第6回
「あ、あの、ちょっと……」
驚きで爆発的に早まった鼓動と、あまりに飛躍した少女の行為に、一気にのぼせた頭であたふたと少女をなだめようとする。
だが、今の少女は何も耳に入れてはいないのだと気付くと、このまま泣かせてあげようと口を閉じた。
声を押し殺すことも忘れて泣く少女の声が、微風で擦れる涼しやかな葉音も消し去って長い間続く。三百有余年に及ぶ歳月を過ごしてきた経験など少女の涙の前ではきれいさっぱり吹っ飛んで、完全に役立たずの藻屑と化していた。
我ながらこんなに動揺してしまっていることがなんとも気恥ずかしくて、照れ隠しのように夜空を仰いでいたものの、なんとはなし、少女へと目を戻す。
額を押しつけてしゃくりあげている、小さな肩からずり落ちかけている上着をかけ直してやる、その仕草に少女が顔を上げた。
「……ごめんなさい。あなたの服、すっかり汚しちゃって……」
「本当に、思ってた?」
外に吐き出すことでいくらか気を静められたのか、罰が悪そうにうつむく少女に、蒼駕は何もなかったように先の会話を続けようとする。
その優しさに、少女は頷こうとした首を下ろしきることができず、途中で横に振った。
「心強かったわ。全然見たこともない、大きな町へ連れてかれて、同じ退魔師候補生だっていう大勢の子たちと一緒にさせられたと思ったら、すぐここに連れて来られて……。
あたしのいた町って、ここの半分くらいしかないのよ? 人だって、こんなにいっぱいいなかったわ」
「分かるよ」
「レーンだけが、あたしを勇気づけてくれる存在だったの。あの子の前で泣いちゃいけない、怖がっちゃいけないって。あたし、がんばれた。なのに……あの子、いなくなっちゃう!」
少女の震える肩を抱きながら、ああそうか、と蒼駕は思い出した。
そろそろ歓迎式から1ヵ月がたつ。1回目の適性試験が行われたのだ。ここで、大体3分の1が落とされる。
発表はまだだったと思うが……。
「あたし、気になって教え長たちの話を盗み聞きしたの。そしたらレーン、駄目だって。不適合で、なれっこないって……あたしに頼りすぎてるって言うの!
あたしのせいだわ! あたしのせいであの子、退魔師になれない!
町に戻されたら、きっとまたレイたちにいじめられるわ。あいつら、いつもレーンを弱虫っていじめてたもの! あたしのせいであの子、きっとまたいじめられちゃう!
でもあたし、帰れない!
決めたんだもの! 退魔師になったら、家のみんなをもっと裕福にしてやるんだって! あたしが帰ったら援助金だって打ち切られちゃうし、もっと悪くなっちゃう! でも、レーンが……。
あたしはずるい! レーンが一緒に来てくれて喜んだくせに、自分にいいことじゃないと手をひいちゃう。あたしのせいなんだから、あたしがかばってあげなきゃいけないのに……。
あたしだけ、退魔師になるなんて……そんなの、できっこないわ! あたしのせいなんだもの!」
あたしのせいだわ!
その一言に、頭のどこかで何かが弾けた。
「違うよ。きみのせいじゃない」
少女を胸から引きはがし、その目を覗きこみながら断言する。
「きみのせいじゃない。彼には、他にやらなくてはならないことがあるんだよ。きみとは違う、他の誰にもできないことが、彼に与えられていただけなんだ。
それが退魔師ではなかったというだけで、それは彼にとって恥じることではないし、我々が哀れむことでもないんだよ。
退魔師になることが、人にとって一番の幸福であるなどということは、決してないんだから」
ふと、そこで蒼駕は口を止めた。
それは自分とルイスにも、言えることではないだろうか?
人には持って生まれた天分というものがあり、神から定められた役割を持ってこの世に生まれてくる。
ルイスは、生まれながら退魔師となることを神によって運命づけられた少年だった。神より授かった存在理由を知り、それを受け止められた、それは彼にとって一番の幸いではなかったのか?
たとえ死ぬことになっても後悔はしないと、彼は言っていた。人の未来を守って死ねるのだからと、誇らしげに笑っていなかったか?
