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第246話 黄泉の扉 -7-

—— ドクン。ドクン。


絡みつくように広がる黒いもやが足元からびっしりとまとわりついていて、息が苦しい。


—— ドクン、ドクン。


背後に感じるのは、冷たく湿った空気と、肩にかかる影のような圧迫感。


(誰か・・・いる・・・?)


振り向いてはいけない。

それなのに、足が勝手に動いてしまう。


「・・・っ!」


ゆっくりと振り向くと、視界の端に、ぼんやりとした何かが映る。白く滲む景色の向こうに、黒い影が佇んでいる。

冷たい視線が、じわりと心の奥を抉るように突き刺さる。身体は硬直し、喉が締め付けられたように呼吸ができなくなる。


(来る——!)


逃げようとしても足が動かない。そして、次の瞬間、黒い影がこちらへと近づいて・・・


「琴音!!」


思わず私は飛び起きた。


荒い息をつきながら、視界が揺れる。

額にじっとりと汗が滲み、手は冷たく震えていた。


(今のは・・・夢?)


深呼吸を繰り返すも、心臓はバクバクと鳴り続けている。

耳鳴りがして、まるで夢と現実の境界が曖昧になっているような感覚。


「・・・琴音、大丈夫か?」


ふと低く、落ち着いた声が耳に届き、顔を上げると、すぐそばに蒼月さんがいた。


蒼月さんは心配そうに私を覗き込みながら、私の手を握ってくれている。


「夢・・・」


言葉にすると、夢の感触が現実に引き戻されていく。

けれど、どこか胸の奥がざわざわとして、違和感が拭えない。


(あれは・・・ただの夢? それとも・・・)


意識をなくしたことは覚えている。どれくらいそうしていたのだろう。

外を見ると、まだ夜が明ける前の暗闇が広がっている。私は悪夢の余韻を振り払うように、深く息を吸い込む。


蒼月さんの手の温もりが、今は心強かった。


「心配したぞ・・・」


言葉通り、心配そうな顔で私を見ている蒼月さんに、もたれかかるように身体を預けると、私の身体を包み込むように、ゆるりと抱きしめてくれた。


「こんなに怖い夢・・・久しぶりです・・・」


抱きしめられた耳元で聞こえる蒼月さんの規則正しい鼓動が、私を安心させる。

蒼月さんは何も言わずにしばらくそのまま抱きしめてくれていたけれど、私が落ち着いて身体を起こすと、ちゃぶ台の上の急須から湯呑みにお茶を注いで、


「影葉茶は心を落ち着かせる。冷めているが効能は変わらん。飲むか?」


と、湯呑みを差し出してくれた。私はそれをありがたく受け取って、コクリと一口飲む。後味に、微かな甘みが広がって、どこか気持ちが落ち着く。

蒼月さんもそれを感じ取ったのだろう。


「兄は調べ物をすると言って、出かけた。おまえも今日はゆっくり休め。」


私の頭にそっと手を乗せてそう言った蒼月さんは、ゆっくりと立ち上がった。


立ち上がった、のだけれど・・・



「・・・・琴音?」



頭上から名前を呼ばれて顔を上げると、蒼月さんは少し困った顔をして私を見下ろしている。

その表情の意味がわからなくて戸惑っていると、


「手を・・・」


そう言われて初めて、蒼月さんの着物の裾をギュッと握る自分の手に気が付いた。


「あ・・・すみません。」


慌てて手を離すと、蒼月さんはまた同じ場所に腰を下ろした。


「怖いのか・・・?」


それはそうだ。またあの夢を見るのは怖いし、嫌だ。


「一緒に寝てやるわけには・・・いかんぞ?」


眉を八の字にして、見るからに困っていそうな蒼月さんは、


「やましい気持ちがないとしても、嫁入り前の娘と床をともにするなんて・・・」


とぶつぶつとひとりごとを言っている。


(また言ってる・・・)


「蒼月さんって・・・そういうところ、ものすごく真面目ですよね。」


枕元に湯呑みを置いて、蒼月さんを見上げる。


「そうか?」


「そうですよ。ずーっと『嫁入り前の娘が〜』って言ってますもん。」


そう言ってフフフと笑う私を見て、蒼月さんは少し意外そうな顔を見せると、


「そりゃあそうだろう。人間は・・・」


そこまで言って何かに気付いたのか、首をかしげて考え事をしている。


「蒼月さんが人間界にいたのって・・・いつですか?」


「・・・大戦争の前だな。」


「平安時代って・・・言ってましたよね?」


「・・・そんな名前だったと記憶している。」


「千年くらい・・・昔です・・・」


はっきりとは言わなかった。けど、伝わっていて欲しい。もう、『嫁入り前の娘が〜』っていうような貞操観念ガチガチの時代ではないということを・・・。


「いや・・・しかし!嫁入り前であることは確かで・・・」


その言葉で、「伝わった」と理解した。けれど、それでもかたくなに譲ろうとしない蒼月さんに、私はギュッと抱きついた。

まっすぐ顔を見て言うのが、ちょっと恥ずかしかったからだ。


蒼月さんの耳元で、そっとささやく。


「ごめんなさい。私、蒼月さんが思っているほど、無垢じゃありません。」


その言葉に、蒼月さんが一瞬ピクリと反応した。


「元彼・・・あ、過去に恋仲だった人も・・・います。」


子供扱いしなくていいのに、という気持ちを込めてのカミングアウトだ。それに対して蒼月さんがどう感じたかはわからない。


「・・・・・・・」


蒼月さんは、何も言わず押し黙っていたけれど、少しして、ゆっくりと、私に問いかけた。


「・・・・・・それは、つまり・・・・・・」


「それはつまり?」


「・・・・・・いや、なんでもない。」


何を聞きたかったのかはなんとなく、わかった。けれど、ここはあまり掘り下げないことにして、


「だから・・・」


身体を離して、蒼月さんの手をきゅっと握り、今度は蒼月さんを正面からじっと見る。心なしか蒼月さんの視線が揺らいでいて、私が言わんとしていることは伝わっていると確信する。


蒼月さんの目を見つめ続けていると、蒼月さんがふと視線を外した。それでも何も言わずに見つめ続けると、蒼月さんの口元がわずかに引きつるように動く。それを見て、私はそっと言葉を重ねる。


「だから・・・・そんなこと、言わずに・・・」


それからまた少しの間沈黙が流れる中、蒼月さんの喉がゴクリと動いたのが分かる。


それを見た私は、スゥッと息を吸い・・・




「添い寝ぐらいしてくれてもいいじゃないですか!!!怖いんです!!!」




さっきまでのゆっくりした口調ではなく、懇願するような口調でそう言うと、蒼月さんの手を握る手に力を込めた。

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