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第210話 日常と葛藤 -9-

小鞠さんの言葉通り、夕餉ゆうげの後、蒼月さんの持ち帰った甘味を食べた。

その頃には、ほむらくんの機嫌はすっかり直っていて、美味しそうに練り切りを頬張る姿に、部屋全体が穏やかな空気に包まれていた。


そんな和やかなお茶の時間も終わり、部屋に戻ろうと席を立ったその瞬間、蒼月さんの声が背中に降りかかった。


「たまには庭の散歩でもしないか?」


たったそれだけの言葉だったのに、まるで心臓を直接握られたかのような衝撃を受けた。

喉が詰まったようになり、慌てて振り向くと、蒼月さんはいつものように落ち着いた表情を浮かべている。


数日前、美琴さんと再会してからというもの、私は必死に「何もなかったこと」にしようと努めてきた。ぎこちないながらも、蒼月さんとの会話は元に戻りつつあったし、氷華さんの訪問で少し心がざわついても、それを表に出さないことには成功していた。


けれど、根本的な解決には至っていないことは、私自身が一番分かっていた。

さすがに蒼月さんも鏡の間からの逃亡劇に何も感じていないということはないだろう。


ただ、私と落ち着いて話すタイミングを見極めているだけ・・・私にもそれはわかっていた。


そして、このタイミングでの突然の誘い。

ついにその時が来たのだと、胸が痛むほど鼓動を速めながら、私は覚悟を決めて返事をした。





夏の庭は、茉莉花まつりかの香りが漂い、わずかな風が肌を撫でていく。微かに聞こえる鈴虫の声が、夜の帳に涼やかな彩りを添えている。


「足元が暗いな・・・」


そうつぶやいた蒼月さんが、ふわりと手を広げた瞬間、庭の景色が一変した。

まるで夜空の星が降り注いだかのような柔らかい光が、庭一面を包み込む。それは華やかさの中に品のある静けさを宿し、見る者の心を奪う美しさだった。


「わぁ・・・」


思わず声が漏れる。飛び石を慎重に進みながらも、その光景に目を奪われていた。


けれども、


「ふ・・・女子おなごはこういうのが好きだな・・・」


そんな私の反応を見て、蒼月さんが微かに笑いながらつぶやいたその言葉に、足が止まった。


何気ない一言のはずなのに、心の奥底に隠していた不安を抉られた気がした。


蒼月さんを見上げると、彼もこちらを見ていて、その表情は確実に気まずさに覆われていて、


「あ、いや・・・」


ふと我に返ると、私の方に手を伸ばした。


その手は、私を傷つけるためのものではないはずだとわかっている。

それなのに・・・私は反射的に身体を引いてしまった。


その手が宙に止まった瞬間、蒼月さんの瞳には明らかな困惑と痛みが宿っていた。

その一瞬が、私の心をさらに締め付ける。


彼は何か言いかけて口を閉じたものの、それ以上言葉を発することはなく、私はただ彼を見上げるしかなかった。


静寂だけが二人の間に広がる。

時間にしてみれば、ほんの数十秒だったのかもしれない。けれど、私には永遠のように感じられた。


そして・・・


「聞いてくれ、()()・・・」


彼が意を決したように吐き出した言葉の中からその名前が耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが大きく弾けた。



聞き間違いであればいい。そう願った。


けれど、蒼月さんの口からは確かに「美琴」と発せられた。


脳裏に浮かぶのは、彼女の姿。美琴さんの柔らかい微笑みと、あの凛とした美しい立ち姿。

美琴と琴音・・・名前の響きが似ていることは知っている。混乱の中の単純ないい間違いだったのかもしれない。それでも、たった今、私の心はその一言で無残に壊されてしまった。


胸の鼓動が痛いほど速くなる。抑えようと心臓に手を当てても、震えは止まらない。

目の前の彼が凍らせた表情で何か言葉を紡ごうとしていることは分かっていた。けれど、この状況でその言葉を聞くことが怖かった。


「・・・私は・・・美琴さんの身代わりですか?」


胸の奥でずっと重くのしかかっていた言葉を、どうしても飲み込めず、ついに口にしてしまった。


その瞬間、蒼月さんの顔に浮かんだ痛みに満ちた表情が目に入った。それを見るだけで、さらに胸が苦しくなる。

自分で発した言葉に押しつぶされそうになって、気づけば、私は駆け出していた。


庭の飛び石を踏みしめながら、風を切る音だけを頼りに、ただ前へと走る。振り返ることなく、門を抜け、大通りへと向かう。


行く宛なんてない。

けれど、今の私には、蒼月さんと向き合う勇気なんて、欠片も残っていなかった。


頬を伝う涙は風に冷やされ、ひとすじの凍えるような痕跡を残していく。

その冷たさが、今の私の心の痛みと重なるようだった。

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