(6)
「戦後80年が経ちました。
多くの戦争体験者が、被爆体験者がこの世を去りました。
当時のことを知る人は、それを後世に伝えることができる人は、ほとんどいなくなりました。
私の祖父母も広島で被爆し、平均寿命よりも短い人生しか生きられませんでした。
ひとりっ子であった父は同じくひとりっ子の母と結婚し、祖父母の死後、彼らの遺志を受け継いで核廃絶に向けた活動を始めました。
でも、昨年父が他界し、それを追うように母も今年他界し、私一人が遺されることになりました。
母の葬儀が終わって独りぼっちの家に帰ると、自分の存在はどこにもないように感じました。
血の繋がった家族が一人もいなくなったからです。
私はこれから何を支えに生きて行けばいいのか、思い悩むようになりました。
両親と共に暮らしていた時はキュレーターという素晴らしい仕事が私の誇りでしたが、母の死後は仕事になんの価値も見出せなくなりました。
外食やショッピングにも興味がなくなり、コンサートに行くこともなくなりました。
テレビ番組にも関心がなくなり、音楽を聴くこともなく、家でボーっとしていることが多くなりました。
なんか、どうでもよくなったのです。
そんな無為が続いていたある日、夢の中に祖父母が出てきました。
写真でしか知らない若い祖父母でした。
でも、その顔はとても緊張していて、振り返りながら走っていました。
信じられないものが背後にあったのです。
巨大な雲の塊でした。
原子雲。
1945年8月6日午前8時15分、B29が投下した悪魔が爆発したのです。
祖父母は逃げていました。
爆心地から遠ざかろうと必死になって逃げていました。
強烈な熱線と爆風の中、死に物狂いで逃げていました。
その背後では火の海が広がっていました。
更に、それまで雲一つなかった空から雨が落ち始めました。
黒い雨でした。
多量の放射能を含んだ雨でした。
嫌な予感がした祖父は着ていたシャツを脱いで、妻と自分の頭を覆いました。
濡れてはいけないという直感に従ったものでした。
それでも放射線の汚染から逃れることはできませんでした。
翌日から脱力感や食欲不振、嘔吐などに悩まされるようになったのです。
そのうち歯茎からの出血や血便などが出るようになり、日常の生活にも支障をきたすようになりました。
これらはすべて白血球が著しく減少したことによるものでした。
原爆症です。
そして12年後に白血病を発症し、祖父は長い闘病生活を送ることになりました。
髪の毛は抜け、慢性的な嘔吐による摂食障害でやせ細っていきました。
症状の軽かった祖母は一人で看病と子育てをしながら内職で生活を支えていましたが、父が高校を卒業するのを見届けるようにこの世を去りました。
原爆症と過労が重なって体はボロボロだったのです。
祖母に先立たれた祖父に生きる気力は残っていませんでした。
祖母の元へ行きたいと毎日医師や看護師に頼んでいました。
でも、祖父の願いは叶いませんでした。
やりきれなくなった祖父は病室の天井に向かって叫びました。
『死なせてくれ!』
恐ろしい顔をした祖父の絶叫で私は目が覚めました。
全身汗びっしょりになっていました」
その人の目は涙で溢れそうになっていた。
口元はわなわなと震え、鼻水をすすり上げていた。
絵美が差し出したティッシュを受け取ると、鼻を何度か噛んだあと、バッグから取り出したハンカチで涙を拭った。
そして心を落ち着けるように深呼吸をして、潤んだ声で続きを話し始めた。
「原爆死没者名簿というものがあります。
祖父母は今その中にいます。
広島で35万人、長崎で20万人、合わせて55万人の名前が記されています。
原子爆弾が、たった2発の原子爆弾が55万人の尊い命を奪ったのです。
いま世界に何発の核兵器があると思いますか?
