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(6)

 

『ボールペンを持つ手が疲れてきたし、時間の余裕もなくなってきたので、これから先は端折(はしょ)って書くことにする』


 えっ? 

 端折る? 

 そんな……、


 一気に妄想が萎んだが、それでも、ここまで読んで止めるわけにはいかない。一縷(いちる)の望みを託して次の文字を目で追った。


『最高の夜を過ごして、一睡もせずにライヴハウスへ行った。

 それでも眠気はなかった。

 アドレナリンが出まくっていたからだ。

 信じられないような速弾きを何度も決めることができた。

 バンドメンバーが驚くほどの演奏だった。

 歓声や拍手も凄かった。

 ロックスターになったような錯覚を覚えた。

 彼女が俺に力を与えてくれたのだ。

 正に、SANTA CLAUS IS COMIN′TO MEだった。


 コンビニのアルバイトを終えて彼女の部屋へ行くと、部屋を暖かくして料理を作って待っていてくれた。

 カレーライスだった。

 俺好みの辛めの味だった。

「メチャうまい」と言うと、彼女が嬉しそうに笑った。


 食べ終わって、彼女が後片づけをしている間にシャワーを浴びた。

 続いて彼女がシャワーを浴びにいったので、これからのことにワクワクしながらトランクスひとつでベッドに横になった。

 ところが、それがいけなかった。

 大あくびが何度も出たあと、瞼が異常に重たくなった。

 それでも抵抗して必死になって開けようとしたが、その努力は無駄に終わった。10秒もかからず瞼が閉じた。


 体を揺すられて目が覚めた。

 寝ぼけ(まなこ)にぼんやりと彼女の顔が映ると、「時間よ」と言って、左手の人差し指で俺の唇にチョンと触った。

 それで覚醒した俺は体の上に彼女を抱きかかえた。

 その瞬間、臨戦態勢になったが、彼女は「ダメ。早くしないと遅れるわよ」と言って、俺の腕を解いた。


 ライヴハウスへ行く時間になっていた。

 慌てて歯を磨いて、顔を洗って、髪を整えて、服を着て、玄関で靴を履いた。

 ギターケースを持ち上げると、彼女からビニール袋を渡された。

「サンドイッチを作ったから演奏の前に食べて」と言って、キスをしてくれた。

 グッときた。

 彼女をギュッと抱き締めて、玄関から飛び出した。

 走りながら涙が止まらなかった。

 幸せ過ぎて死にそうだった。


 下北沢のライヴハウスにはリハーサル直前に着いた。

 なんとか間に合ってホッとしたが、ギターのチューニング中に腹の虫が泣き始めた。

 音合わせの間中鳴き続けて、バンドメンバーに笑われた。


 リハーサルが終わって客の入場が始まった。

 開演前のわずかな時間に頬張ろうとビニール袋を覗いたら、サンドイッチを包んだラップの上にメモがテープで貼り付けられていた。

『一緒に住みましょう』と書かれてあった。

 彼女の顔が浮かぶと、〈同棲〉という言葉が頭の中で甘美に響いた。

 それが顔に出ていたのか、「どうしたんだよ、デレデレして」とドラマーにからかわれながらタマゴサンドとハムレタスサンドを頬張った。

 両方ともメチャうまかった。

〈世界一の幸せ者〉という言葉が胸の中で弾んだ。


 ライヴが休みの日に一気に家財道具を処分した。

 残ったのはCDとレコードとオーディオとギターとアンプとラジカセと衣類と靴だけだった。

 それをレンタカーのワンボックスに詰め込んで、彼女の部屋に運び込んだ。

 片づけを済ますと一気に部屋が狭くなったように感じたが、「家賃を二重に払うのはもったいないからね」と彼女は気にする様子もなかった。

「それに、コンビニのバイトが終わったら2分で会えるでしょ」と誘うような目で俺を見つめた。

 俺は飛びついてキスをした。

 そのあとのことは……想像に任す。


 同棲を始めて3か月ほど経った頃から将来のことを考え始めた。

 バンドとコンビニのバイトで得る収入で彼女を養うのは無理だった。

 もちろん彼女は一人で食べていける程度の収入を得ていたので俺が養う必要はなかったが、次のステップへ進むためには大幅な収入増が必要だった。

 俺は音楽から離れて真っ当なサラリーマンになることを考えた。


