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第269話 奈落の門 -2-

二つの湖が見えてきたその時、地面から黒い煙のようなものが上がってくるのが見えた。


「む・・・思ったより早いな。仕方ない・・・」


黒悠之守こくゆうのもりがそう言うと、一瞬空間が歪んだような感覚に囚われた。

何かがズレたような、現実の境目が曖昧になるような、不安定な感覚。


「朝までには済ませねば・・・しっかり捕まっておれ。」


遠目に黒い煙のように見えたものが段々と近づいてくる。

黒悠之守こくゆうのもりはそう言うと、大きく身を翻し、迷いなく黒い煙の中へと飛び込んだ。


遠目に黒い煙のように見えていたものが、近づくにつれ、その正体を露わにする。


(これは・・・煙じゃない・・・!)


煙のように揺らめきながらも、その中に無数の影が蠢いている。

細長い腕を伸ばすもの、獣のような姿をしたもの、異形の者たちが、黒い霧の中を漂いながら、ゆらりゆらりと彷徨っている。


——すでに、黄泉の扉は開かれてしまっていた。


「まずいな・・・思っていたよりも数が多い。」


蒼月さんが低く言う。


私も必死に彼の腕にしがみつきながら、魑魅魍魎ちみもうりょうたちが漂う空間を睨みつけた。


黒悠之守こくゆうのもりの飛行速度が落ちる。


「四次元へ繋いだとはいえ、これ以上長く放置するのは危険じゃな。」


黒悠之守こくゆうのもりがつぶやくと、周囲の空間が微かに軋むような感覚がした。


「四次元・・・?」


思わずそうつぶやいた私に、黒悠之守こくゆうのもりが説明を始める。


三次元であるこの世界とは異なり、四次元は「時間や空間の境界が曖昧になる領域」であり、そこに魑魅魍魎ちみもうりょうを一時的に閉じ込めたということだ。


三次元と四次元の境は薄く、今でも人間界には三次元、四次元、五次元あたりが存在しており、人によっては各次元を無意識に行き来している場合もあるという。


「・・・これ、朝までに戻さないと、どうなるんですか?」


思わず尋ねると、黒悠之守こくゆうのもりは珍しく真剣な表情で言った。


「夜の間は魑魅魍魎ちみもうりょうどもを四次元に閉じ込めて闇に紛れさせることができる。

しかし、朝になり太陽が昇ると、三次元と四次元の境が瞬間的に薄くなる時間がある。その時にそれらが三次元に入り込んでしまうと、人の目に晒されることになる。そうなれば・・・」


「人間界はパニックに陥る・・・ということか。」


蒼月さんが言葉を引き継ぎ、眉をひそめる。


「ただでさえ、夜の間に人間が遭遇すれば、それだけでも混乱を招く。だが、朝になれば、それどころでは済まん。魑魅魍魎ちみもうりょうどもは光を嫌い、暴れ狂うだろう。」


「・・・!」


想像しただけで恐ろしい光景が浮かぶ。

確かに夜中に幽霊に遭遇したとしても、それはそれで怖いけれど、怪談や都市伝説として処理されることになるだろう。


だけど、日中はそうはいかない。


それだけは、絶対に阻止しなければならない。


「急ごう。祝部ほうりべがどこまで門を開いているかわからないが、完全に開かれる前に・・・」


蒼月さんが言いかけた、その瞬間だった。


——ギャアアアアアアア!!!


突然、耳をつんざくような悲鳴が響いた。


黒悠之守こくゆうのもりの背中の上で、思わずバランスを崩しかける。


「くっ・・・!」


「何・・・!?」


私は声のする方を振り向いた。


遠くに、ぼんやりと明かりが灯る場所が見えてきた。

その中央にぽっかりと開いた暗闇の穴から、まるで奈落へと引きずり込まれるように、無数の影が渦を巻いている。


——黄泉の扉。


「あれは・・・?」


私が思わずつぶやくと、蒼月さんが険しい顔で言った。


「・・・扉が開いて放たれた魑魅魍魎ちみもうりょう共が、再び吸い込まれようとしている・・・」


「吸い込まれるって・・・どこに?」


私が尋ねると、蒼月さんは短く答えた。


「奈落の門だ。」


——奈落の門。


黄泉の扉の奥にある、決して開いてはならないもう一つの門。


もしもそこまで開いてしまえば——。


「まずい、やはり祝部ほうりべはすでに、門を開くための儀式を始めているようだ。」


「急ぐぞ!」


黒悠之守こくゆうのもりが低く唸りながら、一気に速度を上げる。


夜の風が鋭く肌を打つ。


黒い霧の向こうに、ぽっかりと開かれた黄泉の扉が、まるで虚空へと続く道のように口を開けていた。


それを見た瞬間、暗闇の穴の奥から、何か得体の知れぬものが蠢く気配がした。

まるで、黄泉の扉の向こうで、何者かがこちらを待ち受けているかのように。


——急がなければ。


——止めなければ。


私はただただ強く、そう思った。

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