第3回
闇を滑り落ちていく白い手は、もはや何も求めてはいなかった。
己の中から噴き出した赤い血で染まりながらも魔導杖を握りしめ、目前の敵から是が非でも生を勝ち取ろうとしたあのたくましい力は失われ、どこからも見出せない。膝の皿を割られた両足からはすでに立とうとする気力すら感じられなかった。
現珀色した虚ろな瞳がまばたきもせずに自分を映す。
力ずくでむしり取られた生。
奪い、勝ち誇った魅魎の高い笑い声が闇の中を反響する。強い自分に闘いを挑んだ、おまえが愚かなのだと。
ソウガ
血を溢れさせた口元が、一つの名を紡ぐ。
「操主!」
ソウガ、キミハ、シヌナ
キット――
かっ、と目を見開く。そこは、まるで夢の中に入りこみでもしたように暗い闇の中だった。
闇は好きじゃない。
寝返りを打つ。ぼんやりと浮き上がっている、白いサイドテーブルに乗った一輪差しを見ながら、知らず、蒼駕は拳を固めていた。
なぜ、死なせてしまったんだろう。
どうして、自分は助けられなかったのか。
もっと生きたかっただろう。まだ、たった19歳だった。
自分と感応し、退魔師となったことがルイスの命を縮めたのだ。
退魔師を嫌うわけじゃない。この世界で懸命に生きようとする人を、魅魎という脅威から唯一救える存在である者たち。
そのためには己の命をも賭けねばならないことを哀れんでいるのでもない。
ただ、時折り思うのだ。
もしルイスが感応したのが自分じゃなくて別の誰かだったなら、彼は死なずにすんだだろうか?
せめてこんな、非力な自分なんかじゃなくて、もっと知恵も力もある魔断であったなら、ルイスは今も生きていたのだろうか?
何よりも。
どうして自分1人が生き残ってしまったのか。
どうせ助けられなかったのなら。せめてあのとき、一緒に散ってしまえていたなら、自分はどれほど幸せだったか。
そう考えずにいられない……。
このまま暗闇を見続けるのが嫌で、目を閉じる。同時に耳元を熱いものが流れていったが、それが何であるのかを、今は考えたくなかった。
◆◆◆
蒼駕の感応式への参加はあっという間に生徒たちの間で広がった。
執務室にいる宮母へ参加の意志を伝えに行った、その日の昼にはもうその日一番の話題となってしまっている。
あの青颯牙が、新しい操主を得ようとしている!
この言葉が幻聖宮中を多少なり、混乱と動揺で揺るがしたのは間違いない。おかげで授業に身が入ってない者が多いと苦情らしきものを告げる魔断もいたが、人当たりのいい彼のひととなりのため、そのだれもが感応式参加という蒼駕の立ち直りを喜び、笑ってすませてくれている。
おかげで当の蒼駕はというと、最初の「あの」が何を意味するのか不明だが、とりあえず歓迎されてはいるようだと見当をつけただけで、幻聖宮運営への支障については考えなくてもよさそうだと安心できた。少なくとも、ほかにかける迷惑の方は。
しかし。
だからといって、蒼駕自身への被害もなくなったということにはならないのである。
必要なこと以外には口が固い碧凌が進んで口外するはずがないから、はたしてどこから漏れたかははっきりとは分からないが、おそらく宮母補佐役として執務室に同席していたアルフレート辺りからだろうという予想を、彼はつけていた。
次代の宮母候補者でありセインの秘蔵っ子である彼女はどうも、物事をより面白くしようとかき回すのが好きなようだ。
悪意につながることへはしっかりと口を閉ざす利口さを備えているが、しかしそれをもう少し当事者となる者への配慮とすることはできないだろうか?
