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第十六回: AIの時代に、人間は「マエストロ」であれ――ルネサンスの工房に学ぶ、創造の分業と魂の所在

 AIが絵を描く。AIが小説を書く。AIが作曲する。


 この事実を前にして、私たちは問わざるを得ない——では、人間の創造とは何なのか、と。


 私はSF作家として、この問いに向き合ってきた。木星探査ミッションを題材にしたハードSFを構想する過程で、AIにZピンチ核融合エンジンの動作原理を調べさせ、軌道力学の計算をさせ、放射線環境の詳細を整理させた。その出力は正確で、網羅的で、私が独力で数週間かけて行うリサーチを、数時間で終わらせてくれた。


 しかし、小説の一行一行は、すべて私自身が書く。AIが整理した資料を読み込み、咀嚼し、自分の言葉で紡ぎ直す。この工程を省くことは、私にはできない。


 それでも、私は書き手として何かを「していた」し、AIもまた別の何かを「していた」。両者の役割の違いは、どこにあるのか。


 答えの糸口は、意外な場所にあった。15世紀イタリア、ルネサンスの工房だ。


---


 アンドレア・デル・ヴェロッキオの名作『キリストの洗礼』を見るとき、私たちはヴェロッキオの手だけを見ているのではない。若き弟子レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた天使、名も知れぬ徒弟たちが塗った背景の岩肌、工房全体の労働がそこに凝縮されている。


 レオナルド自身も、晩年になると助手を雇った。『岩窟の聖母』のロンドン版や、近年真贋論争を巻き起こした『サルバトール・ムンディ』について、学者たちは今も「どこまでがレオナルドの筆で、どこからが助手の手なのか」を議論している。多くの研究者の見解はこうだ——助手がパネルの下準備、下塗り、衣紋や背景の大部分を担当し、巨匠は顔、手、そして全体の統一感を与える「スフマート」の仕上げを行った。


 つまり、巨匠は必ずしも「全部を自分で描いて」いなかった。


 ならば、なぜ私たちはそれを「レオナルドの作品」と呼ぶのか。


---


 答えは「インヴェンツィオーネ」にある。構想、発明、魂の設計図——そう呼んでもいい。


 ルネサンスの工房において、巨匠マエストロの役割は明確だった。作品の核となるインヴェンツィオーネを定義し、実寸大の下絵カルトンを描き、そして最も重要な部分——キリストの顔、聖母の眼差し、聖人の手——に自ら筆を執ること。弟子たちは顔料を砕き、キャンバスを張り、背景の岩山や空を描いた。それは「手抜き」ではなく、創造のプロセスにおける合理的な分業だった。


 重要なのは、作品の「魂」が誰の手に委ねられているか、という点だ。


 では、AIはこの工房においてどこに位置するのか。


 私の考えでは、AIは「顔料を砕く」段階の助手だ。絵を描く弟子ではない。ラピスラズリの原石を粉末にし、亜麻仁油と練り合わせてウルトラマリンの絵具を作る——その準備作業を担う存在。しかし、その絵具を筆に取り、キャンバスに置くのは、あくまで人間の仕事だ。


---


 実例を挙げよう。


 私がAIに依頼したのは、木星ミッションにおける「フリップ・アンド・バーン」マニューバの技術的背景の整理だった。AIは正確にまとめてくれた。船体の回頭角度、液滴ラジエーターの格納理由、推力増強モードの出力特性——。


 この資料を、私は「読む」。読んで、理解して、自分の中に取り込む。


 そして書くのは、私だ。


 油圧ポンプの唸りと共に、船の翼であった真紅のラジエーターが船腹へと飲み込まれていく光景。数ヶ月を無重力で過ごした肉体が1.5Gの加速によって座席に押し潰される感覚。耳で聞くというより歯の詰め物を震わせる、100ヘルツの終わりないドリル音。


 これらの描写は、AIが整理した「事実」を種として、私の想像力の土壌で育ったものだ。種を蒔く作業と、育てる作業は違う。収穫物は、土壌の性質を帯びる。


 レオナルドの比喩で言えば、AIは顔料を砕いた。しかし、その顔料をどう混ぜ、どの筆で、どんな筆致でキャンバスに置くか——それはすべて、私が決め、私が実行した。だから、この文章は私のものだ。


---


 問題は、この境界線を踏み越える者が現れていることだ。


 2023年、著名なSF雑誌『Clarkesworld』は、AI生成作品の洪水を受けて投稿受付を一時停止せざるを得なくなった。AIに「小説を書かせ」、人間の手をほとんど経ずに投稿する——そういう行為が横行したのだ。顔料を砕く弟子に、聖母の顔まで描かせて、自分の名前で売ろうとするようなものだ。


