第十三回: 「平穏な物語は退屈」という嘘について
一
「物語には葛藤が必要だ」と言われる。
アリストテレスの『詩学』から現代ハリウッドの脚本術に至るまで、これは揺るぎないドグマとして君臨してきた。主人公は困難に直面しなければならない。敵と戦わなければならない。苦しみ、傷つき、それでも立ち上がらなければならない。そうでなければ物語は「退屈」になる——そう教えられてきた。
だが、私はずっと納得できなかった。
二
子どもの頃、『水戸黄門』が好きだった。
ただし、好きだったのは番組全体ではない。悪代官が農民を虐げる場面は見ていられなかった。女性が手籠めにされそうになる場面では、思わず目を背けた。
私が好きだったのは、黄門様一行が街道を歩く場面だった。宿場町で名物料理を食べる場面。助さん格さんが冗談を言い合う場面。八兵衛がうっかり失敗して笑われる場面。
事件など起きなくていい。悪人など出てこなくていい。ただ旅を続けてくれればいい。そう思っていた。
印籠が出る瞬間の爽快感よりも、何も起きない穏やかな旅路のほうが、私には価値があった。
三
学生時代、堀辰雄を読んだ。
『風立ちぬ』『菜穂子』『美しい村』——彼の作品の多くは、サナトリウムを舞台にしている。死の影が濃く漂い、登場人物たちは病と向き合いながら静かに日々を送る。その陰鬱さは、決して心地よいものではなかった。
しかし、堀辰雄の文章には、ごくまれに、青空のような瞬間がある。
高原の朝。透き通った空気。白樺の木立を抜ける風。恋人と並んで歩く小径。病のことも死のことも忘れて、ただ生きていることの清冽さだけが響く瞬間——。
私はそれを読みたいがために、陰鬱な文章を我慢して読み進めた。次の爽やかな場面はいつ来るのか。その一瞬のために、暗い谷間を歩き続けた。
堀辰雄の作品が、あの爽やかな青空だけで構成されていたら。今でもそう思う。
四
「それでは物語にならない」と言われるだろう。
葛藤がなければドラマは生まれない。苦しみがなければ感動もない。闘争と勝利のサイクルこそが物語の本質である——そう反論されるだろう。
だが、本当にそうだろうか。
小津安二郎の映画を思い出す。『東京物語』『晩春』『秋刀魚の味』。そこには派手な事件など起きない。人が死ぬことも、裏切られることも、戦うこともない。ただ、家族が集まり、会話し、別れていく。季節が移ろい、時間が流れていく。
それを「退屈」と呼ぶ人もいるだろう。しかし、あの静けさの中にこそ、人生の本質が映し出されているとは言えないだろうか。
五
現代のコンテンツを見渡すと、「平穏」を求める声は確実に大きくなっている。
『ゆるキャン△』『ARIA』『夏目友人帳』——日本のアニメや漫画には「癒やし系」と呼ばれるジャンルが確立している。敵と戦う必要はない。世界を救う使命もない。キャンプ場で焚き火を眺めたり、猫と一緒に昼寝をしたり、友人とお茶を飲んだりする。それだけで、十分に物語は成立している。
「なろう系」と呼ばれるWeb小説の世界でも、「スローライフ」は人気ジャンルのひとつだ。勇者として魔王と戦うことを拒否し、田舎で農業を営む主人公。誰とも争わず、穏やかに暮らす日々。それを「退屈」と批判する声もあるが、支持する読者は「安心して読める」ことを最大の価値としている。
これは逃避だろうか。いや、むしろ正直な欲求の表明だろう。
六
なぜ、私たちは平穏な物語を求めるのか。
ひとつの答えは、現実がすでに十分に過酷だからだ。
通勤電車の混雑。職場の人間関係。SNSに溢れる悪意と炎上。ニュースが伝える戦争と災害。私たちは日常的に、望まぬ「葛藤」に囲まれている。
その上さらに、物語の中でまで葛藤を求める必要があるだろうか。物語の中くらい、平和であってもいいのではないか。
もうひとつの答えは、「感受性」の違いにある。
心理学には「HSP(Highly Sensitive Person)」という概念がある。全人口の一五〜二〇パーセントに見られる、生得的に感受性の高い気質だ。HSPの人々は、他者の感情や感覚を自分のことのように感じ取ってしまう。画面の中で誰かが殴られれば、自分も殴られたような痛みを覚える。
そのような人にとって、暴力シーンは娯楽ではない。被曝に近い体験だ。見終わった後も動悸が治まらず、数日間気分が沈む。
