第152話 芽生える変化 -10-
いつもなら、夕餉の後は自室で読書をしたり、瞑想をしたり、調査結果をまとめたりしながら過ごすのだが、今日は何をやっても気が散って集中できない。
そんな宵の刻(20時〜22時)も終わり掛けの頃、小鞠殿に相談事があったことを思い出した。
小鞠殿はたいてい深夜の刻(22時〜24時)くらいまでは居間でのんびり過ごしていることが多いのだが、今日は先ほどから何やら甘い香りが漂っていることもあり、食堂にいるのは確実だと思われる。
(甘味でも作っているのだろうが・・・これは今までに嗅いだことがない香りだな・・・)
そんなことを考えながら、自室を出て食堂に向かうと、
「ああ、蒼月。ちょうど良いところに来てくれた。」
俺の顔を見るなり、そう言って嬉しそうな顔をした小鞠殿は、
「この試作品の味見をしてくれぬか?」
そう言って、湯呑みの中に何やら黄色い固形物が入ったものを目の前に差し出した。
「・・・これは?」
それを訝しげに見ている俺を見て、小鞠殿はさらに匙を差し出しながら笑う。
「琴音殿に教えてもらったのじゃが、キャラメルプリン、と言うらしい。まあ、食べてみい。わらわは大層気に入ったぞ。」
小鞠殿が気に入ったと言うのであれば・・・と、匙で黄色く不安定な固形物を掬い、ゆっくりと口に運ぶ。ほのかに甘く、食感は絹豆腐のような感じだ。
「底の方に溜まっておる茶色い蜜を絡めるとなお美味しいのじゃ。」
そう言われて、底に溜まっている蜜を絡めて食べてみる。
「おお・・・確かに。」
ほのかに甘く柔らかい口当たりの固形物とほろ苦い蜜との組み合わせは、確かに美味い。
「じゃろう?この甘味はなかなかのものじゃ。」
満足そうにうなずいた小鞠殿は、そういえば、と言う顔をした後で、
「それはそうと、何かわらわに用があったのではないのか?」
と言った。
俺が色紋付の虫干し、小物の確認を頼むと、小鞠殿は快く引き受けてくれた。
「おぬしが紋付を着るのは、久しぶりよのう。」
確かに、前回紋付を着たのはいつだったか・・・あまり公の場や華やかな場を好まない俺だが、さすがに甥っ子や姪っ子の祝言くらいは顔を出す。
懐かしいなと思わず回想していると、遠くで玄関の戸が開く音が聞こえた。
「帰ってきおったか。」
そう言って立ち上がった小鞠殿の後を追うように玄関に向かうと、遠目から半分翔夜に抱きかかえられるようにして、翔夜の肩にもたれかかるように立っている琴音が見えた。
その光景に、不意に心がざわつく。
「おい、翔夜!これは一体どう言うことだ?」
玄関で翔夜が焔から責められているのを視界に入れつつ、我々も玄関に到着した。
「いや、だからさあ・・・」
困惑した顔で焔に何かを説明しようとしていた翔夜だが、小鞠殿と俺の顔を見た途端、バツが悪そうな顔をして言った。
「蒼月さん、すみません。途中までは普通に楽しくしてたんですけど・・・店の人が隣の卓と間違えて、幻果の滴を出してしまって・・・」
どうやら間違って酒を呑んでしまったということらしい。
そういえば、この屋敷では普段誰も酒を呑まないこともあり、琴音の酒の耐性について、考えたことがなかった。
しかも、よりによって幻果の滴。
この酒は、飲み口は果実水のように甘く軽やかだが、飲むとじんわりと妖力に満ちた酔いが広がり気分が高揚するという・・・夫婦やつれあい同士以外ではあまり呑まない方が賢明な酒だ。
琴音自身は意識はあるようで、ほんのりと頬を赤く染めた状態で、ふふふとなんだか嬉しそうな顔でフラフラしている。そんな琴音を支えながら、翔夜が、
「どうしましょう。俺が運びます?蒼月さんが運びます?」
と俺に尋ねてきたので、どちらでもよいが・・・と口を開こうとしたところ、
「蒼月、おぬしが運ばれい。」
「蒼月様が運びます!」
小鞠殿と焔から同時に言葉が発されて、それを聞いて、俺も翔夜もつい苦笑いをしてしまったものの、
「それでは・・・」
そう言って翔夜から琴音を受け取り抱き上げると、翔夜に履き物を脱がしてもらう。
すると、腕の中の琴音が俺をじっと見上げ、
「・・・なんか・・・蒼月さん、いい匂いがする・・・」
そう言って俺の首に腕を回し、スンスンと鼻を効かせながら、俺の顔に自分の顔を近づけてきた。
琴音の鼻と俺の鼻・・・琴音の唇と俺の頬・・・それらが重なりそうなくらいに近づいたことに気づき、咄嗟に距離を取ろうとしたその時、
「なんだろう・・・甘い匂い・・・好き・・・・」
琴音は、潤んだ瞳で俺の目を覗き込むようにじっと見つめながら、小さな掠れた甘い声でそうささやいた。
(・・・っ!)
本人に自覚はないのだろうが、琴音が放つ妙な色気にうっかり当てられそうになっている自分に気づく。
普段と違う琴音の色香に心臓がドクンと脈打つのを感じ、冷静さを失いかけている自分に驚いた俺は、どうにか視線を逸らした。
それなのに、琴音のその突然の行動に、翔夜、小鞠殿、焔が揃って驚いた表情で俺たちの様子を見守る中、
「ああ・・・キャラメルだぁ・・・うふふ。」
と、俺にだけ聞こえるようなさらに小さな声で嬉しそうにつぶやいた琴音は、俺を含む周囲の様子なんて全く気にも留めず、そのまま俺の胸元に顔を埋め、静かに寝息を立て始めた。
(まったく・・・油断しすぎだろう。)
腕の中の琴音が少し重たくなったのを感じながら、俺はそっと視線を向けた。あどけない寝顔を見ていると、不思議と心が落ち着いてきて、小さな微笑みが自然と口元に浮かんだ。
そんな中、翔夜がその様子をじっと見守っているのに気づき、ハッとして表情を引き締める。
「・・・悪いな、手間をかけさせた。」
そう言って、屋敷まで送ってきてくれた翔夜に礼を言い、焔に水差しと湯呑みを持ってくるように伝え、琴音の部屋へと向かう。
障子を開けて中に入ると、その後すぐに焔がやってきた。
焔に布団を敷かせ、その上に琴音を横たえると、
「キャラメル・・・」
と寝言を言いながら微笑む琴音を、少しかわいらしいと思ってしまう。
スヤスヤと幸せそうに寝ているところを起こすこともなかろうと、布団を掛け、枕元に水差しと湯呑みを残して俺たちは琴音の部屋を後にした。