 決心した翌日にそれを伝えると、即座に反対された。

 それだけでなく、CDデビューという大きな夢を絶対に諦めてはいけないと強い口調で(とが)められた。

 その顔は怖いほどに真剣だった。

 何か言おうとしたが、声を出すことができなかった。

 見つめられたまま、痛いほどの沈黙が続いた。

 耐えきれなくなって目を離すと、訴えるような声が耳に届いた。


「デビューCDの表紙を私のイラストで飾りたいの」


 そんなことを考えていたなんてまったく知らなかった。

 俺は頭をガーンと殴られたようになって言葉を失った。

 ちまちま現実的なことを考えていた自分が嫌になり、彼女と目を合わせられなくなった。

 それでも夢を共有してくれていたことへの感謝が湧き出てきて、目頭が熱くなった。

「わかった」と呟くと、彼女が手を握ってきた。

 俺はその手を握り返して顔を向け、もう一度「わかった」と言った。


 しかし、前向きな返事はしたものの、それが簡単でないことは自分が一番よく知っていた。

 CDデビューするためには高いハードルを越えなければならなかった。

 強力なオリジナル曲、つまり、インパクトのある唯一無比の楽曲が必要なのだ。

 だが、そんなものはどこにもなかった。

 持ち歌はあったが、強力でもなく、インパクトもなかった。

 ライヴハウスでレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの曲を演奏すると歓声が上がるが、オリジナル曲に対しては反応が薄いのだ。

 キーボード奏者が作る曲はメロディに重きを置き過ぎてパンチが足りなかった。

 だから今までとは違う強力でインパクトのあるオリジナル曲が必要だった。

 レッド・ツェッペリンやディープ・パープルと同レベルとは言わないまでも、プロとしてやっている連中を超えるものが必要なのだ。


 それはわかっているが、わかっていることとできることとは違う。

 唯一作曲ができるキーボード奏者に頼んでも、今の延長線上のものしかできないだろう。

 とすれば、自分で作るしかないが、作曲なんて一度もやったことがない自分にそれを求めるのは無理だ。

 特技と言えば正確にコピーすることくらいなのだ。


 ちゃんちゃらおかしいよな、


 己を(さざけ)った瞬間、彼女の顔が浮かんできた。

 そして、「デビューCDの表紙を私のイラストで飾りたいの」という声も。

 そうなのだ、約束したのだ。

「わかった」と言って手を握り返したのだ。


 う~ん、


 両手で顔を覆って、そのまま動けなくなった。

 出口のない迷路を彷徨いながら、1週間があっという間に過ぎていった。


「どうしたんだ?」


 ライヴが終わった時、ヴォーカルが声をかけてきた。


「ん?」


「いや、元気ないからさ」


 演奏にいつものキレがないし、アクションも決まってないというのだ。


「うん、ちょっとね……」


 ごまかして帰ろうとしたが、それを許してくれなかった。


「話してみろよ」


 正面から見つめられると、これ以上しらばっくれるわけにはいかなくなった。

 彼女のこと、新たなオリジナル曲が欲しいことを正直に話した。

 すると、「やってみようよ」という声がすぐに帰ってきた。

 今までとは違う強力な曲が必要だと彼も思っていたのだという。


「いろんなリフ(繰り返される特徴的なフレーズ)を考えてくれないかな。それにメロディを乗せるから」


 共作しようという。

 その途端、目から鱗が落ちた。

 自分だけでなんとかしようともがいていたが、誰かと一緒にやるという考えはまったくなかった。


「そうだな」


 悟られたくないのでわざと低い声を出したが、心は踊っていた。

 光が見えたのだ。

 体の中から熱い何かが湧き出してくるのを感じて、じっとしてはいられなくなった。


 思い切ってコンビニのバイトを辞めた。

 曲作りに専念するためだ。

 いくつものリフを考えてはヴォーカルに聞かせ、それに歌を乗せる試行錯誤が始まった。


 しかし、そんなに簡単にいい曲ができるはずはなかった。

 俺が考えたリフはジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアのそれに似ていたし、ヴォーカルの歌も同じだった。

