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11 金門幽その1

――オレがこの体に宿った明確な日は覚えていない。


 ユウの夫婦は険悪と呼ぶのに相応しいほど、仲が冷め切っていたのさ。父親は真面目なサラリーマンだったが、給料は平均、母親は専業主婦とは名ばかりの遊び人だった。

  

ユウが生まれてからも家事や育児を手伝おうとしない父親に、母親がヒステリックを起こす回数が増えて、父親の我慢も限界に達したのさ。


遊び歩いてばかりいるお前に責められる理由は俺にない、って父親がキレて、ユウが中学生になったタイミングに、離婚を切り出された。


 収入源のない母親は絶対に離婚届に判を押さないと、強情な態度を示していたが、不倫の証拠を突き出されて、態度が急変。父親に慰謝料を請求されたくなかったら離婚しろと言われ、母親は渋々判を押したのさ。

 父親はユウに対して何の感情も持っておらず、ユウは母親に付いて行き、見知らぬ大人の男性の部屋に移り住むことになった。


埃っぽく、電球の明かりも薄い、三人で住むには狭いボロアパート。


「私の子供。まぁ、気にしないでよ」


「気にすんなって言われても、ここ、俺の家なんだけど」


「大丈夫よ。ねっ、幽はママを困らせるような悪い子じゃないもんねー。ってゆーか、そんなことより、大金が手に入ったから旅行でも行こーよ」


「まじ!? 全部お前の奢りだかんな。……ガキ、家のもん壊したらわかっとーな?」


「…………」


「こいつ……わかってんのか?」


「いいってば、構わないで。……はぁ、愛想が良くない女の子ってほんと可愛くない」


 母親は財産分与で得た金を使い、後先考えずに男と遊び呆けて、ユウの世話なんぞ一片たりとも焼かなかった。


 当時のユウは気弱な性格で学校に友達はおらず、図書館で借りた本を読むことで暇を潰す毎日を繰り返していたが、いつしか図書館の蔵書を読破してしまった。


 現実逃避する道具が無くなったユウは、放課後の図書館で一人、自分で創造した空想の世界の物語を紡ぐようになった。それがオレの生まれ故郷なのさ。


「ねー神門、ユウがそっちの世界に行く方法ってないの?」


 ――、ないのさ。家族が嫌いなら学校で友達を作ればいいじゃないか。


「ユウと遊んでくれる人なんていないもん」


 ――、人生ってやつは一人で生きて行くには退屈すぎるのさ。


「神門はどうなの?」


 ――、……お姫様がいたのさ。鈍臭くて、潔癖症で、オレの後ろを付いてくるだけの役立たずだったが、あいつのおかげで、オレの体内時計の進みは早くなったのさ。


「その子……どんな子なの?」


 ――、その答えの前に、来客だ。


「こんにちは、金門さん。今日はどんなことを神門さんと話していたの?」


 さっきまで受付の席に座っていた学校司書が隣にやってきた。


「ユウが神門のいる世界に行けたら、もっと楽しいのかなってお話していたの」


「それはどんな世界かしら? ドラゴンがいたり、魔法が使えたりするの?」


「んっとね。悪い魔女が特殊な血筋を持っているお姫様をね――」


 ユウは人見知りするタイプだが、毎日のように顔を合わせている学校司書とは吃ることなく会話ができる。学校司書も、ずっと一人で独り言を呟いているユウのことを心配して、週に何度か話しかけてきたのさ。


「あら、話していたら閉館の時間ね。……それと、賞はどうしよっか。もし、金門さんがやりたいのに親御さんの許可が取れなかったら、私からもお願いしに行こうかしら?」


「……ママはたぶん、忙しいから。……かっ、ユウは帰らないと。ありがとうございます。また明日も来ます」

「そっか。じゃあまた明日ね、金門さん」


 太陽が沈み切る時間。猫の夜目に怖がりながらも、ボロアパートへ歩く。未成年の帰宅を促す鐘の音が町内に響いている。その音に重なるように、自転車を押して笑いながら歩く、ユウと同じ制服を着た五人組が反対車線に見えた。


