7. 猫遣い
目を開けた時には、夕暮れの闇が都市に暗い影を落としていた。もともと薄暗い室内が更に仄暗い。
遠くから響き渡る地響き。感じる床の揺れに、アミルは戦いの気配を感じて跳ね起きる。
──敵か。
即断する。立ち上がると、迷いなくメイの眠っていた寝室の扉を開いた。
「…ノックぐらいする物だと教わらなかったか」
じっと向けられるエルフの目線に、少したじろぐ。
「うるせぇよ」
もう身体を動かせるらしい。ベッドに腰掛けたメイは、点検中らしい魔導銃の最後の部品を銃身に戻した所だった。アミルからすぐに目を離し、腕の中の銃身を見つめる。ぼそりと呟いた。
「…もうここも魔獣の手に落ちるか」
「どうすんだ」
メイは再びアミルへ眼を向けた。その眼差しにやっと光が戻っている。生き延びようとする者の眼をしていた。
「一つだけ心当たりがある…私をもう一度守れるか、悪魔族」
「…アミルだ」
苛立ち混じりに言うと、メイは僅かに微笑んだ。
「アミル、歳は幾つだ」
「何だよ急に」
「いいから」
自らの正確な年齢など、アミルは覚えていなかった。親の顔も知らない孤児に年齢を訪ねる方が無理があると思った。
アミルが答えられずにいると、メイはゆっくりと口を開く。
「…その背丈なら、十四か五と言った所か」
「それがどうした」
メイの青く澄んだ瞳に、己の魂まで見透かされているようで嫌だった。
「どうもしない。ただ、お前みたいな…友がいた事を思い出しただけだ」
そこまで言うとメイの長身がすっと立ち上がる。
「もう百年も昔の事だ」
「百…」
驚いて眼を見開くアミルを楽しげに一瞥する。
ベッドの布を引き裂いて作ったらしい、銃身に巻き付けたスリングを肩から掛けて、射手は立ち上がる。
「行くぞ」
それだけ言うとメイは無造作に歩き始める。もう少し余裕があれば旅装や物資を漁れたかもしれなかったが、今は時間が惜しい。
アミルは変わらず、短剣一本でメイについて行くしかなさそうだった。眠り続けた自分を少しだけ後悔した。
遠慮の欠片もない足取りで歩くメイは、玄関扉の前で立ち止まる。隙間から光が漏れている。
沈んでゆく途中の西日、最後の残光だった。
扉を凝視したまま、メイは覚悟を滲ませる声色を発した。
「準備は良いな。もう一度だけ私を助けてくれ、アミル」
「大丈夫だ」
アミルはメイの背後をすり抜け、扉に手をかける。無造作に開くと、煙たい屋外の空気と夕暮れの光が顔に当たる。
「お前を殺させはしない。あたしの命にかけて」
「上等だ」
メイはアミルの背後で、眩しげに目を細めた。
***
鋼鉄の高層建築が林立する積層都市十層。夜の気配が忍び寄ってきて肌寒くなってきた空気を感じながら、アミルとメイは走る。鉄の監獄のような場所だと思った。
ビルとビルの間を縫うようにして、狭い裏路地を走り抜ける。大通りにはまだかすかに夕日が差しているのが見えたが、二人は敢えて夕闇に満たされた暗い道を進み続けた。
姿はどこにも見えなかったが、特有の何とも言いようの無い奇妙な気配だけがついてきているのを感じる。不気味な残光に包まれた街のどこかから、あの奇怪なライカがこちらを見ているのだと思うと、空気の肌寒さが一層強まるような錯覚を覚える。
目の前のメイの背中を追い続ける事に集中しようと思った。
卓越した空間認識と気配察知能力で周囲の警戒を続けながら歩くメイは、時折様子を伺って立ち止まりながらも、疲れの色も見せず進み続ける。
僅かな魔力の気配から、気配消しの術を使っているのだと分かった。メイの隠密の技術は本物だ。当面敵と出くわす事は無さそうだった。
──こいつを助けといてよかった…。
昨日の戦場、燃え盛る港での戦いを思い出した。気絶して転がるダークエルフの女を見つけたのは、魔獣の炎で燃え続ける瓦礫の中を歩き回っていた時だった。
この者を助けなさい、と珍しくライカは命令のようにして言いつけ、アミルはいつの間にかメイの長身を担いで歩いていた。何故自分がダークエルフなど助けているのかその時には分からなかったが、こうしてみるとライカの言いつけは正しかった。
メイの足取りには迷いがない。積層都市の立体構造を把握しているのだと思った。
「この街が…分かるのか」
「ああ…もう二十年もこの街に暮らした。長すぎる…夢を見ていた」
その背中から漂う、寂しげな気配。メイがここで何を経験したのかは想像するに余った。元々エルフが支配していたはずの積層都市を人間族が制圧し、それでもただ一人残った、ダークエルフの女。
「…こんな所で二十年も暮らしたら気が狂いそうだ」
「そう…かもな」
「あたしは地街育ちだからかな」
頭上何処までも高く聳える断崖絶壁のような巨大な建物に、無骨な鋼鉄の骨組みで覆い尽くされた街の風景。アミルはただ、見慣れぬ風景に戸惑っていた。
「平和な時代であれば」
急に立ち止まったメイは、その視線で真っ直ぐ路地の向こう、階段を下りた先を見据える。
「こんなところで戦わずに済んだのかもな、私もお前も」
「…そうかな」
アミルには確信のような物があった。きっと平和な時代に生まれていたとしても、自分は誰かと戦い続けているような気がした。