 コピーの域を出ていなかった。

 俺は頭を抱えた。

 彼女に言われてその気になったが、改めて才能の無さを痛感させられた。

 コピーバンドのリードギタリスト以上ではなかったことを思い知らされた。

 カッコいいオリジナル曲を作ってデビューするという目標は夢物語でしかないと認めざるを得なかった。


 新しいオリジナル曲への期待が萎んでいくと、俺とヴォーカルにとどまらずバンドのエネルギーも落ちていった。

 目標が遠ざかって見えなくなってしまったのだから当然だ。

 次第にステージでの演奏に切れがなくなり、観客を煽るようなパフォーマンスも少なくなっていった。


 観客はそれを敏感に感じ取った。

 それが歓声と拍手に表れ、アンコールも求められなくなった。

 すると、今まで大事にしてくれていたライヴハウスのオーナーの態度も変わり始めた。

 それは、いつお払い箱になるかわからない危険な状態に追い込まれていることを意味していた。


「アプローチの仕方を変えてみたら?」


 元気がなくなった俺を見かねたのだろう、彼女が遠慮がちに手を差し伸べてきた。


「ドラマーが叩くリズムにギターを合わせてみたらどうかしら?」


 彼女は、レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボ―ナムの大ファンだった。


「袋小路に迷い込んでしまったら、そこでもがくんじゃなくって、まったく違うことをしてみることも大事なんじゃないかな?」


 彼女は自らの経験を話し始めた。マウスやペン入力で描くイラストが思い通りにできない時は、紙に色鉛筆で書いたり、時には小さなカンヴァスを買ってきて油絵を描くこともあるというのだ。そうすることによって新たな視点に気づいたり、今までにない発想が浮かんでくるのだという。