「ユウも、あんな友達が欲しいな」


 ――、環境が変われば、あいつらも離れ離れになるのさ。


「それでも、ユウは一人が嫌なの」


 ――、ユウはあの連中を羨んでいるが、将来性は圧倒的に優っているから気にするな。


「知らない人のことを悪い風に言うの、ユウはあんまり好きじゃないの。それに、小説で賞なんか取っても、友達はできないんだもん」


 ――、今はな。だが、長い目で見れば、きっとユウを取り巻く環境は変わるのさ。

 入学してから一日たりとも欠かさず図書館に通ったユウは、学校司書に勧められて、とある新人賞に応募する作品を書いた。その内容はオレの自伝だったが、するりと入選。未成年であるユウは出版するのに保護者の許可が必要だが、未だに母親に打ち明けられていない。


 今日こそはと玄関のドアノブを回しても、母親が出かけていたり、襖一枚隔てた奥で揮発性の高い声を出していたりと、言い出せない状況が続いていた。


 ――、ユウが言えないなら、オレが代わりに言ってやろう。


「ダメだよっ、神門じゃ、絶対に余計なこと言うもん」


 ――、もちろんさ。あいつに対して我慢している言葉なんぞいくらでもある。


「これ以上、ユウはママに嫌われたくないの。だから、家では大人しくしといてね」


 ――、向こうも待ってはくれない時期になっているのは、くれぐれも忘れるな。


「……うん」


 鍵は、掛かっていない。……こういう時は大抵、やっている最中だ。

ドアを開けると、やっぱり聞こえてきた。気持ち悪い。親の最中の声なんて、本当に慣れてくれない。


 扉の開閉の音でユウが帰ってきたのはわかったと思うけど、できるだけ忍び足でユウの聖域に移動する。この、畳一枚に敷き詰められた学校の教材と学生鞄に、制服と下着。この家で、ユウが居られる場所はたったの一畳。


 だけど、水道水を飲むのとトイレに行くのは許されている。お腹が減れば、持って帰ってきた給食のパンを食べて凌ぐ生活。ユウと同じ境遇の子よりもましな生活をできているから、悲観するは他の子に失礼だ。

