第161話 秘密の開示 -2-
書斎の中、古びた巻物や書簡が散乱する机の上で、一冊の厚い資料に目を通していた。
狐火の揺れる明かりの下、文字が浮かび上がる。古い墨で書かれた内容は難解な表現が多く、解読には根気が必要だ。
「異界の門・・・」
その言葉を呟くと、喉の奥がひりついた。書庫の書簡を含め、この言葉に関連する文献は限られており、調査を進めるほど、隠された真実に近づいているような気がする。
しかし、その代償として、最近の自分の変化に気づかないわけにはいかなかった。
調査に集中しようとするのには理由がある。いや、理由がなければならないのだ。
それは、琴音との距離を保つため。
あの裏庭の稽古で自分が感じた動揺の理由を、俺はいまだに説明できないままだった。
思いがけず触れた彼女の温もり、そのときの胸のざわめき。忘れようとしても、頭の片隅にその瞬間が何度も浮かんでくる。
(弟子として接してきたはずなのに、なぜ今更気持ちが傾き始めたのか・・・)
自分にそう問いかけてみても、答えは出ない。そればかりか、ふとした瞬間に琴音の笑顔が頭をよぎる。朝餉の際、何気なく向けられる笑顔や、鍛錬中の真剣な表情・・・どれもが、以前よりも鮮明に記憶に残っていることに気づき、苛立ちすら覚える。
月影に嫉妬という感情を突きつけられ、自覚したものの、だからと言って簡単に気持ちを向けっぱなしにできるわけではないのだ。
そんなこともあって、調査を言い訳にして琴音とは必要以上に顔を合わせないようにしている。夕方の鍛錬を焔に任せたのも、彼女との距離を少しでも取るためだった。
(それでいい。いや、それしかないのだ。)
資料に目を落としながらも、集中力は散漫だった。そんな俺の内側を反映するように狐火の光が揺れるのを見て、慌てて意識を整える。その一瞬、琴音の声が耳に蘇る。
『蒼月さん、本当にすみません!集中していたつもりだったんですけど・・・』
裏庭で倒れ込んだあの瞬間、琴音の顔は真っ赤だった。あの時の彼女の手の温かさ、柔らかな声。どうしても心が揺れる。
「ふっ・・・くだらんな。」
独りごちる。言葉にすることで、その感情を振り払おうとする。
今は調査に集中するべきだ。琴音に向ける感情がどんなものであれ、それが調査を疎かにする理由になってはならない。
机の隅に積まれた資料を一枚ずつ手に取り、読み進める。そこには「異界の門」に関連する事象や、その存在にまつわる記録が断片的に記されていた。
「影渡・・・か。」
資料の中には、異界の門を守護する存在として「影渡」という名が何度か現れていた。
「影渡については本当に当たり障りのないことしか書かれていないな・・・」
しかし、影渡についての一般的な説明は書かれているものの、どのように異界の門を守っているのかについては機密として扱われており、記載されている書簡もない。
そんな中、異界の門について読み進めていくほど、過去の大戦争の記憶が胸に蘇る。
あの戦乱の中で出会った人々、その後訪れる美琴との別れ。自分の中で終わったはずの感情が、琴音という存在によって再び揺り動かされていることを感じる。
(そんなはずはない。)
美琴は美琴だ。琴音とは違う存在であり、琴音を美琴に重ねて同じ感情を抱くことはあり得ない。それを理解しているはずなのに、心がそれに反するような行動を取ろうとする。
(堂々巡りだな・・・)
そう感じて大きく息を吐いたところで、ふと、入り口で物音がした。
顔を上げると、焔が外から声をかけてきた。
「蒼月様。琴音が小鞠様と人間界の甘味を作っていて・・・差し入れです、って。」
「・・・そうか。」
俺がそう答えると、焔は障子を開けて部屋の中に入ってきた。ふと見ると、手に持った盆の上には、甘味と湯呑みが置かれている。
「はい。蒼月様は難しい本ばかり読んで頭が疲れてるだろうから、少し休憩してください、って言ってました。」
そう言って焔が笑顔を見せる。その言葉に、俺は胸の奥がちりりと痛むのを感じた。すると、
「琴音のやつ、小鞠様に教わりながら一生懸命こしあんを練ってましたよ。焦がさないように真剣な顔して。」
焔はその時の顔でも思い出したのだろう。くくくと楽しそうに思い出し笑いをしている。
「多分無意識なんでしょうけど、蒼月さん、あんこ好きかなぁ・・・?ってつぶやきながら。」
その言葉に、不意打ちをくらったような感覚に襲われる。
(俺がこうして避けようとしているのに、あいつは変わらず俺に近づいてくる・・・)
焔から盆を受け取ると、ふわりと淡い香りが漂う。小鞠殿が得意とする甘さは控えめなのに黒糖のようなコクのあるこしあんのほのかな香りの中に、微かに柚子が香っている。
しかし、それ以上に、琴音からの差し入れだと考えただけで、心がざわつくのを感じた。だが、彼女の気遣いに対し、こちらは何も返せていない。
(いや、それでいい。俺が琴音と距離を置く理由は、俺が一番分かっている。)
そう自分に言い聞かせるように盆を机の上に置くと、俺は再び資料の山へと目を向けた。
しかし、焔が部屋から出て行き、甘味を食べ終わったその後も、俺の胸のざわめきが完全に消えることはなかった。




