第六回: 心の距離が近かったこと
投稿作家をしている妻がジュブナイルの方を読んでくれた。
で、さっそくの感想をくれたのだが、、、
いまいちらしい。(泣)
というのは、やはり人と人との関係が遠い、ということらしい。
彼女の感想としては、少年期の読者に共感を得たいなら、もっと、人と人との間隔は近いべきだ。
その近いが故の、素敵なところも、嫌なところもいっぱいあるだろう。
それを書かなきゃ、というところだった。
もう、筆者は60を過ぎちゃっているけど、いまだに付き合いがあるのは、中学の時の友だちだ。
一緒にバンドをやったり、バンドをやらないメンバーたちとも、天満の安い店を探検しに行ったりしている。
彼らとは気安い、っていうか、心の距離が近いのだな。
近くまで踏み込まれても、逆に踏み込んでも、嫌なところがないということだろう。
大人になって、つかみ合いの喧嘩したり、怒鳴りあったり、蚊にボコボコに刺されて虫取りに行ったり、
他人の敷地に忍び込んで枇杷の実をとったり、夜の明けきらない時間に起きて釣りに行ったり、
そんなことできないもんなあ。
でも、あの頃の記憶は、なんだか妙に体の芯に残っている。
枇杷の甘さよりも、釣り糸を垂らして待つときの静けさよりも、
となりにいた奴の笑い声とか、喧嘩のときのムッとした顔とか、
そういうものが、いつまでも心にこびりついている。
そういうことを思い出して書いたら? って言われた。
そんなこと書いたら、結構恥ずかしいよね。(笑)
でも、そういうことを書くのが「文芸」ってところなのかもしれないなあ。
つまり、坪内逍遥のいうところの「人情」だ。
ぼくはそういうことよりも、「物語」を書きたいので、小説ではない「曲亭の作品」になっているということだ。
逍遥の言葉を借りれば、馬琴の小説は「荒唐無稽」な空想に満ち、「人情を写さず、理屈を説く」ということになるのだが、
ぼくは「八犬伝」好きだし、明治の文豪の作品に共感を覚えることは、実はない。
だから、「荒唐無稽」な空想に満ちてることは一切構わないし、SFなんでむしろそれが本筋だが、
「人情を写す」っていうのも、必要なのかなと、少しは反省するところがある。
ジュブナイルの第二弾では、もう少し、そこに近づけたものに挑戦してみようと思う。
何事も、実践が一番重要だと思う。
読者の皆さんには、そういう試行錯誤にも付き合ってもらえたらと思っている。