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第217話 交わる想い -1-

名前を呼び間違えたのは、痛恨の極みだった。



『美琴』と『琴音』の名を間違えて口にした瞬間、俺の世界が音を立てて崩れた。




琴音に気持ちを伝えた日、俺は募る想いを伝えるばかりで、言うべきことを何も言っていなかった。


俺が白狐の家系であることも伝えていない。つまり、琴音は俺が元々人型のあやかしだと思っている可能性だってあるのだ。

美琴のことも必要であれば話したほうがよかったのかもしれない。

他にも、琴音が不安に思っていること、知りたいと思っていることについても答えてやるべきだったのに、思いが通じたことで舞い上がって、何一つ説明ができていないことを気にしていなかった。


白翁殿の屋敷で美琴と再会した時のこともそうだ。

何もなかったことにしようとしている琴音に甘えて、もっと言えば、琴音の作る壁に恐れをなして、つい、話すことを先延ばしにした。


それも良くなかったのだと、今ならばわかる。


そうしてようやく覚悟を決めて琴音と向き合おうとしたあの夜、こともあろうか俺は言葉の選び方を間違えた。

そのことに動揺して、『美琴について話したい』『美琴とのことについて説明させてくれ』と、どのように話を切り出したら良いのかを混乱する頭の中で考えていた結果、追い打ちをかけるようにさらに信じられない間違いを犯した。


美琴と琴音の名前を間違えて呼ぶなんて・・・


口から一度飛び出した言葉は、もう元には戻らない。


そして、疑心暗鬼に陥っている琴音の心を打ち砕くには、それは十分すぎる出来事だったと思う。


美琴のことで不安になって、『身代わりなのか』と問うたのは、完全に俺の責任だ。あの言葉を言わせたのは、俺の不甲斐なさ以外の何ものでもない。


俺自身、自分の発した言葉が信じられなかった。

と同時に、琴音が見せた悲痛な表情が脳裏から離れなかった。


ふと我に返った時には、すでに琴音は駆け出していて、一瞬たりとも振り返ることもなく、彼女の背中は暗闇の中へ消えていく。

その姿が視界から消える直前まで、俺はまるで金縛りにあったかの如く、ただただ立ち尽くしていた。


そして、その背中が暗闇に消えていく瞬間、俺はまるで目の前の光を奪われたかのような感覚に襲われた。


取り戻したい。


その思いが遅すぎると気づいた時には、すでに琴音の姿は庭のどこにも見当たらなかった。


それでも数秒の後に気を取り直して後を追ったものの、不思議なことに、一度も琴音に追いつくことなく、琴音は市ノ街の夜の雑踏の中に消えてしまった。


琴音の足が俺より速いなんてありえない。


まさか、一人になった瞬間を狐の一味に狙われたのか・・・?


そう思った瞬間、嫌な汗が背中をツゥっと伝わるのを感じた。

輩どもは琴音が俺の屋敷にいることは知っている。常に監視して一人になる瞬間を待ち伏せしていてもおかしくはない。それくらい、琴音には執着を見せていたはずだ。


どこから探そうか・・・


不安に高鳴る心臓の音が耳まで届いてくるような状態で、俺は次の策を考える。すると、突然一通の伝書が届いた。


『お姫様は預かった。返すつもりはないが、心配は無用だ。』


嫌な予感が現実となったと、心臓の鼓動がますます早くなる。しかし、送り主を見て、俺は思わず大きな声を上げた。


「はあ???」


送り主は俺のよく知る人物・・・というか、兄だった。そして、続いてもう一通届いた伝書には、


『お姫様は帰りたくないそうなので、しばらくうちで預かります。あ、おまえは入れないように結界張っておくから、いいって言うまでは迎えに来るなよ。』


そう書いてあって、すぐに抗議の伝書を送り付けたものの、


『とりあえず、明日また連絡する。』


そう書かれた伝書を最後に、兄とは連絡が取れなくなった。


とりあえず輩に攫われたのではなく、身の安全が保障される場所に匿われていることだけはわかった。

兄が琴音を連れて帰ったのは、母がいる本邸と同じ敷地内の別邸だ。俺の屋敷と同様、またはそれ以上に守りの固い場所だ。危険はないだろう。


「はぁ・・・」


安堵なのか自己嫌悪なのか、大きく息をついた俺は、今日のところはそのまま自分の屋敷に帰ることにして、来た道を戻り始める。


帰る道すがらは後悔しかなかった。

ああしなければ、こうしなければ、ああしておけば、こうしておけば・・・とそんなことばかりが頭をよぎる。


こんなに気持ちを大きく揺さぶられるなんて・・・


もちろん美琴がこの世から去った時はかなりの衝撃を受けたし、立ち直るのにしばらく時間を要した。

しかし、死と向き合うこと以外で、特に、女との付き合いの中で、これほどの感情の揺れを経験したことがあっただろうか。


琴音のいない日々を想像すると、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。それは、これまでどの女との別れでも感じたことのない感覚だった。


今まで自分は色恋沙汰には淡白だと思っていた。

過去の女たちとはそれなりに楽しく付き合ってきたし、美琴とも平穏に暮らしてきた。


こんなに激しく感情を揺さぶられる恋を、したことがあっただろうか。


いつの間にか、それほどまでに、琴音を一人の女として愛し、慈しみ、大切だと思うようになっていたなんて、俺自身気づいていなかった。


なぜかと問われても、一言で答えることは難しい。


しかし、その事実を目の前に突きつけられた今、これからどのように琴音に接していけばいいか、しっかりと考えなくてはならないと思った。





本当に、あの夜は、長い俺の人生の中でも、最悪の夜だった。



けれど、同時に、琴音が俺にとって欠かせない存在だと、ただ一緒にいるだけで俺の人生が光に満ちるのだと、改めて気づかされた特別な夜だった。

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