(8)→1505年
画材店の人と三人で建物を出た。
月明りが石畳を照らしていた。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会を過ぎたところで店の人が立ち止まった。
ここで別れるらしい。
彼は高松さんとわたしを親しげにハグしてくれたので、伝わるはずもなかったが、日本語で「ありがとうございました。大変お世話になりました」と礼を言った。
すると、「プレーゴ。アリヴェデルチ」と言って、手を上げて離れていった。
〈どういたしまして。また会いましょう、さようなら〉という意味だと高松さんが教えてくれた。
それを聞いて、中世のフィレンツェに友人ができたような気がして嬉しくなった。
「今仁君……」
店の人の後姿を見送りながら、高松さんが思い詰めたような声を出した。
「死ぬまでここに居ようと思う。もう二度と現実の世界には戻らない」
弟子になって絵を描き終わったら現実に帰るものだと思っていたわたしは、思い切り首を横に振った。
しかし、高松さんはそれを制するように言葉を継いだ。
「両親の夢を叶えたいんだ。それが何よりの供養になるはずだからね」
えっ?
供養?
ということは亡くなったということ?
なんで?
「二人は自ら命を絶ったんだ。一生かかっても払えないような借金を抱えたから、せめて自分たちの保険金で僅かでも穴埋めをしようと考えたらしい。自己破産をしたんだから借金は免除になるんだけど、彼らの倫理観がそれを許さなかったんだろうね。でも、保険金が支払われることはなかった。保険法では自殺の場合は死亡保険金を支払う必要がないとされていることを両親は知らなかったんだろうね。だから犬死になんだよ。たまらないよ」
そして、高松さんは何度も首を左右に振ってから、
「もう終わったことだから今更どうしようもないんだけどね」と悲しげな表情を浮かべた。
その顔を16世紀の月が照らしたが、
〈もうおしまい〉というように雲が遮って、闇を連れてきた。
正に闇だった。
真っ暗で高松さんの表情がまったく見えなくなった。
不安になったわたしは手を伸ばそうとしたが、それより先に彼の手がわたしの両肩を掴んだ。
「頼みがあるんだ。二つある。聞いてくれるか」
真剣な声だった。
「一つは、仕事のことだ。もう現実の世界には戻らないから、交通誘導警備員の仕事は続けられない。現場監督にその旨を伝えて欲しいんだ」
そして、「どういう理由がいいかな~」という声が届いたあと、
「そうだな~、う~ん、もう一遍親に死んでもらうことにするか。ん~、それしかないよな~、うん、それしかない。監督は俺のプライベートのことは何も知らないから信用すると思う。今仁君、親が死んだから故郷の高知県に帰ったと言ってくれないか」
「でも、高知に帰るっていっても、実際には帰る家はないですよね」
「まあね。京都にもないしね。でも監督が知っていることと言えば〈高知出身の高松〉ということだけなんだから、それで押し通すしかないんだよ」
「まあ、そうですけど……」
「無理を言ってるのはわかってる。でも、それしかないんだ。親が死んだから地元の高知に帰ったって言うしかないんだよ。それで押し通してくれないかな」
高松さんが両手を合わせて拝むようにして、頭を下げた。
そこまでされると、断るとは言えなくなった。
それに松山さんの時に嘘で誤魔化したという前歴もある。
一度も二度も同じだ。
わたしは引き受けると返事をした。
すると高松さんはほっとしたように息を一つ吐き、もう一つの頼みごとを口にした。
それは妹のことだった。
「10歳年下だから君と同い年くらいだろう。今東京に住んでいる。姓は高松ではない。両親が自殺したあとオフクロの妹に引き取られたからその姓を名乗っている。徳島だ」
えっ、徳島?
高知出身の高松さんの妹が徳島?
