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「さっきは本当にごめんなさい」


 わたしを突き飛ばした行為の背景にあるものを全部吐き出した彼女は、目を真っ赤にして声を震わせた。


 トラウマだと思った。

 男性に体を触られるととっさに反応してしまうのは、心的外傷から来るものに違いなかった。


 わたしはただただ頷くことしかできなかった。

〈大変だったですね〉とも〈お辛かったですね〉とも〈大丈夫ですよ〉とも言えなかった。

 この場に相応しい言葉は何も見つからなかった。

 いや、そんな言葉があるはずがなかった。

 時として優しそうな言葉は相手を傷つけるものなのだ。

 沈黙しか返すものは無かった。



「多くの女性が苦しんでいます」


 少しして落ち着きを取り戻した彼女が驚くべき実態を訴えた。

 強制性交は年間1,200件を超え、強制わいせつは5,000件を超えているというのだ。


「でも、この数字はほんの一部を表したものだと思います。被害届を出さない、もしくは出せない女性が多いので、これの何倍、何十倍、いえ、何百倍のレベルに達するかもしれません」


 テレビやネットで時々強姦事件のニュースを目にするが、これほどまでに多いとは思わなかった。

 このうち強姦殺人はどれくらいあるのだろうかと危惧した時、インドで起きた集団レイプ事件のことを彼女が話し始めた。

 それは、バスの中で起きた極悪犯罪だった。


 2012年、ニューデリーのバスの車内で女子学生が集団でレイプされ、その上、車外に放り投げられて、死亡した。

 普通に走っているバスの中でなぜこんな悲惨なことが起きたのか?

 運転手はどうしていたのか? 

 もしかしてグルなのか? 

 当時のメディアは盛んに騒ぎ立てたという。

 そのこともあって大きな社会問題となり、抗議活動が起こり、その結果、レイプ犯罪の最高刑は死刑となった。

 しかし、抑止効果は限定的でしかなかった。

 事件の6年後に至っても年間34,000件のレイプ事件がインドで発生している。

 この数字も摘発され逮捕された数だから、実際にはこの何倍、何十倍という犯罪が起こっている可能性がある。

 そしてそれと同じだけの数の被害者が存在することになる。


「それは、一瞬にして人生を破壊された女性の数でもあるのです」


 彼女が語気を強めて言葉を継いだ。


「誰にも相談できずに悩んでいる人は三分の二を超えています」


 それは多くの被害女性が泣き寝入りしていることを表している数値だった。

 更に、警察に連絡・相談できた人は3.7パーセントしかいないという。

 彼女が言う何倍、何十倍という数値には十分に根拠があるのだ。


「被害に遭った女性はその後何十年もの間苦しみ続けます」


 彼女の綺麗な顔が原形をとどめないほどに崩れたが、それは無理もなかった。

 被害者の多くが10代や20代であることを考えると、その後の人生の長さが容易に推し量ることができるからだ。

 女性の平均寿命が86歳を超えている今、60年から70年もの長い期間苦しみ続けることになる。

 反して、数年で刑期を終えて出所した加害者は何食わぬ顔で普通の生活をしているかもしれないのだ。

 しかも、性犯罪の再犯率が13パーセントを超えていることを考えると、同じ加害者から二度目の強姦を受ける可能性もゼロではないのだ。

 これでは被害者の心は休まらない。

 彼女も同じ苦しみと不安を味わってきたことを考えると、胸が詰まって息が苦しくなった。

 乗り越えるためにどれほどの努力をしてきたかと考えると、耐えられないほどの痛みが走った。

 想像を絶するものだったに違いないのだ。

 わたしは彼女の顔を見ることができなくなった。

 余りにも惨い経験をしてきた女性にかける言葉はなかった。

 沈黙に支配される中、為す術はなかった。



 しかし、その重い沈黙を彼女が破ってくれた。

 その後のことを話し始めたのだ。


「兄が助けてくれたのです」


 事件を知った高松さんは画家への未練をスパッと断ち切って建設現場の日雇いを始め、全国を転々としながら毎月かなりの額を送金してくれたそうだ。

 学校に行けず、アルバイトもできず、叔母の家で面倒を見てもらっている後ろめたさを取り除いてやりたいという気持ちからだった。


 それだけでなく、行く先々からその土地の名産品を届けてくれて、それと共に愛情のこもった手紙を同封してくれたそうだ。

 その手紙は宝物として大事にしまってあるという。


 転機が訪れたのは、休学期間が2年になろうとした時だった。

 キュレーターの道に進むことを勧めてくれたのだという。


「絵がお前を守ってくれるよ」


 受話器から聞こえてきたその言葉がなかったら、今でも家から外に出られない生活が続いていただろうと彼女は言った。


「絵と向き合い、絵と話すことで、壊れた心が少しずつ元に戻っていきました。絵と共に生きるという道を見つけることができたからです。男性と恋をし、結婚をし、子供を産むという人生は諦めましたが、絵に恋をし、絵と結婚する幸せに巡り会うことができたのです」


 彼女の視線がカンヴァスに向いた。

 モネからルソーへ、そしてラファエッロへ。小椅子の聖母を見つめる瞳は美しく輝いていた。


 辛い過去を吐露した時の歪んだ表情は完全に消えていた。

 今を、そして明日から先を生きる意志が表れているように感じた。

 その時、心が動いた。

 そしてそれが声になった。


「一緒に電車に乗りませんか?」


「えっ?」


 彼女の横顔がゆっくりと向きを変えた。


「それって……」


 わたしは彼女の目をじっと見つめて笑みを返した。


「未来へ行きましょう」



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