第273話 奈落の門 -6-
静寂が訪れる。
耳を澄ませば、遠くから虫の声がかすかに聞こえるほどだった。
——終わった。
私は崩れ落ちるように膝をつき、荒い息をつく。
蒼月さんも額にうっすらと汗を滲ませながら、ふう、と息を吐いた。
「・・・よくやったな。」
しゃがんで目線を合わせ、私の頬を手の甲でそっと撫で、静かに微笑む蒼月さん。
私はその顔を見て、ようやく本当に終わったのだと実感することができた。
「えへへ・・・」
褒められたのが嬉しくて、恥ずかしくて、そっとうつむく。
すると、遠慮がちに近づいてくる草履が視界に入った。
「影渡・・・」
その声に顔を上げると、目の前には影渡さんが気まずそうな顔をして立っていた。
その姿を見て、私と蒼月さんは、ゆっくりと立ち上がる。
初めて間近で見る影渡さんは、最初の印象とは違っていた。
最初に目にしたのは澪の苑だけれど、あの時はやはり変装だったのか、今とは似ても似つかない顔をしている。
今目の前にいる影渡さんは、スリムでしなやかな体型に黒く長い髪をしている。よく見ると、その黒髪は光の角度によって青や紫にも変化して不思議な輝きだ。
不思議といえば瞳で、アメジストのような深い紫色の瞳に吸い込まれそうになる。
思わずじっと観察するように見ていると、影渡さんは私と蒼月さんを交互に見て、頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そのお礼の意味がわからず、もっといえば、なぜあんな行動をしたのかもわからず戸惑う。
すると、蒼月さんは何も言わずに影渡さんをじっと見た。
影渡さんもそれを受け止めるように、蒼月さんをじっと見る。
「そして・・・申し訳ございませんでした・・・」
そう言って、ゆっくり深々と頭を下げた影渡さんは、顔を上げると、
「今回の件について・・・説明の機会はいただけますか?」
と、尋ねた。
影渡さんは一見冷静に見えるけれど、その指先はかすかに震えている。
それが後悔からなのか、それともさらなる裏切りを企てているからなのか、私は影渡さんという人物を知らなさすぎて判断ができない。
すると、蒼月さんは小さくため息をついて、こう言った。
「一つだけ今ここで正直に答えてくれ。」
その言葉を聞いて、影渡さんは蒼月さんの目を見てうなずいた。
「今、ここにいる影渡は我々にとって敵か?味方か?」
シンプルだけど重い質問だ。
けれど、影渡さんは小さくうなずくと、すぐにこう答えた。
「味方です。」
—— チリン
影渡さんがそう言い終わるのと同時に、どこかから鈴の音が聞こえた。
その音に私が周囲を見回していると、蒼月さんは不思議そうな顔で、
「どうした?」
と聞いてきた。その様子に、蒼月さんには聞こえていなかったのだということを悟り、私は首を振って答える。
「あ、いえ・・・気のせい、かも・・・」
そんな私を一瞬不思議そうに見たものの、影渡さんに視線を移した蒼月さんは、
「まことか?」
ともう一度尋ねる。
影渡さんは、その問いにも再びうなずくと、
「はい。」
とだけ、言った。
それを受けて、じっと様子を見ていた蒼月さんだったけれど、
「そうか。それでは信じよう。」
ゆっくりと低い声でそう言うと、上空の黒悠之守に声をかけた。
「黒悠之守。ここですべきことはすべて終わったと思って良いのだろうか。」
「うむ。そうじゃな。影渡もおることだし・・・我らの世界に帰るとするか。」
二人のやり取りを聞いて、不意に胸がギュッとなる。
問題が解決したのはよかった。本当に、よかった。けれど、私の中にはまだ大きな問題が一つ残っている。
そんな私の気持ちなんてお見通しかのように、蒼月さんから問いかけられた。
「琴音・・・おまえはどうする?」
何を、とあえて言わなかったのか。それとも・・・
どちらにせよ蒼月さんからかけられた言葉が、私に重くのしかかる。
「私は・・・」
最初に浮かんだのは、もちろんみんなと一緒にあちらの世界に帰るという選択肢だ。
だけど、人間界にいる今、このまま家族に無事を伝えずに帰ってしまってよいのだろうかという葛藤に苛まれる。
それなのに・・・家族の顔が脳裏に浮かぶのに、蒼月さんのそばを離れたくない。
・・・ぐるぐると思考が巡る。
「みなさんのおかげで、私も元の役目に戻ることができます。人間界とあやかし界は好きな時に行き来できるようになりますよ。」
突然の影渡さんのその言葉に、張り詰めていた気持ちが一気に溢れ出した。
これまで一人で抱え込んでいた不安、恐怖、責任・・・
人間界には帰れないというプレッシャー、この世界で強くなると決めたあの日の誓い、そして急にのしかかってきた重圧・・・
全てが終わったのだという実感とともに、身体の奥底から涙が込み上げてくる。
「本当に・・・よく頑張ったな。たった一人でやってきて、知り合いも誰もいない世界で・・・。」
蒼月さんがそっと胸を貸してくれる。
その温もりに触れた途端、張り詰めていた心が崩れ去り、抑えきれずに嗚咽が漏れた。
全てを解き放ってしまいたくて、胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる。
——怖かった。
——ずっと、不安で、心細くて。
——それでも、どうにかしなきゃって、必死に前を向いてきた。
「・・・いいんだ。もう、全部終わったんだから。」
蒼月さんの優しい声が、心に染み渡る。
その言葉に背中を押されるように、私は溜め込んでいた想いを、涙と共に吐き出していった。