すっかり滅入り、少しなり、そんな考えにひたらずにいられない。
こめかみに手をあてて息をつく。だがいつまでもそうしているわけにはいかないと、彼は、前に立つ少女へゆっくりと目を戻した。
「ファロン。何か用ですか? 質問なら講義中に受け付けますよ」
「蒼駕教え長。あの、私たちの感応式にご参加くださるって、本当ですか?」
20回目。
そっと、手で隠した口元で、小さく舌打ちをもらす。
「ええ。本当です」
手をどけ、にっこりとほほ笑んで見せる蒼駕に瞬間ファロンは赤面し、あせってもつれ気味の舌で言った。
「あのっ……、あの。わ、私、キサ国の守護につくんです! 首都に配属される予定です!
だからっ、あのっ、それで私……」
「きみのことは担当の教え長からも聞いてますよ。とても優秀な成績で、退魔剣師として期待の星であると。
都の守りとはすばらしいですね。がんばってください」
少女の本意に気付かないのか、それともそちらへは結びつけたくないという無意識の表れか。蒼駕はあたりさわりのない返答を続ける。
「わ、私……私、あなたと感応できれば、嬉しいです! それだけです! ごめんなさいっ」
自分1人へと向けられた、蒼駕の笑みと眼差しに耐えかねたファロンは、真っ赤な顔をして、感極まった様子でそう叫んで背を向けると、バタバタと向こうへ駆け出して行ってしまった。
「魔導杖との相性もあるのでこればかりはどうにもなりませんが、そう思ってもらえる方と組めると私も安心です。もしそうなったときは、よろしくお願いしますね」
そう返そうにも、すでにファロンの姿はない。
開けた口をどうしたものか。結局、空気を噛むようにしてそっと閉じる。
その背に向けて、ぶぶっ、と吹き出し笑いがとんだのは、次の瞬間だった。
「あーーーーーっはっはっはっはっはーーーーーっ!!」
「……白悧……」
そちらへと向き直り、名を呼ぶ。
魔断・白玲牙の化身・白悧は、腹に手をあててこれ以上はないというくらい大爆笑していた。
あまり見られたくない姿を、よりによってあまり見られたくない者に見られてしまったか。
蒼駕がいくら恨みがましい視線を向けても、一向にやむ気配はない。
こんなとき、笑い上戸の気があるこの者に何をどう言っても無駄なのだとして、蒼駕もあえて話しかけようとはせず、笑い止むのを待つ。
数分後。ようやく笑いを止めて顔を上げた白悧は、そこですっかり気を損ねている蒼駕と目を合わせることになってしまったのだった。
「ああ……、いや、悪い悪い」
目尻の涙を拭き取り、ばんばんと、とてもそうは思っていなさそうな荒さで肩を叩く。
「あんっまりおかしかったからさ。気付いてたか? 全然噛み合ってなかったぜ、おまえと彼女」
「盗み聞きはあまり誉められたことではないと思うよ」
言うが、その声に責める響きはない。
白悧もまた、けろりとした顔で再び腰に手をあてた。
「そう思うなら場所を選ぶもんだ。ここを一体どこだと思ってる? だれもが使用可の、西宮通路だ」
……確かに。
そんな場所で立ち話をしていて、聞いた者を責めるのは間違いだと、蒼駕もあっさり納得する。
まあ、聞かれてまずい内容でもなかったし。
ただ、会話の途中で相手に逃げられたというのは、あまり人に見られたくなかった姿ではある。
「まだ昼前だってのに、すごい人気じゃないか。パートナーの申込み、あの子で何人目だ?」
ニヤニヤ笑い、まるで何か面白いことを見つけた子どものような好奇心丸だしの顔で訊いてくる。
「ファロンで20人目かな? あの質問をしてきた者という意味であればだけれど。
あれは、そういう意味だったのかい?」
そのさらりとした返答に、白悧は一瞬、こいつへたな冗談を言ってるのかと疑って、まじまじと蒼駕の目を見返したのだが、彼が限りなく本気でそう思っているのだと分かった途端、がっくりと派手に肩を落とした。