第五回: 美しさの裏側に
私は、自分が読みたくないことを、自分の小説の中に書きたくない。
それはわがままだろうか。否、それは私の誠実さだと思っている。
私は、文章のなかに美を描きたい。
それは見たくないものを避ける逃避ではない。
むしろ、「美しいものを見つめたい」という強靭な意志だ。
たとえば、上村松園の日本画のように。そこには、女性の美しさが、たおやかさのなかに確固とした芯を持って描かれている。
私の書きたいのは、人間の美しい面だ。
助け合い、励まし合い、共に歩もうとする意志。
互いのちがいを乗り越えて、協力し、慈しみ合う姿。
そういった、真摯な人の営みである。
私はそれを「本編」で描く。
それが、私にとっての物語の本質だ。
だが、現実はそれほど甘くない。
人は、美しい面ばかりを持って生きてはいない。
対立し、衝突し、誤解し、いがみ合い、時に戦争までも起こす。
その「濁った部分」を描かずして、どうして人間を描いたと言えるのだろう。
しかし、私の信念は変わらない。
本編には、それらを持ち込みたくない。
美しさを汚したくないのだ。
だから私は、その「現実」を別の場で描くことにした。
それが私にとっての“ジュブナイル”である。
青少年が、社会に出ていく前に。
その前に、少しでも現実を知ってもらいたい。
それが、私のジュブナイルに託した使命だ。
この世界には、くだらない人間がいる。2割は、そういう者たちかもしれない。
中には、悪意そのものをぶつけてくる2%の人間もいる。
そしてごくごく少数、狂気そのものの0.2%が、確かに存在する。
彼らに出会わずに済む人生なら、それは幸運だ。
だが、そうとは限らない。
ならばせめて、その時に備えて、「ワクチン」を打っておきたい。
精神的な免疫を。
それが、ジュブナイルで描く「嫌なこと」の役割だ。
もちろん、私にとって「嫌なこと」を書くのは、苦行だ。
私はそれを楽しんでいるわけではない。
だが、描くべきことはある。
それが現実の一部であり、そしてその中に「どう生きるべきか」を示すことができるからだ。
ジュブナイルで描く嫌なことは、過剰ではない。
無垢な青少年が直面するであろう、「最初の違和感」「最初の理不尽」程度だ。
それをあらかじめ知ることによって、現実の理不尽に怯えずに済む。
過剰なショックを受けずにすむ。
それが予防なのだ。
どんなに汚れた現実を描こうとも、ジュブナイルの結末には希望がなければならない。
読者が、心を折られずにページを閉じられるように。
どれほど困難な状況でも、乗り越えられる術があると知ってもらえるように。
そしてもうひとつ。
本編では描かれなかった、あるいは描きたくなかった、けれども“人間”を描くうえで欠かせなかったもの。
その補助線として、ジュブナイルは存在している。
私の創作体系は、二重構造になっている。
本編は、美と理想を描く。
ジュブナイルは、現実と葛藤を描く。
相反するように見えて、実は同じ志に支えられている。
「人間を描く」という一点において。
ジュブナイルで現実に触れた読者は、本編で理想に出会い、
「こうありたい自分」を見出してくれるかもしれない。
だから、私は書く。
嫌なことを書くのは、正直、心が削れる。
だが、心が削れたぶんだけ、読者の心を守れるのなら、それは喜ばしいことだ。
だから、私は書く。
未来の読者が、どんな現実に出会っても、希望を捨てないでいられるように。
私のジュブナイルは、そういう祈りの物語である。