「同じことをしていても(らち)が明かないと思うの。発想を変えたり、アプローチを変えてみることは大事だと思うわ」


 俺はそれをぼわ~んと聞いていた。

 演奏経験のない彼女の言葉は胸に響かなかった。

 それに、ドラマーが叩くリズムから曲を作るなんて非現実的だと思った。

 イラストを描くことと曲を作ることは違うのだ。

 心配してくれるのはありがたかったが、アドバイスを実行しようとはまったく思わなかった。


 その夜の演奏は酷かった。

 今までで最低の演奏だった。

 ヴォーカルの声はガラガラだし、ベースとキーボードのアドリブは無茶苦茶だった。

 ファンクっぽいソロやジャズっぽいフレーズが飛び出してきて、ハードロックバンドの演奏とはとても思えなかった。

 そんな中、ドラムのソロが始まった。

 彼は怒りで顔を真っ赤にしていた。

 いつスティックを放り投げてステージから出ていってもおかしくないほど怒りに満ちていた。

 しかし、その演奏はド迫力と言っても過言ではなかった。

 ジョン・ボ―ナムの化身のようだった。

 俺はその演奏に圧倒された。

 それは観客も同じようで、会場全体が息を飲んでいるように思えた。


 ドラマーが俺に目で合図をした。

 そろそろソロを終えるという合図で、次は俺の番だった。

 俺はドラマーに向かって両手でスティックを振る仕草を投げた。

 叩き続けるようにと伝えたのだ。

 ドラマーは頷き、演奏を続けた。


 彼が叩き出すリズムの上にギターのリフを乗せた。

 それは今まで一度も弾いたことのないリフだった。

 突然、会場から手拍子が起こった。

 ギターとドラムのアンサンブルに乗ってきた証拠だった。

 すると、ベースが合わせてきた。

 迫力ある重低音がバスドラムとシンクロした。

 キーボードも合わせてきた。

 オルガンの音色にチューニングした低音でベースラインとシンクロを始めた。

 それに刺激されたのか、ヴォーカルが高音で歌い始めた。

 無茶苦茶な英語だったが、カッコいいメロディになっていた。


 会場からの歓声と手拍子が一段と大きくなった。

 バンドと観客が一体となって興奮のるつぼと化していった。

 俺は夢中になってギターを弾きまくった。

 エンディングでベースとヴォーカルと一緒に飛び上がって着地すると、耳をつんざくほどの歓声と拍手が巻き起こった。

 会場全体が揺れていた。

 俺は胸がいっぱいになって泣きそうになった。

 今にも涙が零れそうだった。

 くしゃくしゃな顔になりながら、ここにはいない彼女を思い浮かべて礼を言った。

 彼女のアドバイスがなかったらこの曲はできなかったからだ。


 拍手と歓声が一段と大きくなった。

 俺は両手を頭の上に上げて観客席に向かって拍手を返した。

 ファンへの感謝と彼女への想いを込めて強く手を叩き続けた。


 客が全員帰ってから録音を聴いた。

 それを頭に叩き込んで再現した。

 何度も何度も演奏を繰り返して頭と指と体に叩き込むと共に、ヴォーカルがその場で歌詞を付けて曲を完成させた。

 タイトルは『Rock`n` Roll OverNight』とした。


 すぐにスタジオを借りてデモテープを作り、大手だけでなく中小も含めたすべてのレコード会社に送った。

 そして待った。

 1日、2日、3日……、

 1週間……、

 メンバー全員で祈りながら待ち続けた。

 しかし、スマホが鳴ることはなく、手紙も来なかった。

 何処のレコード会社からも連絡はなかった。


 2週間経って諦めた。

 メンバー全員で思い切り落ち込んで、酒をかっ食らって、「あいつらは聞く耳がない」とレコード会社を罵倒して、それで気持ちを切り替えた。

 レコード会社から連絡は来なかったが、しっかりとした手応えを感じられていたからだ。

 ライヴハウスでその曲を演奏するとメチャクチャ盛り上がって、必ずアンコールを求められた。

 サビの部分を一緒に歌う客が増えて毎回大合唱になった。

 噂が噂を呼んで、立ち見の客で会場が埋め尽くされるようになった。


 俺たちは次の準備にかかることにした。

 もっとカッコいい、もっとインパクトのある曲を作るのだ。

 前回同様ドラマーが叩く色々なリズムをバックに俺がリフを弾いてヴォーカルがメロディを乗せていく作業を繰り返した。


 期待以上の曲が出来上がったのは8日後だった。

 今回はすぐにデモテープ作りはしなかった。