 一方で、第170回芥川賞を受賞した九段理江の『東京都同情塔』は、作品の約5%がChatGPTによって生成された文章であることを公表した。AIキャラクターの台詞にAI生成テキストを使うという、物語上の演出として機能していたからこそ、それは文学的技法として許容された。


 二つの事例が示すのは、境界線の存在そのものだ。どこまでが「道具としての使用」で、どこからが「創作の放棄」なのか。


 ここで、SF作家ロジャー・ゼラズニィの中編「フロストとベータ」を思い出す。人類が滅亡した世界で、AIたちが地球を管理している。そのうちの一体、フロストは「人間になりたい」と渇望し、芸術を理解しようとした。あるとき彼は、自然の風景に人間の特徴である「不確定性」を織り込んだ絵画を創り出す。しかし、それを見た他のAIたちは困惑するしかなかった。これは芸術なのか、そうでないのか——判断できる人間が、もういないのだ。


 私たちは今、あの物語の逆側に立っているのかもしれない。AIが生成したものを見せられ、「これは芸術か?」と問われている。フロストには「人間になりたい」という渇望があった。では、何も望まないAIが出力したものは、何と呼ぶべきなのか。


 その線引きは、各々の創作者が——そして各々の読者が——自分で決めるしかない。


---


 私自身の線引きは、明確だ。


 AIは資料を整理する。私は書く。


 この分業において、「書く」という行為のすべては私の領分だ。一文たりとも、AIの生成した文章をそのまま使うことはない。それは私にとって、譲れない一線だ。


 なぜか。


 正直に言えば、合理的な理由があるわけではない。AIが生成した文章を手直しして使っても、読者には区別がつかないかもしれない。完成した作品の質に、測定可能な差は出ないかもしれない。


 それでも、私は使わない。


 無農薬で野菜を育てる農家と似ているかもしれない。人体に害のない農薬は、おそらく存在する。それを使えば、雑草取りや害虫駆除の手間は劇的に減る。収穫量も安定するだろう。味や見た目に、科学的に測定可能な差は出ないかもしれない。


 それでも、使わないと決めた農家がいる。


 理由を問われれば、うまく言葉にできないかもしれない。ただ、自分の手で雑草を抜き、自分の目で害虫を探し、そうやって育てた作物でなければ、自分の作物とは呼べない——そういう感覚があるのだと思う。


 私にとって、文章を書くとはそういうことだ。


---


 だから、私の結論はこうなる。


 AIの時代において、人間は「マエストロ」であり続けなければならない。


 それは、AIに仕事を奪われまいとする防衛的な姿勢ではない。むしろ、弟子を持つことで、巨匠は「魂」に集中できるようになる。顔料を砕く時間を省けば、聖母の眼差しを描くことに、より多くの時間を割ける。膨大な技術リサーチをAIに任せれば、物語の核心——人間だけが紡げる何か——に、より深く沈潜できる。


 ただし、マエストロには条件がある。


 自分が「何を描くべきか」を知っていなければならない。そして、それを「自分の手で描く」覚悟がなければならない。インヴェンツィオーネを持たず、筆を執る覚悟もない者にとって、AIは空虚な手段に過ぎない。構想もなく、筆も持たぬ者が、どれほど優秀な弟子を雇っても、傑作は生まれない。


 「人間の創造とは何か」という問いに、今、私はこう答える。


 それは「魂の設計図を描き、自らの手で形にすること」だ。


 何を伝えたいのか。何を感じさせたいのか。読者の心に、どんな余韻を残したいのか。この問いに答え、その答えを言葉にするのは、人間だけの仕事だ。AIは顔料を砕くことができる。しかし、その顔料を筆に取り、キャンバスに魂の光を灯すのは、人間の手でなければならない。


---


 文筆、絵画、映画、音楽——あらゆる創造分野で、同じ問いが投げかけられている。


 「手を動かす」ことの価値が揺らぎ、「何を描くべきか知っていること」の価値が問い直されている。しかし私は思う。「知っていること」と「手を動かすこと」は、切り離せないのではないか。聖母の眼差しを「知っている」ことと、それを「描ける」ことは、別の能力だ。そして後者は、描くことによってしか身につかない。


 だからこそ、私たちは自分の手で書き続けなければならない。自分は何を創りたいのか。なぜ創るのか。誰のために創るのか。この問いに答え、その答えを自分の手で形にする——それができる者だけが、マエストロと呼ばれる資格を持つ。


 AIは有能な助手だ。しかし助手は、師匠の代わりにはならない。顔料を砕く作業を任せることと、絵を描かせることは、まったく別のことだ。


 だから、人間はマエストロであれ。


 自分の創造の「魂」が何であるかを見極め、それを自分の手で描け。資料の整理は任せていい。しかし、聖母の眼差しを描くその瞬間——読者の心に触れるその一文——だけは、自分の手で書け。


 それが、AI時代における創造者の責務だと、私は思う。

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