第230話 闇からの視線 -7-
市ノ街の地図以外は主要な場所の名前が書いてあるものを用意してくれているので、いちいち聞かずともわかりやすい。
その中で一番多く印がついていたのが、とある湖だった。
「また湖の近くですね。どれどれ・・・透湖。二人は毎回湖で何をしているのでしょう・・・」
私の問いかけに、蒼月さんも何やら考えている様子だ。
「まだそれはわからんが・・・これは・・・今日だな。」
そう。印についている日付は、一番新しいものが今朝になっている。けれど、現在地を示す星印はない。
(ついさっきまではこの街にいたはずなのに・・・)
街への出入りですれ違ったのか・・・それとも・・・
突然のニアミスと消失。
ただ探していただけのはずの相手が、急に手の届くところにいるような錯覚を覚え、胸の奥に不穏なざわめきが広がっていく。
私は二人の顔を知らないからすれ違ってもわかるはずがない。
けれど、蒼月さんがすれ違っても気づかないなんてことがあるのだろうか?その疑問を蒼月さんにぶつけてみると、
「普段であれば気づかないはずはないと思う。しかし・・・」
そう口ごもったあとで、
「今日は・・・おまえが楽しそうにしているのがかわいくて、そちらに気が向いていたからな・・・自信がない・・・」
蒼月さんはそう言って、「はぁ・・・」と無念そうにため息をついているけれど、私はそれどころではない。突然のタイミングで放り込まれるデレな蒼月さんの破壊力は大きい。
「あ・・・そ、それは・・・なんと言いますか・・・」
なんと言ったらいいか分からず挙動不審になっていると、
「とりあえず、最後の地点である透湖を見てくる。おまえは結界の中にしっかり入って休んでいてくれ。」
そんな私にはお構いなしに通常運転に戻り、部屋全体に結界を張ると、煌月さん同様、窓からひらりと飛び降りて出掛けて行ってしまった。
残された私はというと、することもないので広縁とは別の方角の窓から外を眺めている。
水路を行き交う小舟、柳の枝がそよぐ音、遠くから響く楽しげな笑い声・・・穏やかな景色に溶け込むように、私もぼんやりとした気持ちになる。
けれど、ふと目に入った舟が、その心地よい空気に微かな違和感をもたらした。
なぜなら、楽しそうに行き交う人々の中で、その一組だけは雰囲気が違ったからだ。
静かに流れる一番手前の水路、キラキラと太陽の光を反射させる川面を、一艘の小舟が滑るように進んでいた。
舟には三人の影がある。
一人目。
目立たない色の着物をまとった痩せ型の若い男。
身なりは良さそうなものの、肩をすくめるように猫背で、まるで周囲の視線を避けるように身を縮めている。
キョロキョロと辺りを見回していたが、それをやめると、どことなく疲れたような顔で船底を見つめた。
頬にある大きなホクロが印象的だ。
二人目。
艶やかなラベンダー色の髪を持つ若い女性。
深い紫色の小袖に、鋭い目元と白い肌が映える。
どこかミステリアスで、目を惹く美貌の持ち主であるが、その姿にはどこか冷たさがあり、まるで傀儡のように表情がない。
そのせいか、日本人形のようなおかっぱ頭になんだか違和感を感じる。
三人目。
この男の存在だけは、異質だった。
白い衣をまとい、袖の下からちらりと覗くのは金色の刺繍。
後ろで真白い髪を束ね、蒼白い肌には年齢不詳の冷たい笑みが張り付き、その眼差しはどこか空虚で、それでいて全てを見透かすような鋭さがあった。
彼の周囲だけ、まるで違う空気が流れているかのように、景色が歪んで見える。
ふと、息をのむ。
(あれは・・・)
違う。
この街にいる誰とも違う。
ここにいるべき存在ではない。
それなのに、どうしてだろう。
目を逸らせない。
じわりと、胸の奥が冷たくなる。
なぜか分からないけれど、男の耳についている耳飾りに目が釘付けになる。黒い丸い形の石から金色の小さな房が垂れ下がっているものだ。
それを見ていると、まるで、足元から氷が這い上がってくるかのように、背筋がぞくりとした。
すると・・・その男が、ゆっくりと顔を上げ・・・そして・・・
視線が合った。
その瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われる。
(見られた!)
直感が、危険だと叫んでいる。
頭の奥に、直接囁かれたような気がした。
—— 見つけたぞ。
ぞわりと鳥肌が立つ。
結界はその気配すら遮断すると言われていたので、相手が私の気配を察知するはずなんてない。
そもそも、変装しているのだ。万が一顔を知られていたとしても、私だと気づくはずがない。
頭ではそうわかっているけれど、そのあまりにも異質な雰囲気が私を不安にさせる。
慌てて目を逸らし、不自然にならないように身体を引き、窓枠の陰に隠れる。
舟はゆっくりと水路を進み、やがて曲がり角の向こうへと消えていった。
けれども、その男の眼差しだけが、今も胸の奥に焼き付いている。
(あの男は、いったい・・・)
胸の奥に広がる不穏な気持ちは、しばらくしても決して拭い去ることができなかった。




