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(2)

 

 仕事場へ行くと、松山さんは休みだった。

 風俗の話を聞かされなくても済むのでほっとしたが、なんとなく寂しい気もした。

 彼と一緒にいると楽しいし、時間が進むのが早く感じられるからだ。


 今晩の相方は高松さんだった。

 正確な年齢は知らないが、50歳の松山さんと同じくらいと聞いていたので、わたしより10歳ほど年上のようだ。

 しかし、スポーツ刈りの中に白髪が目立っているので、実際の歳よりも老けて見えた。


 ふと初顔合わせの時のことを思い出した。

「丸亀の生まれですか?」と訊いたら、変な顔をされたのだ。

「坂出?」と訊いたら嫌な顔をされた。

「松山と一緒にしないでくれ!」と不機嫌になった。

 でも五十歩百歩だった。

 高松さんは高知県高知市の出身なのだ。

 もしかしたら今まで「高知生まれの高松です」と自己紹介をしていたのかもしれないのだ。

 それが、この工事現場では松山さんが先に同じような自己紹介をしたので、お株を盗られた格好になって面白くなかったのかもしれない。

 本当のところはわからないが、そんなことを考えるとおかしくなった。

 と同時に、〈次は徳島さんに出会わないかな〉と変な期待を抱いている自分を滑稽(こっけい)だとも思った。


 どちらかというと真面目というか堅物の高松さんは一切エッチな話はしない。

 そういうくだらない話に興味がないようだった。

 だから松山さんを嫌うというか、避けるようにしていた。

 わたしも最初は避けられていたが、松山さんの子分ではないことがわかると、話しかけてくるようになった。

 といっても世間話し程度で、当たり障りのないことばかりだった。

 しかし今夜は違っていた。


「今仁君は絵は好きかな?」


 休憩時間の第一声がこれだった。


「絵、ですか?」


 いつものコンビニでどら焼きを頬張っていたわたしは、それが気管支に入りそうになってちょっとむせた。


「日本画でも洋画でもなんでもいいんだけど、好きな絵はあるかな?」


 何も思い浮かばなかった。

 というよりも、絵というものに興味を持ったことがなかった。

 それは、見ることだけでなく描くことも含めてだった。

 なにしろ、人物画を描いたら首から手が出ているような幼稚な絵しか描けなかったからだ。

 だから絵を描いてハナマルを貰ったことがない。

 そういうこともあって、小学生になって一番嫌いだった授業が図画工作の時間で、それは卒業するまで変わらなかった。


 でも、興味がないと返事をすれば会話は終わってしまう。

 必死になって記憶の箱を開け続けた。

 すると、1枚の絵が浮かび上がってきた。

 それは大きな波が立っているような絵だった。

 富士山を飲み込むようなとてつもなく大きな波だった。

 何かでそれを見た時、鳥肌が立ったのを覚えている。

 しかし、作者も題名も思い出せなかった。


葛飾北斎(かつしかほくさい)富岳(ふがく)三十六景だね」


 わたしが富士山を飲み込むような大波と言っただけで、作者と作品名がすらすらと出てきた。


「そうです、北斎です。葛飾北斎です」


 そして、それを見たのが本ではなく、お茶漬け海苔の袋の中に入っていたオマケのカードだったことを思い出した。

 そのことを告げると、「そう、永谷園だよね。私はすべて持っていますよ。全部で46枚!」と自慢そうに胸を張った。


「そんなにいっぱいお茶漬けを買ったのですか?」


「買った。お茶漬けだけでなく吸い物も買った。全部揃うまで買い続けた」


 また胸を張った。


「凄い!」


 驚いた振りをしたが、永谷園のお茶漬けと吸い物を毎日食べている高松さんの姿を想像しておかしくなり、思わず口元が緩んでしまった。

 すると心の内を悟られてしまったのか、「何も笑うことはないんじゃないの」と厳しい顔になった。

 わたしは慌てて話題を変えた。


「高松さんはどんな絵がお好きなんですか?」


 この質問はツボにはまったようで、一瞬にして相好(そうごう)を崩した。


「ありすぎて困るんだけどね」


 右手の親指と人差し指と中指で顎を支えるように持って、どの絵を最初に言おうかと迷っているような表情を浮かべた。


「そうだな~、やっぱりフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』かな? あの眼差しは一度見たら忘れられないからね。それに光の描写と独特な青の色が目に焼き付いて離れないし。でも、眼差しと言えば、なんと言ってもラファエッロの『小椅子の聖母』だね。あの慈愛に満ちた眼差しは唯一無二と言ってもいい。それから、ティツィアーノの『懺悔するマグダラのマリア』も外せない。天に向かって許しを請うような眼差しは深遠な思いを抱かせる。それと……」


 話が止まりそうもなかった。

 しかし、休憩時間が残り少なくなったので、このまま聞き続けるわけにはいかなかった。

 わたしは腕時計を高松さんの目の前に掲げた。


「おっと」


 そう言うなり、彼は慌ててトイレに向かった。



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