第157話 芽生える変化 -15-
評議会からの帰りがてら番所に立ち寄ると、広間では月影が読書をしながら茶を飲んでいた。
「あ、蒼月さん。今日は用事があったのでは?」
そう言って本を置いた月影のそばまで行き、座布団に腰を下ろす。
「ああ、まあ、そうなんだが・・・どうせ帰り道だと思って寄ってみた。」
俺の言葉を聞きながら、そっとお茶を淹れて目の前に置いてくれる。ふと周りを見渡しても翔夜が戻って来ている気配はなく、まだ二人は一緒なのだろうかと気になってしまう。
そんな俺の仕草に気づいたのか、月影が言葉を発した。
「翔夜は、外出中ですね。」
無駄な情報は付加せず、事実だけを短く述べた月影に、
「ああ、さっき飯屋で会った。琴音と一緒に来ていたようだ。」
言わなくても良いのに、琴音と一緒だったことまで付け加えると、
「そうでしたか。」
と苦笑いをした後、少しだけ何か迷ったような素振りを見せた月影は、
「なんか・・・この前迷惑かけたからお詫びさせて、って琴音ちゃんから誘ったみたいですよ。」
そう言って、俺をじっと見た。
俺がどんな反応をするのか、どんな言葉を発するのかに興味があるような、期待した顔で見てくるのが少し居心地が悪い。
なんだか俺の心の中を見透かされているような、そんな気分になる。
この前、というのは、おそらく先日の誤って酒を飲んでしまった日のことだろう。
琴音は、翌日の朝餉の場で大層気まずそうに我々に謝罪していたからな。
こちらは何一つ迷惑はかけられていないというのに、それはもう平身低頭して謝罪していた。
「フッ・・・あいつらしいな。」
その時の様子を思い出してつい笑ってしまった俺を見て、なぜか月影も同じように笑って、それからまた真面目な顔に戻ると、
「そういえば・・・見合いって進んでるんですか?」
と、突然話題を変えてきた。
「あー・・・」
先ほどの母との会話を思い出して、思わず苦い顔になる。
「あれは・・・今日、断った。元々身を固めるつもりもないからな・・・」
見合いと食事、2回付き合ったのだから一応の義務は果たした。
ただ、瑠璃殿は初日の印象よりは好感度が上がっていたこともあり、気持ち的には非常に申し訳なかったが・・・
「そうなんですね・・・蒼月さんは、今後一生誰とも連れ添うつもりはないんですか?」
唐突にそう聞かれて一瞬考えてしまう。
「そうだな・・・一人で好きなように生きている。屋敷に帰れば小鞠殿と焔がいる。それで十分だ。」
つぶやくようにそう答えた俺に、月影は意外そうな顔で言った。
「そこに・・・琴音ちゃんは入れてあげないんですか?」
琴音は意図的に排除したのだ。なぜなら、彼女はいつか両親や友人がいる人間界に帰るべきだ。
この世界にいたとて、なんの幸せもないだろう。
「琴音は・・・人間だ。あいつはいずれ人間界に返す。それがあいつにとっての幸せだと思っている。」
確かに俺が琴音に癒され、助けられ、愛おしいと思う日が増えたのは事実だ。
しかし、人間の寿命は短い。正式な婚姻の契りを結べない俺のそばにいては、また美琴と同じ運命を辿らせてしまう。
そして、俺自身もまた同じような悲しみと苦しみに襲われるのは耐えられない・・・
それを聞いた月影は、
「蒼月さんのその言葉は、俺には琴音ちゃんへの愛情表現に聞こえますよ。」
ふっと目を細めて微笑むと、
「俺たちは寿命が長いから、つい人間との関係に怯みがちですけど・・・幸せの測り方って、どれだけ続いたかだけじゃなく、どれだけ深く感じたか、っていうのもありじゃないですか?」
そう言っていつもよりさらに穏やかな顔で俺を見た。
「千鶴からよく聞いてたんですけど、美琴ちゃんは本当に蒼月さんと一緒にいる間、幸せだったと思いますよ。それが俺たちにとってはほんの一瞬のような期間だったとしても。」
その言葉に熱いものが込み上げてくる。
俺は天を見上げてその思いをやり過ごすと、
「やめてくれ・・・琴音が人間だという唯一の言い訳がなくなったら・・・俺は俺の気持ちをどう扱ったらいいか、わからなくなる・・・」
言葉にしてしまうと、あとはもう気持ちが言葉を飲み込むように溢れてくる。
ずっと言い訳を考えていた。
琴音は人間だから、琴音は寿命が短いから、琴音も美琴のように先に逝ってしまうから・・・
もうあんな気持ちは御免だ・・・
美琴の面影を重ねているのではないか。美琴の身代わりなだけではないか。
ここ最近、ずっと考えてきたことだ。
美琴と琴音は似ているようで少し違う。
琴音はどこまでも前を向いて進む力を持っている。その強さを間近で見ていると、俺はどうしても心を動かされる。
もうこの世にいない人間と、今を生きている人間。これを比較しようということ自体、間違っているのかもしれない。
どうしたって思い出の中の方が劇的に感じるのだから。
美琴は美琴で俺の心の中にいつまでも残っている。しかし、そこに琴音が入り込んできているのも事実なのだ。
その心の中で琴音が占める領域が、美琴のそれよりも大きくなってしまうのではないかと考えることが怖いのだ。
美琴を忘れたいわけじゃない。むしろ、忘れたくないのだ。
それでも・・・どうしても、琴音の笑顔が浮かんでくる。あいつの無邪気さと真っ直ぐさが、俺の心に染み込んでいくような気がしてならない。
気が付けば、琴音がそばにいるのが当たり前になり、その存在が徐々に俺の中で大きくなってきている。
だからこそ、琴音はここにいてはいけない、人間界に戻った方が幸せなのだ、と言い聞かせてきた。
「やめてくれ・・・」
それなのに、月影の言葉はそんな俺の気持ちの枷を外そうとしてくる。
「蒼月さんって・・・」
ゆっくりと月影が口を開く。その言葉を聞いて、俺もゆっくりと月影に視線を合わせる。
「真面目で誠実で、俺はそういうところをすごく尊敬しています。」
なんだ?突然なんの話だ?と思って呆気に取られるものの、月影は続けてこう言った。
「でも・・・そんなこと言ってると、あっという間に翔夜に取られちゃいますよ?」
月影の口元にはわずかな笑みが浮かび、俺の心の中を探るような視線が向けられている。
俺はというと、言葉の意味を反芻し、胸の奥が妙にざわつく。先日のように琴音が他の男に寄り添う姿を想像するたび、どこか落ち着かない感覚が心を締め付ける。
(この気持ちは一体・・・)
「蒼月さんて結構わかりやすく嫉妬してるのに、先のことばかり考えすぎて、今を置き去りにしていませんか?」
(嫉妬・・・?)
嫉妬という概念は知っていたが、自分がそのような感情に陥ることがなかったため、これが嫉妬だということに気づかなかった。
この落ち着かない胸の奥のざわつきの原因が「嫉妬」だということを理解した瞬間、琴音への感情を否定する理由が一つずつガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
そんな中、俺をじっと見ていた月影は、おそらく苦い顔をしているであろう俺に向かって、
「まあ・・・蒼月さんが琴音ちゃんを愛おしく思ってるからって、相手もそうとは限らないので、そこは蒼月さんが頑張らないと〜。」
と、あっという間に楽しそうな表情に変わって、そう言い放った。