 その場に足を畳んで、学生鞄から本を取り出して、ぎゅっと抱きしめる。


 ユウに勇気を頂戴。ママに言うの。悩むようなことじゃないの。新人賞を取ったから、本を出版する許可を頂戴。たった一文をお願いするのに悩むのは時間の無駄なの。


 襖の奥が静かになるのを待っていたら、寝てしまっていた。起きると、テレビを見ながら化粧をするママだけで部屋に男はいない。


好機と思い、学校で印刷した新人賞受賞の知らせの紙を母親に見せにゆく。


「ママっ、ユウね。小説書いてね。賞、取ったから許可、頂戴っ! 保護者の許可がないと、ユウは未成年だから許可がないと駄目なの!」


 緊張のせいで、想定よりも言葉が詰まる。呆けた顔でユウを見るママは、差し出された紙を手に取って。


「へぇー、あんたこういうの出してたんだ。いいんじゃない? まー、判子がいるなら自分で用意してね」


「う、うん」


 意外にも簡単に認めてくれた。


「……じゃー、留守番よろしくねー」


 ママはコピー用紙をぽいっと投げ捨てて、ブランド物の鞄を手に家を出ていった。窓から覗くと、男が愛用している車にママが乗り込んで走り去ったのが見えた。

 自分の聖域に小走りで戻り、勇気をくれた本に笑みを向ける。


「や、やったの! 神門ッ! 許可もらえたよ! 言ったよね、ユウならできるって」


 ――、まだ口約束の段階なのさ。それに、オレはユウが喜んだ余韻が大好きでね。


「なにそのカッコつけた言い回し。ほんと、神門ってばユウのこと大好きなんだからっ」


 ――、ともかく、学校の時間なのさ。あのお婆さんに報告しに行こう。


「司書さんはお姉ちゃんだよっ。それ、司書さんの前で言ったら神門のこと嫌いになるからねっ。いひひっ、学校行く準備がこんなに楽しいの、久々かも!」


 そう言って、家から駆け出した。

見慣れた景色は目まぐるしく変化する。

ユウの口から漏れ出す笑い声を聴けて、オレも満足だったのさ。


 その日の放課後、許可を得たことを学校司書に報告した。


「あのねっ、ママが良いって言ってくれたの!」


「賞のことかしら? よかったわ、心残りがなくなって。……あとのことは、きちんと親御さんと話し合うのよ」


「心残り? ……司書さん、辞めちゃうの?」


「契約期間が今学期までだからね。でも、金門さんの才能を間近で見られて幸せだったわ。金門さんの本が出版されたら、すぐに買って読むわね」


 ユウの唯一の拠り所がなくなると思うと、浮き足が地面に落ちた。あれほどまでに飛躍したテンションも、目線と共に下がり続ける。


「……神門さんにこう伝えて、もし、本当に誰かに助けを求めたくなった時は、警察や児童相談所ではなく、高等部の屋上庭園に住む幽霊部を頼りなさい、って」


「幽霊部って、あの?」


「そうよ。金門さんにはそこに組みせる能力があるわ。といっても、最終手段の一つと考えてね。あそこ、周囲からの扱いが最悪な場所だから」


 そうして、今学期の終わる十二月までの間、学校司書のお婆さんとの会話を楽しみ、感謝を述べて、終業式の日に今生の別れをした。


 それからの日々は忙しかったに尽きる。銀行口座の開設、母親と一緒に編集者との打ち合わせ、母親と一緒に受賞パーティ、店舗ごとの特典制作、学校の勉強などなど。幸い、部屋に住む男に邪魔をされることなく、順調に事は進んだ。


 初めて印税が入った週の土曜日。そのお祝いとして、母親と二人でとあるショッピングモールへ訪れた。


「ユウ、今日はずっとママと居られるの!?」


「だって初の給料日でしょ? そのお祝いよ。ほらっ、なんでも好きなの買ってあげるわ」


「うへへー、じゃあ。……イチゴジュース! イチゴジュース飲んでみたい!」


「はいはい、走らなくてもお店は逃げないから」


 よくある家族の日常を、ユウは目一杯に堪能した。母親の態度は終始男といる時よりもつまらなさそうに見えたが、それでも、ユウは自分のために時間を使ってくれることに喜んだのさ。


 それから昼食、ゲームセンター、アパレルショップ、最後に靴屋。学校に履く用のローファーしか持っていないので、一足くらいはかわいらしい靴が欲しいお年頃なのさ。


 新しい服はいらない。だって、買っても洗濯機は一週間に一回しか回せないから。

 ピンクの靴、憧れのハイヒール、厚底に、ブーツ。どれにしようか迷いに迷っているユウに向かってママが、


「この長靴、あんたにピッタリじゃない?」


「じゃあね、ユウはそれにするっ!」


 自分の好みよりも、ママが選んでくれたものを優先する。

 だって、ママがユウにオススメするなんてこと、初めてだから。


 ローファーを脱いで、買ったばかりの長靴に履き替える。

長靴を履く時って裸足なのかな。それとも、靴下は履いたまま? よくわからないけど、汚したら嫌だから靴下は脱いで履こう。


「晩御飯はどうするの?」


「それまでには帰るわよ」


 もしかして、ママが作ってくれるの!?


「だって、あの人との予定があるもの。……あんたは惣菜か、どっかの持ち帰りよ。もうこんな時間だし、夕飯買って帰りましょ」


 ……やっぱり、ユウはあいつよりも優先順位が低いんだ。……でも、いいの! 今日はとびっきり甘えられたし、初めてのプレゼントも貰ったからこれでいいの。


 帰宅途中、助手席から運転するママを眺める。トントンと、ハンドルを指で叩き、リズムを取る姿が妙に記憶に残った。アパートの前に停車すると、あの男が助手席のドアを開いてきた。


「ういー……なんかポテトの匂いすんだけど、もしかして俺へのみあげ? さんきゅー」


 と、ユウの膝に乗せていた紙袋に手を突っ込んできた。無神経に弄るその手に嫌悪し、つい、毛むくじゃらな腕を叩いてしまった。


「……ってーな、ガキ」


「もー、子供のしたことでしょ。そんな怒んないでよ」


「でもよー、こいつ俺のポテトをよー」


「ったく、ほら、あんたもさっさと降りて。……それはあんたの晩御飯じゃないでしょ」


「えっ……晩御飯だって、ママが買ってくれたんじゃ」


「あんたは家にあるもん適当に食べればいーじゃない。ほらっ、さっさと退いて」


「つーことな。あっ、あときちんと鍵掛けとけよ」


 ユウの晩ごはんだったものは男に奪われて、座っていた助手席も男に奪われて、アパートに一人残ったユウは長靴を履いたまま聖域で正座する。


 ――、雨を降らせようか?


