小指の糸
心地よい揺れと温かみを感じて、紫朔はそっと目を覚ます。
なんだか遠い昔の記憶の夢を見た気がする。
とても懐かしい、寂しくて冷たくて苦しくて、そしてとても温かい手を差し伸べられた、あの時の夢。
あまりいい思い出ではないが、思い出したくもない過去というほどでもない。
何十年も経った今でもまだ、自分のなかでの整理はできていないけれど。それでも、あの頃よりは生きている実感がある。
紫朔はしばらくの間、放心した状態で体のあちこちの感覚が戻ってくるのを感じていた。
なんだかひどく体が重たい。そして動かそうにも全身に力が入らない。同時に、ひどく痛む。
自分はなんでこんなにボロボロなのだろう。
(そういえば、鵺とやらと戦っていたんじゃったか……)
少しずつ回るようになってきた思考を使って、ゆっくりと今までを思い出していく。
確か、自分は先程まで鵺と戦闘をしており、最後の力を振り絞って術を放ったあとに突然爆発が起きて……。
その爆発に巻き込まれてからは記憶がない。
頭も体もひどく疲れている。さすがに魂魄を消費しすぎたか。
さきほどから感じている体の揺れと暖かさが、疲れきった心と体を少しずつ癒してくれている。
それに、なんだかとても安心する匂いがする。
「お、気がついたかい?」
紫朔が小さく動くと、ふいに近くから声が聞こえた。
それは玄々の声だった。
よく見れば、今いる場所はあの研究所の通路であり、どうやら自分は玄々に背負われて運ばれているようだった。
返事をしようと思ったのだが、疲れからか上手く声が出ない。
「ああ、無理に返事することはないさ。今はゆっくり休んでな」
どうやら察してくれた玄々が、紫朔に向かってやさしく声をかける。
「私が着いた時には既に全部終わった後だったよ。あの炭化してた奴が鵺ってやつなんだろう? 先に保護した研究者の男から話は聞いてる」
そのまま、あのあとがどうなったのかをゆっくり説明してくれた。
「んで、私はとりあえず延焼が起こらないように火を消して、紫朔だけ回収して現場から撤退している最中ってわけだ。あとはここをまっすぐ進むだけだからもうすぐ外に出られると思うぜ」
玄々の言葉を聞き、紫朔は改めて周囲を見回す。
よく見れば通路だけでなくどこかの部屋の中を通ったり、また通路に戻ったりを繰り返しながら進んでいた。
しかも、一度も扉を通っていない。
壁や機材、棚やテーブルなどが豪快に破壊されており、無理やりまっすぐ来たことがひと目でわかるほどだった。
こんな無理やりな通り方をすれば、建物が崩落する危険性だってあっただろうに。
そして、そんなことを玄々が知らないはずはない。
つまり、無茶をしてでも一直線に駆けつけようとしてくれていたのだ。
「本当はもう少し早く駆けつけたかったんだけどねぇ。この研究所には生物実験を行なってる場所が点在してるらしくて。生体反応がとっちらかってるわ、戦闘音が通路の構造のせいで無駄に反響するわで、ノウェムの探知が遅くなっちまった。あいつも一生懸命お前さんを探してたんだ、責めないでやってくれよ。さっき紫朔を保護したって連絡したときは、必死に隠してたけど涙声だったし」
玄々の言葉に、紫朔は黙って小さく頷いた。
紫朔も別にノウェムを責めるつもりは毛頭なかった。
仕事にはいつも真面目なあのノウェムのことだ。必死に探していたことは想像に難くない。
むしろ責められるべきは――。
「……かなり無茶したな、紫朔」
――自分の方だ。
玄々の言葉が紫朔に深く突き刺さる。
時間稼ぎは十分だった。にも関わらず、意地になって無理に正面戦闘をしてしまった。
それが勝算のある行動であったり、退けない状態であり仕方がなかった場合などならばそれもありだろう。
だが、自分はそうではなかった。
結果がこのざまである。
