(2)
20分ほど歩くと、大きな通りに出て、右手にファミレスが見えた。
1階が駐車場で2階が店舗のようだった。
ランチタイムが終わったのか、車が2台と自転車が3台しか止まっていなかった。
中に入ると、がらんとしていた。
窓側のテーブルに三組いるだけだった。
わたしは躊躇わず壁側の席を選んだ。
ここなら他の客に話を聞かれる心配がなさそうだからだ。
店員がメニューを開いて、それぞれの前に置いた。
アフタヌーンメニューだった。
おいしそうなデザートセットが並んでいた。
その甘さが落胆した彼女を救ってくれるかもしれないと思った。
しかし、彼女がメニューを閉じると、テーブルを沈黙が支配した。
彼女は何もしゃべらなかった。
わたしも声の掛けようがなかった。
閉じたメニューに視線を落として、ボーっと見ていた。
それでも店員が注文を取りに来ると、沈黙から解放された。
彼女はデザートの盛り合わせセットを、わたしはコーヒーゼリーサンデーとパンケーキのセットを頼んで、笑みを交わした。
でも、店員がその場を離れると、また沈黙の餌食になった。
彼女は窓側の方に視線を向けたし、わたしは壁紙の模様を見るともなく見ているしかなかった。
少ししてセットが運ばれてきて、彼女の前にプチケーキ三種とホットコーヒーが置かれた。
わたしの前には小さなパンケーキとコーヒーゼリーの上にアイスクリームが乗ったものとホットコーヒーが置かれた。
彼女はブラックでコーヒーを飲んだあと、ガトーショコラに手を伸ばした。
そして、ブリュレのココットとダブルアイスを一気に平らげた。
わたしはまだパンケーキを半分も食べていなかった。
追い付こうとパンケーキにナイフを入れた時、彼女のか細い声が耳に届いた。
「ごめんなさい」
うな垂れていた。
いや、萎れているように見えた。
「間違いなくあの数字だと思ったのですけど……」
わたしは彼女がダイヤル錠のツマミを回して止めた数字を思い出していた。
〈4〉と〈6〉
「あの数字は?」
彼女が小さく頷いた。
「兄の大ファンの画家の誕生日なんです」
それはラファエッロの誕生日だった。
4月6日。
「あの日、家に帰って遅くまで兄のことを考えながらラファエッロの画集を見ていたら、突然、閃いたんです。彼の誕生日に絶対間違いないと。それで居ても立ってもいられなくなって今仁さんに電話をしたんです」
「なるほど……」
わたしは16世紀のフィレンツェでラファエッロの工房に弟子入りできたかもしれない高松さんのことを思い浮かべた。
彼の顔は念願叶った喜びで満ち溢れているようだった。
それは両親の想いも一緒に叶えることができた喜びなのだろうと思った。
それほどラファエッロを愛している高松さんなら、その誕生日を開錠番号にするのは当然ではないだろうか。
とすれば、〈4〉と〈6〉以外にはあり得ないのではないだろうか。
そういう思いがどんどん強くなっていったが、しかし、現実は違っていた。
開錠はできなかったのだ。
う~ん、
目を瞑って頭の中で唸っていると、彼女の頼りなげな声が聞こえた。
「どうしたらいいんでしょうか……」
見ると、彼女は虚ろな表情でわたしを見ていた。
返す言葉はなかった。
ただ見つめ返すことしかできなかった。
それでも頭の中では〈4〉と〈6〉の存在感が増していた。
ラファエッロにあれほど強い想いを持っている高松さんがそれ以外の数字を開錠番号にするわけはないのだ。
わたしは彼女がダイヤル錠のツマミを回した時の状況を思い浮かべた。
4、そして、6……、
「あっ!」
窓際席の客や店員が振り向くほどの大きな声が出ていたが、そんなことに構わず、立ち上がって伝票を掴んだ。
「行きましょう!」
促したが、彼女は何がなんだかわからないというような表情のままわたしを見上げていた。
「早く!」
彼女を再度促してからレジへ急ぎ、支払いを済ませて、階段を走るように降りた。
彼女も続いて走り下りてきたので、それを確認したわたしは脇目もふらずにアパートへの道を急いだ。
季節外れの夏日が体温の上昇に拍車をかけていたが、それでも立ち止まらず先を急いだ。
彼女がちゃんと付いてきているか不安だったが、振り返らず急いだ。
*
アパートの近くの電柱のところで止まった。
彼女もすぐに追い付いてきたが、汗を浮かべている上に息が上がっているようだった。
キュレーターとして静かな環境で仕事をしている彼女に運動の機会は少ないのかもしれない。
「様子を見ましょう」
電柱の陰に隠れてあの老人の姿を探した。
しかし、コンビニの方角から歩いてくる人の姿は見えなかった。
買い物を終えて部屋に戻っているかもしれないと思ったが、用心のためにしばらくそこにとどまった。
どれくらい見ていただろうか、
それはわからなかったが、どうも大丈夫そうなので、そろりそろりとアパートに近づいた。
郵便受けの前にも1階の戸口にも階段にも誰もいなかった。
彼女に向き直って、耳打ちをした。
自分がダイヤル錠を回すので見張っていて欲しいと。
彼女は不安そうな表情で頷いた。
ダイヤル錠のツマミに右手を伸ばした。
指が少し震えていたので、音を立てないように鼻から大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
ツマミを持った親指と人差し指に力を入れた。
右に回して4。
数字がきちっと印のところで止まっていることを確認した上で、左に回して6で止めた。
これも正確な位置で止まっていることを確認した。
あとは引っ張るだけだ。
開くことを祈って引っ張るだけだ。
お願いします!
強い気持ちを込めてツマミを引っ張った。
すると、
ググっという感触が指に伝わった。
開きそうだ。
わたしは期待を込めて彼女を見た。
彼女は信じられないというような目をしていた。
更にツマミを引っ張ろうと思ったが、開けた瞬間に受け口のチラシが落ちて音がしたら怪しまれるので、彼女にチラシを押さえてもらうことにした。
彼女は大丈夫というふうに頷いた。
表情が元に戻っていたので、少し安心した。
指先に力を入れて真っすぐに引くと、ギギッという擦れた音が辺りに響いた。
実際には大した音ではなかったはずだが、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
なので、しばらくそのままじっとして辺りを見回した。
大丈夫そうだ、
誰かがドアから出てくる気配は感じられなかったので、もう一度強く引いた。
今度はしっかり開いた。
90度開いてから中を見ると、チラシなどで溢れていた。
それをかき分けて鍵を探した。
底、正面、左右、天井と手を這わせた。
しかし、それらしきものはなかった。
がっかりした。
それでも、念のために探す役割を彼女と交代した。
彼女はチラシをすべて取り除いて探したが、やはり見つからなかった。
郵便受けは開いたが、鍵は見つけられなかった。
空っぽの郵便受けがわたしを嘲笑っていた。
「万事休す」
思わず声が出てしまったわたしは首を横に振りながら扉を戻し、最後に一押しして閉めようとした。
その時だった、
「待って」という声がかかった。
思わず指を離すと、彼女の指がツマミを持ち、ゆっくりと引き上げた。
最大限開くと、扉の裏側が見えた。
すると、テープで貼り付けられた真鍮色の物体が現れた。
鍵だった。