 ライヴハウスで演奏をしながら曲を磨いていくことを優先した。


 新曲のお披露目の日がやってきた。

 今夜は会場に彼女を呼んでいた。

 控室でメンバー5人が肩を組んで、掛け声をかけて雄叫びを上げた。

 俺は両手で頬をバチンと叩いて気合を入れた。


 ステージに立つと、大歓声が迎えてくれた。

 レッド・ツェッペリンとディープ・パープルの曲を各2曲演ったあと、『Rock`n` Roll OverNight』のリフを弾いた。

 その瞬間、つんざくほどの歓声がステージに押し寄せ、ヴォーカルがシャウトをすると女性客のキャーという嬌声が襲いかかった。

 熱くなった俺は乗りに乗ってギターを弾きまくった。

 それがまた観客を煽って、会場が更にヒートアップし、大歓声の中でエンディングを迎えた。


 興奮冷めやらぬ中、ヴォーカルがマイクスタンドを握って新曲の名を告げた。

『Break Through』

 曲名に観客が即座に反応して歓声が上がり、手拍子が始まった。

 それに乗ってドラムがリズムを刻み、俺がリフを重ねた。

 更にベースとシンセサイザーが加わり、歌が始まると、それまで座っていた観客が全員立ち上がった。

 そして、「Break Through」を連呼するサビになると、観客が一斉に両手の拳を突き上げて歌い出した。


「打ち破れ! 打ち破れ! クソみたいな毎日をぶち壊せ!」


 総立ちで顔を真っ赤にして拳を突き上げ続けた。

 その中に彼女の姿もあった。

 日頃の様子とは違って真っ赤な顔で拳を突き上げて叫ぶように歌っていた。

 それを見た俺は全開になった。

 荒れ狂う魂が炎となって両手の指を包み込んだ。

 燃えるような連符の嵐を会場に突き刺しながら、

 阿形(あぎょう)のようになっているであろう顔で火を噴くように吠え続けた。

 すると、発火点に達した観客の絶叫がバンドを刺激し、更なる波動を生み出した。

 異次元の興奮が会場を揺らし続けた。


 ライヴが終わって客が全員帰ったあと、メンバーと一緒に録音を聴いた。

 文句なしだった。

 迫力のある演奏と歌、会場の反応、これ以上はないと言ってもいいくらいの最高の盛り上がりだった。

 即座にこれをデモテープにすることを決めた。

 翌日カセットテープにダビングしてレコード会社に送った。


 4日後、新宿のライヴハウスの楽屋に名刺を持った男たちが現れた。

 レコード会社のディレクターだった。

 余りに反応が速いので驚いたが、チャンスが飛び込んできたのは間違いなかった。

 名刺を受け取った俺の心臓は早鐘を打ち始めたが、それは他のメンバーも同じようで、演奏する前から顔が紅潮していた。


 オープニングから『Rock`n` Roll OverNight』と『Break Through』を続けて演った。

 会場の盛り上がりは半端なく、最後列に陣取っているディレクターたちを驚かすのに十分すぎるものだった。

 そのせいか、その日のうちに俺たちの獲得合戦が始まった。


 その後、すぐに3社から契約条件が出された。

 その中で最も契約金が高く、バックアップ体制が整っているレコード会社を選ぶことにした。

 それは千代田区にある会社だった。

 総武線の市ヶ谷駅から見える黒い変形のビルの中で契約を交わした。

 外に出ると真っ青な空が俺たちを祝福していた。

〈前途洋々〉という言葉が脳裏に浮かんだ。


 彼女の待つ部屋に急いで戻った。

 契約をしてきたことを伝えると、飛びついてきて、「おめでとう」と「良かった」を何度も発した。

 俺は「君のお陰だよ」と感謝の言葉を伝えた。

 すると、〈幸福絶頂〉という言葉が頭をかすめた。

 ところが、絶頂を超えた更なる喜びが俺を待っていた。

 彼女の口から予想もしていなかったことが告げられたのだ。

 俺は驚きの余り開いた口が塞がらなかった。

 目ん玉が飛び出すかと思うくらい瞼が開きっぱなしになった。

 彼女は「できたの」と言ったんだ。

 小さな命が彼女のお腹の中に芽生えていた。

 目と口を大きく開けたまま涙が零れてきて、口の中にしょっぱい水が流れ込んできた。

 すると契約のことなんてどうでもいいくらいの喜びが俺を包み込んだ。

 デビューと妊娠という二つの贈り物を手にして舞い上がってしまった。

 すると、〈人生最良の日〉という言葉が頭の中で踊り始めた。


