第297話 岐路 -1-
翌日も、影渡さんを訪れるため、番所に向かう蒼月さんに送ってもらう。
受付処に着くと、蒼月さんは昨日と同じように結界を張るだけ張って部屋を出て行った。
影渡さんがお茶を出してくれたので湯呑みを持ち上げる。
すると・・・
「これ・・・!」
ふわりと香る懐かしい香りに、思わず胸が躍った。
「ふふ、わかります? 今朝、人間界から持ち帰ったほうじ茶です。」
「やっぱり・・・。懐かしい匂いだなあって思って。」
湯呑みを口に運ぶと、香ばしい風味がじんわりと広がる。喉を通るたび、身体の奥までほっと緩むような感覚だった。
「いい香りですね。向こうでは、よく飲んでました。春も、夏も、秋も、冬も・・・」
私が香ばしい香りとともに蘇ってくる記憶を辿りながらそうつぶやくと、影渡さんはふっと目を細めた。
「人間界での時間も、やっぱり大切な思い出なんですね。」
「はい・・・なんだかんだで。」
湯呑みの底に残ったほうじ茶の香りが、胸の奥に静かに染みこんでいく。
――帰るべき場所は、ひとつじゃない。
そう思えたのは、この世界で誰かに受け入れられたからだ。
この感情も、大事にしたい。だからこそ、選ばなきゃ。自分の意思で。
そんなことを考えて、口をつぐむ。
その様子をじっと静かに見ている影渡さんも口を開くことはない。
そんな少しの沈黙の後、影渡さんはお茶をひと口飲んでから、静かに話を切り出した。
「さて、本題なのですが・・・琴音さんの通行証の件、確認が取れました。」
私は思わず背筋を正した。
「結論から申し上げますと、あなたが“陰陽院”に正式に所属する意志があるのであれば、職員専用の通行証が発行できる、とのことでした。」
「職員専用の・・・?」
「はい。本来なら職員専用の通行証も発行には時間がかかるのですが、審神座の長の血筋であることが確認できた以上、今回は“特例中の特例”として対応できるそうです。」
それを聞いて、私は思わず目を見開いてしまった。
特例中の特例という言葉に驚いたわけではない。職員専用の通行証が存在することと、それを発行してもらえるかもしれないということに、だ。
「出入り、自由にできるようになるんですか?」
「基本的には。ただし、出入りのたびに報告が必要で、監査対象にはなります。まあ、それでも通常の通行証よりははるかに柔軟な運用ができますよ。」
そんな特別な通行証が人間界に存在するなんて、考えたこともなかった。
そして、母がそれを持っているかもしれないという事実も、私を驚かせた要因の一つである。
通行証を持っていたのであれば、あの落ち着きっぷりも少し理解できる気がする。
娘が突然行方不明になったにしては、マイペースすぎるとは思っていたのだ。
(あやかし界に行っているというのが分かっていたのだから、いざという時は自分が出向けばいいんだもんね・・・)
本当に母は私には何一つ伝えていないし、もしかしたら本当に何も伝えるつもりがなかったのかもしれない。
しかし、この話が出たということは、すなわち、母の方も、私が母の立場について知ってしまったということに気づいているはずだ。
「ただ・・・」
少しトーンが下がった声に顔を上げると、影渡さんが少しだけ表情を曇らせて、言葉を続けた。
「ただし、今琴音さんがお持ちの通行証は、通常の通行証なので、もし一度人間界に戻って、陰陽院所属を選ばなかった場合・・・その時点で、この世界に戻る手段は事実上なくなります。」
つまり、戻る前に「どちらの世界で生きるのか」を決めなければならない、ということだ。
さすがに一度発行した通行証の効力を変更することまでは無理だったか・・・。
私は湯呑みを見つめながら、そっと息をついた。
「・・・そうですか。」
私のその反応を見て、影渡さんは、無理に問い詰めることなく、静かに言った。
「どうするかは、ご自身の意志で決めてください。でも、まずは一度、きちんとお母様と話してみてはいかがでしょうか。」
真っ直ぐに私を見つめながら告げたその言葉に、私はこくんと小さくうなずいた。
正直、一度帰ったらもう戻って来れないと言われたら、陰陽院に所属するしか今後の生活を続けていく道はない。
だけど、陰陽院が具体的にどんな組織で、どんなことをしていて、そこに所属することへのメリット・デメリットがまったくわからない状態で「はい、そうですか。お願いします。」とは、言えない。
(お母さん〜!なんで何も教えてくれなかったの〜〜!)
少し恨み言を言いたくなったけれど、母が何も言わなかったのは、私の覚悟ができていないから、という理由だけではないのかもしれない。
もしかしたら、通常の企業よりもはるかに厳しい秘密保持規定があるのかもしれない。
(まあ当たり前だよね。こんなの、秘密というより・・・もはや国家機密だよ。)
これは本当に真剣に考えなくてはならない。
そう思ったら、やはり諸々踏まえて蒼月さんと一度話をしなくてはならないな、と改めて思わされた。