「こんなことでユウは泣かないよ。神門は、ユウのこと……子供だと思ってる?」


 ――、大人にだって泣きたい日はあるさ。だが、そんな日に無遠慮に涙を流せるのが子供の特権だ。


「……だって……だってね。ユウのお祝いなのに、ユウのママなのに、あいつばっかり優先して、ずるいよ。ユウだってママともっと遊びたいよ。…………うぅ、お腹、減ったの」


 ――、満腹になれば、気も安らぐだろうさ。


 しかし、部屋を探しても食料になるものがない。米を炊こうにも米がない。冷蔵庫を開くと異臭がする。銀行口座は母親が管理しているため、現金やカードは手にない。


 まぁ、明日か明後日には帰ってくるだろう。そう楽観視したツケが回ってくることを知らずに、夜は新品の匂いがする長靴を抱いて過ごした。


 土曜日、帰ってこない。水道水と、砂糖を舐めて過ごした。


 日曜日、帰ってこない。水道水と、砂糖と塩を舐めて過ごした。


 月曜日、学校だ。給食をおかわりするのは、想像したよりも恥ずかしくなかった。それよりも、授業中にお腹の音が鳴るのが恥ずかしかった。


 火曜日、学校だ。新しい司書さんが来た。でも、話しかけるのは怖いから、話しかけてきてくれないかな。……今日も、ママは帰ってこない。


 水曜日、やっと帰ってきた。ちっちゃなパソコンをママから貰った。書いた。作品できたら、ママに送る。そしたら、頭を撫でてくれた。よくやった、って。


 それから、それから――。


 映画化が決まった……よう? 大人の人に取材された。ママが書いた作品の感想はいかに? って、訊かれた。ママが、書いた? ドッキリかなと思ったけど、その日のうちに、テッテレーという効果音と共に、ドッキリと書かれたプラカードは現れなかった。


 そして、そして――。


 書けなくなった。文字を打とうとすると、涙が出てパソコンの画面が滲む。書けなくなってからの一年間、学校に行くことを禁止された。だから、体重が減った。ママの怒った顔、眉間に皺を寄せて、喉ちんこが見えるほど口を大きくあけて、甲高い叱責。


 内容は覚えられなかったけど、たぶん、神門は覚えている。


「……はぁ、一体どうするのよっ! 新しい車のローンとか、もっと綺麗なとこへ引っ越ししようって考えてたのに、あんたが書かなくなったら誰が稼ぐのよっ! ママを困らせる悪い子に育てたつもりはないわよ!」


「ママを、困らせる? ママが、……ママが働けば……いいじゃんか。それに……お金を無駄に使ったのはママでしょ!」


「違うわよっ!」


「違わない! ママはユウの稼いだお金、全部あの男と使って、馬鹿じゃないの! びっくりしたの! ……通帳の中身、ユウ見たよ」


「なっ! なんで勝手に見たの!?」


「勝手じゃない! あれは全部、ユウが頑張って、ずっとずっと書き続けた結晶なのにっ! 神門と一緒に紡いだ結晶なのにっ! ぜんぶっ! ユウは、お金を稼ぐ道具じゃないのに!」


「……うるせーな。おいっ、まだ話おわんねーのか」


「だって、この子が言い訳ばっかりするから」


「言い訳? ……してるのはそっちじゃんか!」


「おいおい、自分の母親にしちゃいけねー言葉遣いってもんがあんだろーが」


「……ッ! もういい、ユウ、警察行くの」


「なっ、そんなん許すわけねーだろっ!」


 男から逃げるため玄関へ走るも、床に転がっていたビールの缶に躓いて、前屈みに倒れてしまった。長靴のせいで体勢を取り戻すのが遅れ、男に両手首を掴まれた。


 臭い、加齢臭が、荒い息遣いが、汚い毛穴が、掴まれた腕が、痛い。でも、ママは助けてくれない。どこかに電話している? 娘が抑えられている状況で?