頭の中で糸がもつれてこんがらがった。
「名前は〈えみ〉。絵が美しいと書く。両親の想いが詰まった名前だ。今は美術に関する仕事をしている。東京の美術館でキュレーターをしているんだ」
キュレーターとは聞いたことのない言葉だったが、日本では学芸員と呼ばれていて、展覧会の企画や構成、運営などをする美術館の専門職だということを教えてくれた。
「妹に連絡を頼みたい。私が16世紀のフィレンツェに行って、もう二度と現実の世界に戻って来ないことを伝えて欲しい」
しかし、わたしは即座に頭を振った。
「そんなことを言っても妹さんは信用しませんよ」
「大丈夫。私の妹だ。私のことをよく知っている。それに普通の女とは違う。あり得ないことでも理解することができる。だから大丈夫だ。ありのままを伝えて欲しい」
確信に満ちた声だった。
NOと言わせない強さがあった。
すると、その強さが雲を蹴散らしたのか、月光が戻ってきた。
「それから、今まで貯めてきたお金や身の回りの物を妹に渡して欲しい」
通帳やカードや印鑑をしまってある場所を告げられた。
「それと、部屋の中には私が描いた絵がいっぱい置いてあるから、それも妹に見てもらいたいんだ」
それだけでなく、もし気に入ったものがあれば、1枚くれるという。
「引き受けてくれないか。妹の電話番号と私の住所と鍵を隠してある場所を書くから、それを預かって欲しい」
ポケットから紙と黒チョークを取り出して、平らな石の上でそれらを書いた。
そして、それを四つ折りにして差し出した。
しかし、受け取らなかった。
「それを受け取ったら電車に乗ることはできません」
未来へ行った松山さんの新聞のことを思い出していた。
そのことを高松さんに詳しく伝えた。
「情報漏洩と判断されたら乗れなくなるんです」
「でも、それは未来の情報を悪用しようとしたからだろう。これは違うよ。現在の情報を現在に持っていくだけなんだから」
彼は折り畳んだ紙を押し付けたが、再び拒んだ。
「わたしも人間です。出来心で高松さんの貯金を奪うかもしれません。そうなると意味が変わってきます。過去で得た情報を悪用したことになるのです」
言い終わると同時に彼が反論した。
「今仁君は貯金を奪ったりしない。そんなこと1ミリだって考えていないだろ」
信用しているというようにわたしを見つめて、両肩を強く掴んだ。
「まあ、そうですけど。そんなことは絶対しないですけど。でも……」
困り顔になっているであろうわたしをじっと見ていた高松さんが、小さく頷いた。
「わかった。君の危惧を否定するのは止める。慎重には慎重を期して、最悪のケースを想定した上で事に当たることにしよう。確かに情報漏洩の疑いを回避するためには何も持たないのが一番だ」
自らを納得させるようにまた頷いて、折り畳んだ紙をポケットにしまった。
「妹の名前は徳島絵美。東京の美術館でキュレーターをしている。この情報だけを持って帰ってくれ。それ以外は現実の世界に戻ってから君が探し当ててくれ」
妹さんの連絡先も高松さんの住所も鍵の隠し場所も自力で探せという。
一瞬躊躇したが、高松さんの手がわたしの両肩を強く掴んで「頼む!」と言った瞬間、「わかりました」と返事をしていた。この状況で断る事なんてできなかった。
「ありがとう」
高松さんの両手から一気に力が抜けて両肩から手が離れ、もう話すことは何もないというように目を瞑って頷いた。
すると、別れを促すように雲が月にかかって薄暗くなった。
わたしは彼の顔を見つめた。
もう二度と会えなくなるかもしれない彼の顔をしっかりとこの目に焼き付けておきたかった。
しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、「では、そろそろ行きます」と別れを告げ、電車に乗るために背を向けた。
すると、「見送るよ」という声が聞こえて、高松さんが追いかけてきた。
立ち止まったわたしはもう一度彼の顔を見つめたが、そのあとは無言で並んで歩いた。
*
少し行くと、城壁が見えた。
フィレンツェの町を取り囲んで外敵の侵入を防御している城壁だった。
わたしがその前に立つと、地下へと通じる通路が開いた。
「お元気で」
「君もな」
僅かな月光の中、固い握手を交わして高松さんと別れた。
背中に彼の視線を感じながら通路を下りて行った。
改札口の直前で振り返って上を見た。
高松さんが手を振っていた。
わたしも振り返した。
これで最後だと思うと、なんだかとても切なくなった。
それでも、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかないので、モニターの前に立った。
〈情報漏洩〉という文字は現れなかった。
その後、〈本人確認終了〉の表示が出たので改札を抜けることができた。
これでなんとか帰れそうだと思うとほっとしたが、心残りがわたしを振り返らせた。
しかし、地上へ通じる通路はどこにも見当たらなかった。
その瞬間、〈永遠の別れ〉という言葉が頭に浮かんだ。
一気に体が鉛のように重くなった。
いや、それは体だけではなかった。
心はそれ以上に重かった。
でも、どうしようもなかった。
もう後戻りはできないのだ。
わたしは電車が待つプラットホームに向けて歩き出した。
電車に乗り込もうとステップに足をかけた時、また未練がわたしを振り返らせた。
しかし、改札口も消えていた。
それは乗客が一人だけだということを知らしめるようだった。
高松さん……、
席に座って呟きを投げたが、彼の顔が窓に浮かび上がってくることはなかった。