エピローグ(1)
南向きの窓から差し込む陽射しが季節外れの夏日を演出していた。
夕方になっても部屋の温度は25度を超えているようだった。
わたしはソファの背もたれを倒してベッドに変え、押入れ側に横になって、空きスペースに彼女を誘った。
しかし、彼女が動く様子はなかった。
同意してくれたとはいえ、明らかに躊躇っていた。
服は着ているが、男性のすぐ側に体を横たえるのは拷問以外何物でもないのだろう。
わたしはラファエッロの絵を指差した。
「聖母マリアがわたしを監視していますから何も心配いりません」
それでも動く気配はなかった。
「高松さんの部屋であなたを傷つけることは絶対にしません」
彼女は右手を握って口元に当てたが、まだ動こうとはしなかった。
「原田マハさんにも監視されていますから絶対大丈夫です」
すると、彼女の口角が少し上がった。
しかしすぐにそれは戻り、また緊張したような表情になった。
やっぱりダメかもしれない……、
彼女の様子を見ていると、これ以上誘うべきではないという心の声が聞こえたような気がした。
過去に受けた傷の深さは想像を絶するものに違いないのだ。
絶対に無理をさせてはいけない。
このままじっとしていよう、
わたしは彼女から視線を外し、目をつむった。
*
それからどれくらい経っただろうか、
何かが動く気配を感じた。
見ると、彼女はベッドに視線を落とし、シーツに右手を伸ばそうとしていた。
物凄い葛藤の中でトラウマを克服しようとするかのように、眉間を寄せて、口を強く結んでいた。
もしかして、
期待で胸の鼓動が早くなったが、
しかし、その手がシーツに付くことはなかった。
引っ込めた手を口に当てて、哀しそうな目で見つめていた。
やっぱりダメか……、
そんなに簡単なことではないとわかっていても、気持ちが沈んでいくことを止めることはできなかった。
仕方がない……、
諦めて起き上がろうとした時、彼女と目が合った。
すると、
動かないで、
というように目の力が強くなったような気がした。
わたしは力を抜き、静かに深く息を吐き出した。
彼女は気持ちを確認するように小さく頷き、口に当てていた右手をベッドに伸ばした。
手をついた。
その横にゆっくりと腰を下ろした。
そこでフーっと息を吐いた。
やっと、というような感じだった。
難関を一つ乗り越えた安堵の息かもしれなかった。
それでも、それ以上動こうとはしなかった。
自身を縛るトラウマの鎖を一つ一つ断ち切るのは容易いことではないからだろう。
無理に強行すれば、ただでさえ深い傷を更に悪化させることになりかねない。
そんな危険性を孕んでいるのだ。
わたしは自らを戒めた。
そんなことはさせてはいけない、
取り返しがつかないことはさせてはいけない、
だから、そのまま動かなくても構わない、
ベッドに座れただけでも上出来なのだ、
それ以上のことは、時間をかけてゆっくり進めていけばいいのだ、
と。
そして、視線を天井に向けて、また静かに深く息を吐いた。
するとその時、微かな甘い香りが鼻に届いた。
急いで視線を戻すと、彼女がゆっくりと体を倒し、頭をつけようとしていた。
信じられなかった。
また一つ鎖を断ち切ったのだ。
例え鋼のような強い意志で立ち向かったとしても、容易なことではない。
しかし、喜んでばかりはいられない。
ベッドに横になれたのがゴールではないからだ。
まだ序章に過ぎないのだ。
これから先、もっと強靭な鎖を断ち切らなければならないのだ。
わたしは息をひそめて彼女の様子を窺った。
彼女が体を横たえたのは、ベッドから落ちないぎりぎりのところだった。
わたしとの間に可能な限りの空間を作るためだろう。
それは理解できる。
そんな簡単に男のすぐ横に行けるわけはない。
でも、ただ黙って見守るわけにはいかない。
次のステップへ踏み出すためにも、手を差し伸べてあげなければならない。
わたしは恐る恐る声をかけた。
「大丈夫ですか?」
陳腐な言葉だったが、それしか頭に浮かばなかった。
それでも、彼女は仰向けになったまま、少し顎を引いてくれた。
「わたしが合図したら、未来行きの電車を思い浮かべてください」
また少し顎を引いた。
「できれば」
言いかけたが、次の言葉が口の中から出て行かなかった。
その躊躇いを察したのか、彼女の顔がわたしの方に向いた。
眉間の皺は消え、唇は少し開いていた。
緊張が解け、聞く体制になっているような気がした。
わたしは口の中にとどまっていた言葉を外に出した。
「手を握って心を一つにしたいのですが……」
彼女との間に横たわる大河のような空間の半分の地点まで右手を動かした。
そして待った。
待ち続けた。
彼女が鼻から大きく息を吐く音が聞こえた。
すると、太腿にぴったり付けていた左手が滑るようにベッドの上に落ちた。
しかし、そこまでだった。
それ以上動く気配はなかった。
自分から行こうかと思った。
でも、すんでのところで止めた。
男であるわたしの手に触った瞬間、あの時の恐怖が蘇ってパニックになるかもしれないのだ。
そうなったら一緒に未来へ行くことはできない。
焦りは禁物だ。
手が太腿からベッドの上に落とせただけでも彼女にとって大変なことなのだ。
だから、時間はいくらかかっても構わない。
絶対に焦ってはいけないのだ。
わたしは体から力を抜いて、呼吸を浅くして、男としての存在感が薄くなるように努めながら待ち続けた。
少しして布生地に振動を感じ、擦れるような微かな音が続いた。
彼女の指が動いているようだった。
凄まじいほどの葛藤を乗り越えて指を動かしているのだろう。
過去と決別するという強い意志をエネルギーに変えて指を動かしているに違いない。
それはほんの僅かな動きだったかもしれなかったが、太平洋を渡ってアメリカに辿り着くほどの距離に等しいのだと思うと、目頭が熱くなってきた。
目の中が湖になり、今にも溢れそうになった。
それを堪えようとした時、わたしの右手小指に温かいものが触れた。
彼女の左手小指の温もりだった。
その小指は微かに震えていた。
微かに?
それは信じられないことだった。
あの忌まわしい出来事以来、初めて異性の手に触れたのに、この程度の震えで収まっていることは奇跡としか言いようがなかった。
その時、強い衝動が起こった。
それは彼女の手を握りたいという強い衝動だった。
その抑えきれないパワーがわたしの右手を宙に浮かせかけた。
彼女の左手の上まで持っていってストンと落とせば彼女の手を握ることができるのだ。
しかし、何かがそれを止めた。
それはラファエッロだろうか?
ルソーだろうか?
モネだろうか?
それとも原田マハだろうか?
いやそうではない。
高松さんに違いなかった。
そう思い至ると、声が聞こえたような気がした。
「待つんだ。自分から動いてはいけない。あくまでも妹の意志によるものでなければならない」
わたしは浮かせかけた右手を元に戻した。
そして待った。
待ち続けた。