第187話 境界線を超える予感 -10-
結局昨日、狐はあれからすぐに縁側から降りてどこかに消えてしまったけれど、なんとなく勇気をもらった私は、それからすぐに眠りに就くことができた。
そして、今日。時報せさんの目覚ましで目が覚めると、やけに気持ちが落ち着いていた。
おかげで朝の掃除鍛錬もいつもよりも上手くできた気がするし、実際早く終わった。
そんなわけで、いつもより少し時間は早いものの、ごはんの炊けるいい匂いに包まれながら食堂に入ると、小鞠さんが卵焼きを焼いているところだった。
「おはよう、琴音殿。早いな。」
卵を焼きながら振り返る小鞠さんに近づいて、
「おはようございます。はい、今日はいつもよりも鍛錬の調子が良くて。」
挨拶をすると、まだ料理中の小鞠さんを邪魔してはいけないと思い、ひとまず席についてお茶を淹れる。
(はぁ・・・朝の影葉茶は格別・・・)
そして、しばらくして焔くんがやってくると、
「今日は蒼月は早朝に出かけたゆえ、朝餉は三人じゃぞ。」
小鞠さんはそう言って、ごはんと汁物を目の前に置いてくれた。小鞠さんによると、調べ物がたくさんあるから早めに出掛ける、夕餉までには戻ると言って日が昇る前に出掛けたそうだ。
私と焔くんは、その話を聞きながら各自好きなおかずをよそり、再び席に着くと、みんなで手を合わせて食べ始めた。
小鞠さんと焔くんはいつものように他愛のないことで盛り上がり、私もそれに釣られて笑っていて、そんないつもの風景にすっかり安らぎを感じている。
(私のせいでこの空気が壊れてしまったらどうしよう・・・)
今夜のことを考えて、また不安に襲われる。その不安をかき消すように、わざと明るく努めながら、二人に昨日の夜中の話をすることにした。
「そういえば、昨日、お庭に白い狐が遊びに来てて、なんと、撫でさせてくれたんですよ。」
そう言い終わるかどうかというタイミングで、焔くんが咳き込んで味噌汁を吹いた。
「大丈夫?」
「大丈夫か?」
小鞠さんと私から心配されながら慌てて口元を拭う焔くんに、小鞠さんが呆れたように言った。
「ゆっくりと飲まんからじゃぞ。」
そうたしなめられた焔くんは、恥ずかしかったのか、微妙に視線をそらしながらまだ少しむせている。
そんな、どこか落ち着きがない焔くんを見て、少しだけ違和感を感じたものの、小鞠さんは小鞠さんで、卓を拭き終えると今度は私に向かって、
「ほう。それはまためずらしい。それで?」
と、話の続きを促した。
そこで、ひとりごとを聞いてもらいながら・・・とそのひとりごとの内容はぼかしたまま、昨日の出来事を語る。
話を聞き終わった小鞠さんと焔くんは、
「随分と人懐こい狐じゃのお。なあ、焔?」
「あ、そ、そうですね。ちなみに僕が最近よく庭で見るのは野うさぎですね。」
なんて話している。
その話を聞きながら、やっぱり昨日の狐は人馴れしていたんだな、と改めて思った。
さて、そんな一日の始まりだったけれど、その日も鍛錬は目白押しで、あっという間に夕方になる。
今朝小鞠さんが言っていたように、蒼月さんの帰りが遅いため、夕方の鍛錬は焔くんとすることになった。
昨日、一昨日と水の元素の術を練習していたこともあり、だいぶコントロールできるようになってきた。
裏庭は、この季節、西日が注ぐ方角に位置することもあってそれなりに暑い。水の術は涼を求める私たちにはもってこいの題材だ。
「なんだ、琴音。結構、筋がいいんだな。」
「えへへー、なんとなく感覚が掴めてきたのかも。」
そう言いながら、ひと通り水の元素の術をおさらいしたところで、焔くんが言った。
「蒼月様からレンキンは習った?」
レンキン・・・錬金術のレンキンだろうか。
私が知らないと言うと、焔くんはなんだか得意げな顔で説明をしてくれた。それはかいつまんで話すと、やっぱり錬金術の錬金で、元素ごとの基本妖術の他に、使い手の妖力や特性によってカスタマイズが行えるらしい。
まあ、人間の私にそんな高度なことが出来るかはわからないけれど、上級者になると錬金以外にも、ゼロから妖術を作り出すことが出来るらしい。なんとも奥が深くて面白い話だ。
説明の後、錬金と氷の元素の妖術、どっちに進みたいかと問われた私は、やはりまずは基本を押さえなくてはという気持ちもあり、氷の元素の術を見てもらうことにした。
練習帳を開いて目次に目を通すと、氷花円舞、霜風のささやき、氷の刃、雪霧覆影、氷像の召喚、氷晶の灯火・・・などと書かれており、相変わらず独特ないくつかのネーミングに笑ってしまう。
試しに一番最初のページに出てくる氷花円舞をなぞってみる。
これは、相手の足元に美しい氷の花を次々と作り出し、侵入者の動きを鈍らせるというものだそう。氷の花で侵入者の足元を凍らせて、行動を制限することで防御や足止めをするという技らしい。
面白そうなのは、氷の花が時間とともに増えていき、それによって逃げ道が塞がれていくというところだろうか。
「氷花円舞」
扇子に意識を集中し氷の花が地面に広がっていく様子をイメージして、呪文を唱えながら扇子で焔くんの足元を指す。
すると、冷気が静かに漂い始め、私の足元から白い霜が広がり出す。
霜は美しい雪の結晶を描きながら円を作り、その縁には小さな氷の花が次々と咲いていく。それを確認して扇子を軽く振ると、花びらが青白い光を帯び、氷の花は焔くんの足元を目掛けて広がっていく。
「わ、わ、わ・・・」
焔くんがそれを避けようと足を交互に上げ下げして逃げようとするものの、今度は次々とツルのようなものが伸びてきて、焔くんの足を捉えようとする。
その状態で、焔くんが氷を溶かそうと火球をぶつけてみるものの、氷でできているはずのその花は、この暑さにも火球の熱さにも溶けることなく焔くんを絡め取っていく。
なんだろう。水の元素の術をやっていた時とは違う感情、高揚感がある。
冷気が広がるにつれて、自分の意思が自然と氷の形を生み出していく感覚が心地よかった。涼やかな空気が肌を包み込み、氷の花が咲き乱れる様子を目にすると、まるで自分がこの景色を描く画家になったかのような錯覚に陥る。
氷の花が広がっていく様子がとても美しくて、思わず見惚れてしまう。
そんな中、
「ちょちょちょ!琴音!止めて!」
その言葉で我に返った私は、「解除」とつぶやく。
継続系の妖術の解除時の呪文はなんでもいいらしく、呪文を覚えるので精一杯!ということにならないような緩さはありがたい。要は、「やめる」という意思が働けばよいのだそう。
そうして冷気が収まると同時に、背後から静かな拍手の音が聞こえた。
「おまえは雪の元素と相性が良いのだな。であれば、雪の方を重点的にやってみるがよい。」
振り返ると、蒼月さんが立っていて、少し驚いた顔で私を見つめていた。
 