核軍縮によってピーク時の五分の一に減ったとはいえ、未だに1万発近い核兵器が保有されています。
2発で55万人ですから、1万発だと27億5千万人を殺せる計算になります。
世界人口の三分の一です。
恐るべき脅威です。
でも、この脅威を真剣に受け止めている人がどれくらいいるでしょうか。
残念ながら決して多くはありません。
戦争の実体験、被爆の実体験をしていない人の関心が余りにも低いからです。
加えて、日本政府の対応が輪をかけています。
唯一の被爆国である日本は核兵器廃絶に向けて先頭に立って行動すべきですが、2021年に発効した『核兵器禁止条約』に対して批准を拒むという愚行を続けています。
北朝鮮などの核の脅威から守ってもらうためにアメリカの核の傘の下に入らざるを得ないというのが理由です。
でもそれでいいのでしょうか。
この条約の前文にはこう書かれています。
『ヒバクシャが受けた、容認できない苦しみと被害を心に留める』と。
それも、英語ではなく日本語の『hibakusha』という言葉で記されているのです。
その被爆者を抱える日本が批准しないことは許されることでしょうか。
私はそうは思いません。
日本政府がやっていることは被爆者に唾を吐く行為としか思えないのです。
徳島さんはどう思われますか?」
瞬きさえも許してくれないような強い視線を絵美に向けた。
しかし、返事を待つことなく言葉を継いだ。
「私は夢で見た祖父の叫びが忘れられません。
祖父は苦しみ抜いて死んでいきました。
それは多くの被爆者も同じです。
この事実は決して風化させてはいけません。
同じ過ちを繰り返してはならないのです。
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、キュレーターとして私ができることは何かと考えました。
考え続けました。
すると、ピカソの絵が思い浮かんだのです。
戦争の悲惨さを描いた『ゲルニカ』が頭から離れなくなりました。
そして、これしかないと思いました。
『ゲルニカ』の展覧会を被爆地である広島と長崎でやるべきだと思ったのです。
そうすれば多くの人が広島と長崎に足を運ぶはずです。
自ずと原爆ドームや原爆資料館にも足を延ばすでしょう。
そこで今まで見たこともないような悲惨な状況を目にすることになります。
そうなればもう無関心ではいられないでしょう。
自分たちも行動を起こそうと思うでしょう。
それが大きな波になれば政府を動かすことも不可能ではなくなります。
一気にはいかなくても『核兵器禁止条約』批准への道が開けるかもしれません。
その可能性を『ゲルニカ』は秘めているのです。
そう思いませんか、徳島さん」
その人の強い視線から逃れるように絵美はテーブルに目を落とした。
しかしその人以上の強い視線が待ち受けていた。
『暗幕のゲルニカ』が絵美を見つめていた。
「『ゲルニカ』はただの絵ではありません。
無慈悲な戦争がいかに悲惨な結果をもたらすことになるのかを知らしめるために描かれた絵なのです。
ナチスの空爆によってほぼ全滅したゲルニカ市民の無念の叫びを伝えるために描かれた絵なのです。
だから『ゲルニカ』はこの世から戦争を無くすために、愚かな人間たちに同じ間違いを起こさせないために行動する使命があるのです。
ソフィアで安穏としていてはいけないのです。
違いますか、徳島さん」
その人が絵美に手を伸ばしてきた。
自分の意志を受け取って欲しい、共有して欲しいという合図を送るように。
絵美は膝の上に置いていた手をテーブルの上に乗せたが、何か躊躇っているように見えた。
それを感じたのか、その人は信念を込めたような声で言葉を継いだ。
「『ペンは剣よりも強し』という言葉があります。それならば、『絵は核兵器よりも強し』という言葉があってもいいのではないでしょうか。だから、私と一緒に」
声が途切れると、両目から大粒の涙が零れ落ちた。
とほぼ同時に絵美の目からも大粒の涙が零れ落ちたが、それを拭うことなく手を伸ばして、その人の両手を握った。
「今、『ゲルニカ』の声が聞こえたような気がします。
『広島と長崎へ連れて行ってくれ』と命じられたような気がします。
私はキュレーターとして『ゲルニカ』の命に逆らうことはできません。
『ゲルニカ』が望む所に連れて行くのが務めだからです。
私の一存で日本での展示を決めることはできませんが、どれだけ多くの困難が待ち受けていようとも、それを乗り越えて実現させるために全力を尽くしたいと思います。
キュレーターとしての使命を果たさなければならないと心から思います。
いま胸の中には『絵は核兵器よりも強し』という言葉が鳴り響いています。
それはあなたの言葉であると共に『ゲルニカ』の言葉でもあるような気がします。
もしピカソが生きていたら彼の口からも同じ言葉が発せられたはずです。
今日あなたと出会えたことは運命のような気がします。
私はその運命に従います」