第2回
結局あの少女は人混みから連れ出されるまで、何か猛烈に叫んでいたな。
などと、そのときの光景を思い起こしながら南館の回廊へとつながる角を曲がったときだ。先を行く、深い緑の髪をした人影が碧凌であることに気付いて、彼は歩く速度を速めた。
「碧凌」
彼の呼ぶ声に反応して、碧凌が肩越し振り返る。そこにいる者が蒼駕であると知り、そこで初めて彼は足を止めた。
「蒼駕か」
「きみもこの時間、南館かい?」
無言でうなずくと、蒼駕が追いつくのを待って、並んで歩き出す。
「今朝は悪かったね」
そんなふうに、彼は会話を切りだした。
「かわりをさせてしまって……すっかりきみに迷惑をかけてしまったようだ。明日と明日後の式は、ちゃんと出るよ。
それにしても、大変だったろう」
と、自分の言った言葉にまたもやあの一件を思い出して、ふっと笑ってしまう。
何度思い起こしても愉快な事件だ。
口元に手をあてたまま、しみじみ思う。そんな姿を横目で見て、何を思ってか、ふいと碧凌は合いかけた視線をずらした。
「入宮初日から式を中断させるなんて、なかなか頼もしい子だったと思わないか? あれならきっと、意地でも退魔師になるだろうね」
返答を期待して碧凌へと向いたが、しかし碧凌は何とも答えようとはしなかった。「どうだか」とも「たぶんな」とも言わず、黙々と歩いている。
大底の者ならば、ここで「とっつきにくい」「面白味がない」「失礼だ」などと言って敬遠するのだが、蒼駕はさほどこたえずに再び前を向いた。
べつに負け惜しみのつもりはないが、この者の側で沈黙するのはそれほど苦痛ではなかった。
決して無視をしているわけではない。碧凌が答えないのは、それが本当かどうか分からないからだ。正しいことか、間違ったことか。ふさわしいのか、似合わないのか。事実か、思いこみか。
そこまできっちり割り切ろうとしなくてもいいだろうに、とは思うが、それはあくまで自分の考えであって、彼のものとは違う。なら、自分がロを挟むことじゃないだろう。
それが蒼駕の考えだった。
互いにロをきくことをやめ、陽光の入ってくる白い回廊をしばらくの間無言で連れ添って歩く。
特に急ぐ必要はない。まだ講義を始めるまでは時間があるし、生徒たちは今ごろやっきになって訓練着から着替えているころだろう。
最近白悧は終業の鐘が鳴るまでやるから。西の奥庭からここまで、走ってギリギリの分しか時間を残さない。
おかげでいつもこちらの講義に食いこんでちょっと困りものなのだが、それもこの時期しかたがないのかもしれない。
最終試験を終えれば、彼らは魔断との感応式に臨むことになる。それが終われば出立式を迎えることになるのだが、どれも一人前の退魔師として世間へ送り出すには一抹の不安が残る者たちばかりだ。
天敵である魅魎のことはおろか剣の持ち方すら知らなかったころから比ぺれば見違えるほど成長したとは思うが、やはりまだまだだろう。
となれば、あとは実戦から学ぶしかないが、実戦は言うなれば生の奪い合いだ。敗れたほうには死が待つのみ。初心者だからといって、相手が手を抜いてくれるなんて期待はできない。
ルイスはそうじゃなかった。ルイスはここにいたころからずっと強くて、俊敏で。いつのときも慎重で、かと思えば大胆に振る舞った。ルイスは――――――
「蒼駕」
突然自分を呼ぶ、碧凌の低い声に現実へと引き戻される。
碧凌は、3歩ほど後ろで立ち止まっていた。
「あ、ごめん。
何か?」
平然を装い訊き返したその前で、くい、と右を指す。
「……ああ」
その先の通路を見て、蒼駕は罰が悪そうにうなずいた。
あそこで曲がらないといけないんだった。
「ありがとう」
礼を言いながら横を抜けようとする。そのとき。
「まだ、忘れられないのか」
問いとも独り言ともとれる言葉が、蒼駕の耳を打った。足が凍りつく。
「……わたしは……」
「まだ夢に見ているのか。操主の死を。
そのとき側に居合わせたおまえは不幸だ。だが、死者のためにこの世界はあるわけじゃないということを覚えているだろう」
生きている者を守るために命を張ることが、自分たち魔断の使命。神より与えられた、この世界における存在理由。退魔の基礎。
この世界に身をおく限り放棄することは許されないし、許してはいけない。
蒼駕も分かってはいるのだ。操主であったルイスが魅魎との死闘に敗れ、散って10年。いつまでもこのままではいけないと。分かっては、いるのだが……。
ほう、と溜息をつく。
噛みしめる、苦い思いが再び胸にわだかまる。
その胸を突くように指差して、碧凌は言った。
「来月の感応式には、おまえも参加しろ」
と。
それは、新たな操主を得よということだ。
新しい操主を得、その者の魔断となり、再び退魔の役につけ、と。
ほんのかすかだったが彼の目に表れた動揺を見逃す碧凌ではなかった。しかしそれをあえて無視して、彼は身を放した。
その隙間を、横の回遊庭園を渡ってばたばたとやってきた生徒たちが走り抜ける。
「遅れましたっ、ごめんなさい、蒼駕教え長!」
「今、今部屋に人りますからっ!」
おそらく走り通してきたのだろう、上気した顔で口々にそんなことを言いながら横をすり抜け、急ぎ扉を開けると中へ滑りこむ。
そんな可愛い教え子達の姿を見ながら、蒼駕は、そうだな、と頷いた。
「参加、しようか。あの子たちを死なせるのは嫌だしね」
その、おそらく身を切るような思いで口にしたのだろう、決心に碧凌は何も答えず、ただ肩を叩いて去って行く。その叩かれた肩の重さに、何とはなし、手をやると、蒼駕はそっとため息をついた。