「平穏な物語」を好むのは、単なる好みの問題ではない。自分の精神を守るための、切実な選択なのだ。
七
「退屈」とは何か。
神経科学的に言えば、退屈とは「脳が刺激を求めているのに、環境がそれを満たさない状態」だ。何かしたいのにできない、という不快な覚醒状態。
一方、「リラクゼーション」は異なる。脳が休息モードに入り、内省や記憶の整理を行っている状態だ。
平穏な物語を「退屈」と感じる人は、脳が常に外部刺激を求めてアイドリング状態にある。刺激がなければ落ち着かない。次から次へとコンテンツを消費し続けなければ気が済まない。
一方、平穏な物語を好む人は、物語をきっかけにして深いリラックス状態へ移行できる。刺激を「消費」するのではなく、静けさに「浸る」ことができる。
どちらが優れているという話ではない。ただ、「平穏を退屈と感じないこと」は、ひとつの能力なのだ。
八
物語には三つの機能がある。
ひとつは、興奮を提供する機能。スリル、恐怖、サスペンス。退屈を紛らわせ、日常から逃避させてくれる。
ふたつめは、安らぎを提供する機能。安心、共感、秩序。ストレスを癒やし、心を整えてくれる。
そして三つめは、知識を提供する機能。物語は疑似体験を通じて、読者に様々な知識を授ける。科学の原理、歴史の出来事、異国の文化、人間の心理——実際に経験しなくても、物語の中で追体験することで学ぶことができる。その知識は、有益なものもあれば、有害なものもあり、どうでもいいものもある。しかし、物語が「知の器」であることは間違いない。
長い間、第一の機能——興奮——だけが「物語の本質」だと考えられてきた。第二の機能は「退屈」というラベルを貼られ、第三の機能は「教養」や「啓蒙」として別枠で扱われてきた。
しかし、この三つは本来、分かちがたく結びついている。そして現代において、第二の機能——安らぎ——へのニーズは爆発的に高まっている。人々は物語の中に「もうひとつの戦場」ではなく、「帰るべき家」を求めている。
九
私は、子どもの頃から「平穏」を愛してきた。
水戸黄門の穏やかな旅路。堀辰雄の青空のような瞬間。事件など起きなくていい。誰も傷つかなくていい。ただ、美しい風景があり、温かい会話があり、何気ない幸せがある——それだけで十分だと思ってきた。
それは「物語がわかっていない」ということだろうか。「本当の面白さを知らない」ということだろうか。
いや、そうではない。
平穏を愛することは、ひとつの感受性であり、ひとつの能力であり、ひとつの選択だ。
「葛藤がなければ退屈」という常識は、普遍的な真理ではない。特定の感性を持った人々が、特定の時代に作り上げたドグマに過ぎない。
十
だからこそ、私は小説を書いている。
私が書きたいのは、暴力やストレスで読者を興奮させる物語ではない。知識を提供し、安らぎを与え、そして知的な興奮や達成感をもたらす物語だ。
読み終えたとき、何か新しいことを知っていてほしい。世界の仕組みについて、人間の営みについて、あるいは遠い未来や見知らぬ土地について。物語を通じて疑似体験した知識が、読者の中に残っていてほしい。そして、その知識に触れたときの「なるほど」という知的興奮、人間という存在を深く理解したときの感動、物語を読み終えたときの達成感——それもまた、私が読者に届けたいものだ。
そして同時に、読み終えたとき、心が穏やかになっていてほしい。激しく揺さぶられるのではなく、静かに満たされていてほしい。物語という温泉に浸かったような、じんわりとした充足感を持ち帰ってほしい。あるいは、グランドキャニオンやナイアガラの瀑布を前にしたときのような、圧倒的な何かに触れたという感動を。
それは「退屈な物語」だろうか。「葛藤のない物語」だろうか。
そうかもしれない。だが、私はそれでいいと思っている。
十一
平穏は、退屈ではない。
平穏そのものが、十分にドラマチックであり、心を動かす力を持っている。
朝の光が窓から差し込む瞬間。友人と並んで歩く帰り道。何も起きない、ただ穏やかな一日——その中にこそ、人生の本質がある。
物語もまた、同じだ。
だから私は、これからも平穏な物語を愛し続ける。そして、平穏な物語を書き続ける。堂々と、何の後ろめたさもなく。