「ヤッ! 痛い! 離してッ!」


「なー、前に言ってた客、今日からでもいけるのか?」


「ええ、まぁ、この子が書けないなら書けないで仕方ないわよ」


「へへっ、そうよな。まぁ、仕方ねーってやつだよね」


「なにっ、それ……客? なんのこと?」


「中学生の処女だと二十万も出してくれるらしいぜ。いやー、ありがてぇ。おれらのために出稼ぎしたい! なんて言ってくれるとは涙が出てくる。……おっと、出るのは白くねー涙だけどよぉ。ガハハッ!」


「ねぇ、制服を着てれば報酬は上乗せするって」


「まじ? じゃー、そういうことな、大人しくしとけばすぐに終わるから、なっ」


 片腕が外れた。ごつごつと骨張った手が、胸に触れる。

 声にならない嫌悪感が脳に広がった。

 足蹴しても、顔面を殴っても、この男は意に介さずユウの服を脱がしてくる。

 畳の草が背中に擦れる。


嫌だ、嫌だ嫌だ。

 なんで、ママは見てるだけなの? 助けてよ。娘が襲われてるんだよ。……なんで、スマホを構えてるの? 嫌って言ってるじゃん。やめてよっ。


 空いた片手でそばにある、何かを掴んだ。すがる思いで、それを男の顔面に向かって突き刺す。


「があっ! ッタァ! イッテェエアアァァ!」


「ちょっと! 何してんの!」


 手にはゴキブリを潰したような生ぬるい感覚が広がった。目を開けると、片目にボールペンが突き刺さり、悶える男の姿が。


 この隙。


 この隙しかないのに、体が震えて動いてくれない。手に広がる生物の刺した感触が、呪いのように体全体に駆け巡る。生暖かい血が、生臭い匂いが五感を刺激し嗚咽するも、お酢の味がするだけで何もでない。違う、口に入った男の血液を吐いていた。


 立ち上がろうとしたところで、背後からのしかかられる。そして、首を片手で掴まれた。開かない瓶の蓋に掛けるのと同等の圧力によって、締め付けられる。


「……っ」


 顔に降り注がれる醜悪な血液が、ユウの心を蝕んでくる。酸欠で意識が朦朧としているのに、人を刺した感触が、わたしの精神を壊そうと躍起になっている。


 こんなクズを刺したのに、なんでこんなに嫌な気持ちになるの?


「絶対に、殺して……やる」


「痕つけないでよ! この子にはまだ稼いでもらわないといけないんだから!」


「かぁ、っ」


 息が、できない。……お腹も減ったし、力も入らない。

頑張ったよね、ユウ。人として生きようって頑張ったのに……なんで、こうなるのかな。……ごめんね、神門。ユウが、ちゃんとしてれば、良かったのに。


――ユウは、悪くない。これほどまでに悪化した現状を変えられなかったこのオレが、悪しき人間なのさ。


「ユウでいるのは、……おしまい、さ」


 薄れてゆく意識の中、足を振り上げて金的。片目の損失でアドレナリンが出ていようが、男の金的は意識を切断できる。首を絞める腕の力が緩んだので、脱出。逃さないと伸びてくる手を避けて、はだけた制服のまま家を出る。


 背後からの怒鳴り声は激しい。でも、振り向いたら報われない。

 日中、人通りの多い道を選んで走る。


 口に残る血液を吐き出す。あのクソッタレな男の体液が体に入ったと思うと吐き気が止まらないが、そんな暇はないし、吐くものも残っていない。


 上半身裸の、それに血まみれの少女は警察でもなく、役所でもなく、文化祭で楽しげな雰囲気の清廉高校へ全力で向かった。


 そして、入口付近。入場するにはチケットが必要だったが、部長が入れてくれたのさ。まるで、天から救済の糸が垂れてきたように、部長から差し出された手が仏に思えた。


その手に……人の温かさに触れた時に、オレは峠を超えられたんだと、部長の胸で雨を流したのさ。


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