それは、レーンのような者を守ることだ。自分とは違う、次世代への希望を生み出す者を守護し、未来と現在をつなぐこと。それを何より望んではいなかったか。
「ねえ」
濡れそぼり、まっすぐ覗きこむように見上げる、少女の目が、蒼駕の心を突然現実へと引き戻した。
彼の胸にあてた手に力をこめ、少女はつぶやく。
「あたしが退魔師になるのは、悪いことじゃないのね……?」
「もちろん。きみは、退魔師になるために生まれてきたんだから」
実際には、年に4回の適性試験に常に合格し続けなくてはならず、最終試験までにその数は10分の1近くまで減る。
この少女がその10分の1に残れるかどうかは、それこそ神のみが知ることだが――蒼駕の直感は、きっとこの子は大丈夫だと告げていた。
きっと、すばらしい退魔師になる。
自信を持たせるため、ほほ笑みかけ、自分にしがみついて泣く小さな体を包むようにしてあやしながら、蒼駕は深い感銘を受けていた。
こんなに小さいのに、なんて温かな体だろう。こうして抱いているだけで、わけもなく気持ちが和らいでくる。嬉しさとか、優しさとかで心が満たされてゆく。
そうすると、あれほど自分を長く苦しませてきた考えが、とるに足らないもののようにさえ思えてきた。
何を怖がっていたのか。なぜ自分1人生き残ってしまったことをあんなにも嘆いていたのか。
ルイスは自分の生き方に満足して、散ったのに。
ただ長く生きることが全てじゃないということは、魔断である自分が一番分かっているはずじゃないか。
生きることに必要なのは、ただ続くだけの日々などではなく、世界に存在する意味を知ること。その道を全うすること。それこそが一番の幸い。
自分が生き残ったのは、彼のような者の志しを伝え、継ぐ者を支援するためだ。それこそが魔断の、神より受けた役割。
あの言葉……ルイスも、それを望んでいた。少女のような者を守り、過去を歪めず明日へとつなげることができるのは、自分のような者だけだ。それを、失うのが怖いからと初めから投げていいはずがない。
この温かさを守り、恐れず役割を果たすこと。それこそが自分にとって一番の幸いなのだから。
そうしてより大きな明日を得るために。
深く感じ入りながら少女の髪を流いていた蒼駕の耳に、ルイスの最後の言葉がよみがえる。
『蒼駕、来るな……。
きっと、きみを必要とする者がまた現れるから。その者のためにも、きみは、ここで消えちゃいけない』
――ルイス!
「……どうしたの? 何を泣いてるの?」
自分の頬にしたたったものに気付き、顔を上げた少女が不思議そうに蒼駕のほおに手を添える。
「あなたも何か、悲しいことがあったの?」
その言葉に、違うと首を振る。それでも不安そうに眉を寄せる少女に蒼駕は笑って見せ、そして、自分の守るものの象徴のような少女の温かな体を引き寄せた。
こんなに確かで、愛しい、守るべきもの。
この温かさにもっと早く触れていたなら、ルイスの言葉の意味をずっと早く理解できたかもしれない。でも、ようやく知ることができた、と。
白く冷たい月光の降る夜。
そうして蒼駕は静かに決意を固めたのだった。
◆◆◆
強い朝日の入る窓辺で姿見の前に立ちながら、蒼駕は幻聖宮の者のあかしである聖衣を肩からおろした。
すでに着ている青藍色の正装衣と擦れあって、絹擦れの音をたてる。その横で、同じように白銀の正装衣を身につけた白悧がニヤニヤ笑いをしながら鏡の中の蒼駕を見ていた。
魔断にはそれぞれ系列があり、感応式や出立式など正式の場ではそれを表すものをまとわねばならない。
それが蒼駕は真空を表す青、白悧は凍気を表す白銀を基調としたこの正装衣である。
縫い込まれた数々の宝石たち。腰に佩いた飾り剣帯ひとつとっても最高級の品質を誇る一流品揃いであったが、どちらもともに長身痩躯の美丈夫であるため、それは2人の美しさをより際立たせるものとなっていた。
草原を走り抜ける爽やかな夏の風を思わせる蒼駕と、凍結した湖を吹き渡る風を連想させる白悧。
身にまとう雰囲気は違っていたが、それが結果としてさらに互いを引き立てることとなり、まるで、神が人の形を模して地上に降り立ったようにさえ思える。
これならけして何者にも見劣ることはないさと、白悧がおどけて蒼駕の肩を叩く。どう言えばいいのか分からないと、とりあえず苦笑を返しながら、久しぶりにまとった正装衣の懐かしい感触にそっと、襟に指を這わせていると、「時間だ」と、開いた扉をコンコンとノックして、碧凌が短く声をかけてくる。
軽い受け答えをする白悧の手に促されるようにして、蒼駕は式場へと向かっていった。




