶はあるのに、どこに行ったのかは靄がかかったように思い出せない。


 それに、ママ以外にも……誰か、いたような。


「質問を変えようか。……君は、幸せになりたいか?」


「……駄目だよ。ユウはね、ママを困らせちゃう悪い子だからね」


 ずっとずーっと言われ続けた、この言葉。


「ママを困らせるユウはね、……幸せに、なっちゃいけないの」


 どうしてか、ママに言われ続けた言葉を自分の口で言っただけなのに、泣いちゃいそうになる。ねぇ、――。


「君の友達がね、君の頭をこうやって撫でてやってくれと、私に頼んできたんだ」


 人に撫でられるなんて、ユウ……どうしちゃったんだろ。我慢、得意なはず、なのに……ずっと、耐えてきたつもりだったのに。


「ママ……ママァ、一人はやだよ。うっ、うう……ああぁぁあ」


 人の体温って、こんなにも温かいんだね、神門。……そうだ、神門だ。神門がユウのことを、一人ぼっちから助けてくれてたんだ。


「最後にもう一つだけ、……君が捨てる人生はどんなのだい?」


 捨てる……人生?


「……ユウはね。小説、書いてたの。……神門っていう、かっこいいヒーローがね、囚われのお姫様を助けきてくれるお話のね。……お姉ちゃん、知ってるの?」


「その小説とやらは、まさか……あれかい?」


 お姉ちゃんが指差した窓から見えるビルの大きな広告。そこには、映画化決定のロゴと、決めポーズする神門が描かれていた。


「そうなのっ! あれがね、神門っていうの!」


「初版は二年前なはず……時系列的に、この子が十二歳のころの作品か。……確かに、それは非凡といえるな。認めてやろう。……君は新たな幽霊として、この場所に留まれ」


 お姉ちゃんが屋上のドアノブを回す。


 秋の風が吹き乱れ、三原色の花弁、色彩豊かな花壇、波紋の広がる池、けたたましい爆発音に、白い煙が立ち昇る。


「……部長! 新田のやつが池の中に爆弾仕掛けやがって……誰だ? そいつは」


「新しく仲間になる子だ。新品の幽霊部の制服と暖かい飲み物を用意してやれ」


 近くのベンチに体を置かれ、かっこいいお姉ちゃんはどこかへ行ってしまった。追いかけようにも、なんでか足が動いてくれない。


「ったく、またタバコ吸いに行きやがった。……で、あんた、名前は?」


 ユウが苦手なちょっぴり不良っぽい女の子に話しかけられて、萎縮しちゃう。だけど、仲間だって言われたの。だったら、自己紹介しないといけないよね……神門。


「ユ、ユウは……金門、幽。こっ、これから、よろしくお願いしますっ」


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