 翌日、なけなしの貯金を下ろして指輪を買った。

 まだプロポーズをしていなかった。


 その夜、彼女をライヴ会場へ呼んだ。

 最前列の中央席を確保していた。

 オープニングで彼女の大好きな曲のイントロを爪弾いた。

 レッド・ツェッペリンの『Stairway to Heaven』

 ギターのアルペジオにエレキピアノの音が重なると、俺は弾くのを止めて、スタンドにギターを立てかけ、アンプの上に置いていた小さなケースを持った。

 ピアノ演奏だけをバックにステージから客席へ下り、彼女の前で立ち止まった。

 右膝を床に付けて(ひざまず)いた。

 右手に持った濃紺のリングケースを左手で開け、シンプルなデザインのプラチナリングを取り出した。

 彼女の左薬指にはめると、リングに大粒の真珠が落ちた。

 それを合図にしたかのように『ウェディングマーチ』の演奏が始まった。

 シーンと静まり返っていた会場が一気に息を吹き返した。

「ブラボー」という声と割れんばかりの拍手が彼女と俺を包み込んだ。

 彼女の目から幸せの涙が流れ続けた。


 1週間後、ライヴハウスのメンテナンス日を利用して彼女の実家に向かった。

 北海道の旭川だった。

 羽田から1時間40分のフライトで、12時丁度に空港に着くと、レンタカーを借りて、実家への道を急いだ。

 1時間半ほどで着くという。

 彼女はお腹を締め付けたくないと言って、後部座席の助手席側に座った。

 でも、前がよく見えないという理由で中央部分にお尻をずらした。

 バックミラーの中央に写る彼女の顔をちらちら見ながら、直線に近い道路を快適に飛ばした。

 バックグラウンドミュージックはレッド・ツェッペリンで、ジミー・ペイジの速弾きが始まると、どうしてもアクセルを踏み込みがちになった。

 その度に彼女が速度を落とすように後ろから声をかけてきた。


 1時間ほど経った頃、雨が落ち始めた。

 最初はパラパラという感じだったが、5分もしないうちに叩きつけるような雨になった。

 それでも、気にしなかった。前方にまったく車の姿が見えなかったし、対向車線を走る車もほとんどいなかったからだ。


 曲が『Stairway to Heaven』に変わった。

 雨音に負けないようにボリュームを上げた。

 生ギターのアルペジオが美しく響き、ロバート・プラントの神秘的な歌声が車内を満たした。

 聴き惚れていると、リズムが変わって怒涛のような後半に雪崩れ込み、誘われるようにアクセルを踏み込んだ。

 その途端、フロントガラスに叩きつける雨粒が視界を遮った。

 それを蹴散らすようにワイパーを高速にすると、右目の端に何かが見えた。

 でかいバイクだった。

 物凄いスピードで俺の車を追い越そうとしていた。

 その時、反対車線に車が見えた。

 トラックのようだった。

 それを避けようとバイクが車体を左に倒して、車の前に割り込んできた。

 しかし、アッという間もなくスリップして転倒した。

 俺は無意識にハンドルを左に切ってバイクを避けようとしたが、次の瞬間、電柱に激突した。

 激しい衝撃と共にエアバッグが顔面を襲い、視界が閉ざされたと同時に意識が消えた。


 気がついたらベッドの上にいた。

 病院のようだった。

 頭が朦朧(もうろう)としていた。

 それに、顔に強い痛みを感じた。

 右腕に点滴の管が見え、左腕は痺れていた。

 ハッとして探したが、彼女を見つけることはできなかった。


 少しして医師と看護師が入ってきた。

 彼女は別の部屋にいるという。

 ほっとしたら、瞼が重くなった。

 医師と看護師の姿が暗闇の中に消えるのに時間はかからなかった。


 しばらくして目が覚めたが、頭がボーっとしていた。

 それでも、じっとしてはいられなかった。

 ナースコールのボタンを押すと、看護師が医師を連れてやってきた。

 脳震盪(のうしんとう)に加えて、顔に火傷を負っていると伝えられた。

 シートベルトとエアバッグによって助かったが、膨張速度が最大で300キロ近くに達するエアバッグの衝撃は半端ではなかったようだ。

 でも、そんなことより彼女のことが知りたかった。

 それを伝えると、医師の顔が曇った。

 彼女は地下の部屋にいるという。

 直ぐに会いたいと訴えたが、頭を振られた。

 それでも会わせてくれとしつこく頼んだが、返ってきたのは信じられない言葉だった。


「警察が検死中」


 検死? 

