第九回: 光瀬龍と自分を比べて自信を喪失した夜
大学時代にボクを深く魅了した作家がいる。光瀬龍だ。 彼の描くSFの世界はどこまでも深く、文体は硬質で美しく、若者だったボクの心に強烈な楔を打ち込んだ。
あれから四十年以上が経過した先日、懐かしさがこみ上げ、彼の代表作の一つ『たそがれに還る』を再購入し、ページを繰ってみた。
しかし、最初の三十ページ足らずを読んだところで、ボクは呆然とし、そして深い迷いに陥ってしまった。
この物語、主人公である辺境の監視員が、宇宙港に登場し、辺境航路の宇宙船に乗り込むまでの描写に、なんと二十ページ近くも費やされている。
その表現ときたら、恐ろしく込み入っているのだ。SF特有のガジェットの描写、重厚な漢語、そして詩的でありながら突き放したような情景描写。読む側は、その圧倒的な「文字の壁」の中から、ストーリーの核心である情報を、まるでパズルのピースのように拾い集め、頭の中で再構成しなければならない。
これが、当時の「文学的」なSFの作法だったのかもしれない。
本を置き、いま自分が書いている原稿に目を移した。
読み比べてみる。まるで、大人と中学生だ。 ボクの文章は、あまりに平易だ。少なくとも、読者がストーリーに関する部分を拾い集めるような手間はかけさせない。明快で、テンポが良い。
その「読みやすさ」が、光瀬龍という巨峰の前では、ひどく「幼稚」なものに見えてしまったのだ。
自筆の手紙でたとえるなら、達筆な大人がすらすらと書いた「行書体」の手紙の横で、自分が一生懸命書いた「丸文字」の手紙を並べられたような、そんな恥ずかしさを感じた。
書き換え実験が示したこと
自分の文章がどれほど「行書体」と乖離しているのか、確認したくて仕方がなくなった。 そこで、執筆中の原稿の一部を、あの光瀬龍の重厚なタッチを真似て書き換えてみる、という実験を試みた。
【ボクの文章(平易なスタイル)】
朗唱が終わる頃、遠くで犬が鳴いた。
少年は「継の紙」を静かに折りたたみ、腰に下げた小さな布袋におさめた。
石段から立ち上がると、足元に冷たい風が吹き抜けた。
振り返って塔を見上げる。
古く、黒ずんだ石……だが、その中にあの粘土板が眠っている。
「また明日な」
そう、小さくつぶやいてから、少年は坂道を下り始めた。
坂を下りきったところで、少年は立ち止まった。
井戸の方から、歌声が聞こえてくる。
少女だ。また歌ってる。
古い言葉の歌。何を歌っているのかは、わからない。
高く、澄んだ声。まるで、どこか遠くから響いてくるような。
少年は少し聞き入ってから、足を進めた。
塔の影が、彼の背中に長く伸びていた。
――
【光瀬龍風に書き換えた文章(重厚なスタイル)】
朗唱の最後の余韻が、希薄な早朝の大気に吸い込まれて消えた。それと入れ替わるように、どこか遠い集落の空隙で、一匹の犬が寂寥を噛みしめるように吼えた。
彼は儀式めいた慎重さで「継の紙」を折り畳むと、腰に下げた風化した布袋の闇へとそれを滑り込ませた。
石段から身を起こす。その拍子に、北から流れてきた冷気が、彼の華奢な足元を鋭く薙いでいった。
彼は振り返り、背後に聳える塔を見上げた。
長い歳月に晒され、黒く沈殿した石の集積。……だが、その堅牢な殻の奥底には、あの粘土板が眠っている。遥か過去の時間を凍結させたまま、誰にも解読されぬ沈黙を守り続けているのだ。
「また明日な」
唇からこぼれ落ちた言葉は、意味を持つ前に風にかき消された。少年は塔に背を向け、重力に従うように坂道を下り始めた。
斜面の尽きるところで、不意に彼の足が止まった。
朝の粒子に混じって、井戸の方角から大気を震わせる旋律が伝播してくる。
少女だ。また、あの少女が喉を震わせている。
意味の剥落した、古層の言語による詠唱。その内容は誰の知性にも触れることはない。
だが、その声は硬質で、あくまでも透明だった。まるで、ここではないどこか――数万光年の彼方から、真空を渡って響いてくる信号のような錯覚を伴っていた。
彼はしばらくの間、その不可解な波長に意識を同調させていたが、やがて何かを断ち切るように再び歩を進めた。
東の空が白むにつれ、背後の塔が投げかける巨大な黒い影が、彼の行く手を阻むように、どこまでも長く伸びていた。
――
書き換えた文章は、確かに重厚で「SFらしい空気感」はあった。しかし、そのとき感じたのは、別の違和感だった。
「これでは、少年が塔で朗唱する静けさや、少女の歌声の透明感が、分厚い描写の波に溺れてしまうのではないか」
自分の物語の持つ、繊細な「体温」が失われていることに気づいたのだ。
作家である妻の言葉
この実験結果と、ボクが抱えていた「行書vs丸文字」の迷いを妻(彼女もまた作家だ)に話したところ、彼女は笑ってこう言った。
「ねえ、それは『行書』と『丸文字』の優劣じゃない。『油絵』と『線画』の違いよ」
光瀬龍の描写は、何層にも塗り重ねられた油絵のように、世界に圧倒的な質量と冷たさを与える。読者はその「質量」を楽しむ。
でも、あなたが描こうとしているのは何だ? それは、重厚な宇宙船のメカニズムじゃなく、宇宙の片隅の少年が歌う「小さな声」の物語だろう。
それは、線一本のズレも許されない、クリアで高解像度の線画であるべきだ。もしあなたが重厚な油絵の具で描いたら、少年が空へ抜けていく「声」の透明感は濁ってしまう。あなたの文章の『平易さ』は『透明度』なのだから、それを「幼稚」だと卑下する必要はない、と。
あなたいつも言ってるでしょう? 「鰻と鱧とどっちがうまいかなんて、比較しても無意味だ」って。
「丸文字」でしか描けない世界
四十年ぶりの光瀬龍は、やはり偉大で、圧倒的だった。 彼の文体が「行書」であるなら、ボクの文体は「丸文字」かもしれない。
しかし、ボクはこの「丸文字」というクリアな文体でしか描けない物語があると、今は確信している。 それは、誰にでも読める文字で印刷された、遠い星からの「手紙」のような物語だ。
その「読みやすさ」こそが、六万年の時を超えて、誰かへと声を継ぐための大切な「装置」なのだ。
あの日の恥ずかしさは、今はもうない。 ボクはボクの文体で、書き続けようと思う。 もし同じような迷いを抱えている書き手がいたら、あなた自身の筆跡が描こうとしているものが何なのか、一度立ち止まって考えてみてほしい。
「油絵」と「線画」。どちらも、世界を描くために必要な、素晴らしい表現方法なのだから。