ゆっくりと示し合わせたように、二人同時に建物の陰に隠れた。
「あれは…何だと思う…」
「…見た目通りじゃ…なさそうだな」
小声で囁きあう。
二人の見つめる先、路地から続いて小さな階段を下りた先は、随分と開けた空間だった。真円に交差する二つ十字、特徴的なリザの紋章が掲げられた大きな扉。そこはエルフ族の信仰するリザ教会の前だった。
教会前の広場に、明らかに場違いな者たちが佇んでいる。
羊飼いのような質素な身なりをした少女が、数匹の猫…のような動物とじゃれている。その内一匹は少女よりも明らかに大きく、眼が四つもあった。
よく観察すれば、猫らしい動物それぞれには奇妙な違和感がある。足が五本あるもの、耳が三つあるもの、それぞれどこか奇妙な身体を持った動物たちだった。外見だけは猫のように見えるものの、全て魔獣だと思った。
「おい、あれ…」
そしてその中央にたたずむ、少女。
「獣人か?」
一見して人間族にしか見えない彼女にもまた、人間族にはない猫の耳が頭から生えているのが見えた。まるでアミルの角のように、それは明らかな存在感をもって少女の頭から生えている。
「いや…魔人だ」
アミルは静かに呟く。少女は確かに、妹を死よりも辛い運命に陥れた蜘蛛の魔人と同じ気配を放っていた。
メイが小さく息をのむ音が聞こえた。魔人は魔獣族の中からごく稀に生まれ、そして魔獣族より数倍は強い。見かけ通りのか弱い存在ではなかった。
「ここを通り抜ける以外に、道は?」
アミルは短剣を確認し、右手に構える。メイは肩から掛けていた魔導銃を胸の前に構えてグリップを握りしめた。
「…無い」
「じゃあ、殺り合うしかないな」
「あれと戦えるのか」
「気は進まないね」
「…私もだ」
短く言葉を交わす二人が覗く向こうで、少女は無邪気に微笑みながら猫たちとともに走り回っている。あんなものを殺さねばならないのは気が引けたが、魔人は外見とは全く釣り合わない戦闘能力を持つものも多い。油断が命取りになる事は、心底痛感している。
「息を合わせろ…行くぞ」
メイは言葉と同時に路地に再度身を躍らせ、少女に魔導銃の狙いを定める。
息が止まるかのような一瞬の緊張、轟音と同時に発射される魔力弾頭と共に、剣士は飛び出した。
弾丸が少女の頭部へと着弾するまでのわずかな瞬間、
「シッ!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
金属に何かが衝突する甲高い音と、飛び散る火花。
いつからそこに在ったのか、少女は右手に振るった白色の長剣で銃弾を弾き飛ばしたのだ。
突っ込んでくるアミルへ返す剣を見舞う。
「くそっ!」
一瞬の攻防。アミルは己の手に持つ軍用短剣程度ではこの刃とは打ち合えないことを瞬時に悟り、触れ合う剣閃に力が乗る前に飛び退った。
ここで短剣が折れればアミルに勝機は無くなる。
眼前で、少女は先ほどまでと全く別人のような威圧感を放ってアミルを睨みつけている。その傍らには、アミルの背丈ほどもある巨大な四つ目の獣がアミルへむけて唸り声をあげ、牙を剥いていた。
「大巫の言に従うなら、お主が我が『運命を変えるもの』か?悪魔族の小娘!」
アミルは目の前の魔人が口にする不可解な言葉を殆ど気にもしていない。
魔人が一人と魔獣ども、そしてその周囲に続々と小さな猫たちが集まってアミルを取り囲む。口々に唸り声をあげて、小さな牙を光らせているのが見えた。
「…大歓迎って感じだな」
一匹一匹が全て魔獣だとすれば、周囲を囲まれた現時点で勝機は乏しい。剣が二本あれば話は別だが、一本で乱戦をやるのは荷が重かった。
「不意打ちの卑怯者に名乗る名は無い。我が剣の錆となれ」
そう言うと同時に、少女が正面に剣を構えて襲い掛かってくる。その背後で巨大な獣もまたアミルへと飛び掛かってくるのが見えたが、少女の速度があまりにも速い。
アミルはぎりぎりまで少女を引き付けると、大上段から振り下ろされる剣を短剣の刃で受け流す。火花が散るほどの圧力を受け流せば刃毀れは避けられないが、それを気にしていられる余裕はなかった。
再びの轟音、踏み込んできた少女の側頭部めがけて銃弾が飛ぶが、剣を一振りしてまたも弾を打ち落とす。
「忌々しい卑怯者め…」
メイがいなければ即座に囲まれて殺されていたとしてもおかしくなかった。
銃声というよりも砲声と言う方が正しい轟音に、巨大な一頭を除いて猫たちが一斉に逃げ出すのが見えた。
「随分と頼りにならねえ仲間だな!」
「黙れ悪魔!」
長剣を苛立たし気に再度振るう。
どこかその態度が、妹の姿と重なって見える。
挑発に弱く、怒りの御し方を知らないことが弱点になる。激情にかられて動く、狂戦士の型。アミルは眼前に立つ少女を、そんな風に評価する。
決して弱くはないが、勝ち目は小さくない。傍らの大きな獣がどんな力を持っているのかまだ未知数である事の方が大きな問題かもしれなかった。
魔人ただ一人を最初に仕留め、そのほかの魔獣どもは一匹ずつ始末していく。それが唯一、状況を打開できそうな戦術だと思った。
妹がこの状況を見たら、どう行動しただろうか。
長剣をこちらへ向けてくる少女の姿に、アミルはそう思わずにはいられなかった。