 えっ、検死? 


 初めて耳にする言葉が鼻と口を塞ぎ、息ができなくなった。

 体が硬直したようになり、瞳に医師の姿を焼き付けたまま気を失った。


 その後、検死を終えた警察官から事情聴取を受けた。

 記憶にあることをすべて正直に話したが、電柱に衝突したあとのことは何一つ覚えていなかった。

 そのことを告げると、警察が現場の状況を説明してくれた。

 車は大破して原形をとどめていなかったし、彼女はフロントガラスを突き破って車外に放り出されていたという。

 後部座席でシートベルトを締めていなかったのが原因のようだった。

 バイクを運転していた男は軽傷で済んだらしい。

 警察から「ブレーキは踏んだか?」と訊かれたが、その記憶もなかった。

 アクセルを踏み込んだまま電柱にぶつかったかもしれないが、何も覚えていなかった。


 事情徴収が終わったあと、霊安室に連れて行って欲しいと医師に頼んだが、今は動かない方がいいと止められた。

 しかし、その後も彼女の亡骸(なきがら)に対面することは叶わなかった。

 彼女の両親から拒絶されたからだ。

 更に、葬儀に出席することも拒否された。

 それだけでなく、早く目の前からいなくなってくれ、と冷たく言われた。

 娘は俺に殺されたと思っているに違いなかった。

 可愛い一人娘をやくざなギタリストに殺されたと。

 俺は頭を抱えたが、悔やんでも悔やみきれなかった。


 どうして制限速度を守らなかったのだろう? 

 どうして彼女を助手席に座らせなかったのだろう? 

 どうしてシートベルトをするように言わなかったのだろう?

 彼女のお腹の中に子供がいたのに……、

 何故? 

 何故?? 

 何故??? 


 自分の愚かさが胃液となって逆流を続け、食道を、そして口の中を焼けるような痛みが襲いかかった。


 幸せ絶頂のドライブだったのに……、

 まさか地獄行きのドライブになるなんて……、

 俺はなんということをしてしまったんだ! 


 頭を抱えると、脳内に沈鬱な音楽が鳴り響き、おどろおどろしい歌声が聞こえてきた。

 その歌声は同じフレーズを何度も繰り返した。

 Stairway to Hell、Stairway to Hell、Stairway to Hell、Stairway to Hell……、


 東京に戻った俺がバンドに復帰することはできなかった。

 精神面だけでなく肉体的な問題を抱えていた。

 事故直後に痺れていた左腕が回復しないのだ。

 体調が戻ったあとも痺れ続けていた。

 筋や神経が痛んでいるわけではないのに痺れが取れないのだ。

 医者は精神的なものから来るのかもしれないと言った。

 どちらにしても肘から下が痺れて感覚が麻痺していた。

 そのせいで指が思うように動かせなかった。

 しかしそれはギタリストにとって致命的とも言えるものだった。

 それくらい左手の指は大事なものなのだ。

 コードを押さえるのも単音を押さえるのも左手の指で、ピックを持つ右手の指がどんなに速く動いても左手の指が動かなければ速弾きはできない。

 左手の指を思うように動かせないのはギタリストにとって死を意味することと同じなのだ。


 そんな状態の中、彼女の家族が荷物を引き取りに来た。

 彼らが出て行くと、ガランとなった部屋に一人で取り残された。

 その上、賃貸契約を解除されてしまったから、ここに住めるのは月末までだった。

 新たな契約をしようにも、無職になった俺にその金はなかった。

 ギターとアンプとラジカセを売り払った金と最低限の荷物を持って、契約最終日に部屋をあとにした。

 レコードとCDは親身に面倒を見てくれた新宿のライヴハウスのオーナーに預かってもらった。いつか取りに来るからと言い残して、東京を脱出した。


 海道線を各駅電車に乗って西へ下った。

 いろんな所で簡易宿泊所に泊まりながら日雇いの仕事をした。

 金ができると酒と女に使った。

 それを繰り返して浜松に辿り着いたが、疲れ果てて生きる気力がなくなっていた。

 浜名湖で死のうと思った。

 素面(しらふ)で入水自殺する勇気はなかったから、湖畔の居酒屋で酒を浴びるように飲んだ。

 意識朦朧(もうろう)の状態で湖に身投げするつもりだったからだ。

 でも、思う通りにはいかなかった。

 有り金全部を飲み干して立ち上がろうとしたら足が立たず、床にぶっ倒れて動けなくなった。ゲロをぶちまけたまま意識を無くしたらしい。


 気づいたら畳の上で寝ていた。

 居酒屋の座敷で、誰かが介抱してくれたらしい。

 ふらついて立ち上がることができなかったので壁にもたれて座っていると、年配の女性が水を持ってきてくれた。

 女主人だった。

 昨夜は大変だったらしい。

 何人かの客に手伝ってもらってやっとこさ(・・・・・)座敷に寝かせたと思ったら、むくっと起きて、「死ぬ~! 死ぬ~!」と何度も叫んで暴れたのだという。

 ほとほと手を焼いたと思い切り首を横に振られた。


 非礼を詫びると、事情を訊かれた。

 問われるまま話すと、何も言わず耳を傾けてくれただけでなく、「大変だったね」と慰めてくれたが、「でも命あっての物種だからね」と諭された。

 それから誰かに電話して何かを頼んでいた。

 最終的にその人の伝手(つて)で今の仕事をすることになったが、俺は死に損なって空っぽの人生を続けることになった。

 それからのことは端折る。

 紙が残り1枚になったのでビーちゃんに頼みたいことだけを書く。

 現世から逃れて過去で生きることを決断した俺の最後の願いを聞き入れて欲しい。


 同封した写真をイギリスへ持って行ってもらいたい。

 レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボ―ナムの生家のあるレディッチという街だ。

 そこに彼の銅像がある。

 その足元にこの写真を置いてきて欲しい。

 そのための費用として通帳に僅かばかりの金を入れておいた。

 ライヴハウスのオーナーに預かってもらっていたCDとレコードを彼が高く買ってくれた上に、浜松でコツコツ買い貯めたCDとレコードもそこそこの(・・・・・)値段で売れたので、多分、往復の旅費とホテル代くらいにはなると思う。

 この金でレディッチへ彼女を連れて行って欲しい。

 結婚することも子供を産むこともできなかった彼女の無念の魂を鎮めるためにも、なんとしてでも連れて行ってもらいたいんだ。

 ビーちゃん、頼む。

 俺の望みを叶えてくれ。

 彼女と、そして抱くことのできなかった俺たちの子供の魂をレディッチに運んでくれ。頼む‼』


 そこで長い手紙が終わっていた。

 読み終えると、どんよりとした鉛のベールに包まれたようになり、なんとも言えない哀しみに襲われた。


 どれほど辛かったか……、


 唇が震えてきて、しばらく止まらなかった。


 沈うつなまま手紙を置き、通帳に挟まれている写真を手に取った。

 1枚は彼女のお腹が主役になった写真だった。

 妊娠がわかって狂喜乱舞した松山さんが撮った写真に違いなかった。

 もう1枚はライヴハウスで松山さんが彼女にリングを()めている時の写真だった。

 スタッフが撮った写真だろうか? 

 彼女も松山さんもぐずぐず(・・・・)に涙を垂れ流していた。

 その写真を見ると泣けてきた。

 我慢していた分、風呂の栓を抜いた時のように涙が流れだした。

 右手を口に当てたが声を止めることはできなかった。

 赤ん坊のように声を上げて泣いた。

 疲れ果てて眠るまで泣き続けた。



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