なんとか勝てたから良いものの、もしあの時爆発が起こらなければ最悪自分は死んでいたかもしれない。
また、勝てたはいいが重要そうな情報も怪異側に奪取されてしまっている。結局奪い返しに行くこともできなかった。
結果、自分は不必要な大怪我を負ってしまった。数日は安静が必要だろう。
つまりその間に何かあっても、自分は何もできない。
それを分かっていながらも、やはりどうしても勝ちたかった。
勝って、肩を並べられると、背中を任せてもらえるほどの強さがあると、そう思ってほしかった。
しかし、どんな思いがあろうと大失態以外のなにものでもない。
紫朔は、玄々の服を思わず掴んで握り締めた。
どれだけ怒られても仕方のないことだろう。
もしかしたら、呆れられてしまったかも知れない。
沈黙が重たくのしかかる。時間がひどく長く感じられる。
玄々の足音だけが、鮮明に聞こえた。
目を固く閉じ、口を真一文字に結んで玄々の言葉を待った。
「……よくやった」
だが、玄々の口から発せられた言葉は、とても、とても優しい一言だった。
「色々とまあ、手放しで褒めることはできないけれどよぅ。それでも、紫朔は研究員を保護するっていう任務を立派に全うした。そこはちゃんと褒められるべきさ。反省会はまた後日やろう。おつかれさん」
玄々の一言一言がやさしく胸に響く。
同時に、胸の奥から色々な感情がこみ上げてくる。
悔しいわけでも悲しいとも少し違う。嬉しいという感情ともなにか違う。
言い表せない感情が溢れ出しそうになる。掴んでいた玄々の服をさらにつよく握り締めてしまった。
「安心しなよ、紫朔。私がお前さんを見限るなんてことはありえないさ」
玄々は振り向くことなく、紫朔に言葉をかけた。
「昔、約束しただろう?」
その言葉を聞いた瞬間、紫朔の目から堰を切ったように涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
いつも信じてきたあの言葉。
いつでも思い出せるあの時の手の暖かさ。
ずっと、ずっと覚えている。
結んでいたはずの口から、小さく嗚咽が漏れ出す。
流した涙で、玄々の背中が濡れてしまった。
それでも、我慢できずにあふれてしまう。
妖怪が涙を流すなど、ふざけたような話だ。
流すにしても、他の者に見られたくはない。
とくに、彼女には一番見られたくはなかった。
そう思ってはいても、涙がどうしても止まらなかった。
玄々の歩みが少し遅くなる。
きっと紫朔に配慮して、仲間との合流を遅らせるためだろう。
ずっと前を見続けてくれているのも、そのためだろう。
それが、恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
たとえ、この小指の糸が貴女へと続くことはなくても。
たとえ、この赤い糸が結ばれることはなくても。
――玄々よ。わしは貴女のことを……。
***
しばらく歩いたのち、大きく空いた建物の壁の穴から、玄々と紫朔は外へと出た。
その頃には紫朔は色々と少しは回復してはいたが、さすがにまだ体力が戻らないので玄々に背負われていた。
建物の外では、ロープで捕縛された人間数名、そしてそれを術式をつかって運ぼうと準備しているノウェムと辰砂がいた。
どうやら、建物内にいた人間どもは辰砂が救出、捕縛していたようだった。
ノウェムがここに来ているということは、今回の事件も終わりをむかえたということだろう。
あとの事後処理はノウェムや、後ほど来るであろう後方支援の御庭番たちに任せればいい。自分たちの仕事はここまでだ。
「おかえりなさいませ、白銀さん、紫朔さん。ご無事で何よりです」
ノウェムは玄々たちが建物から出てきたのを見つけると、深くお辞儀をして出迎えてくれた。
玄々はおつかれさんー、と声をかけてノウェムに応える。紫朔も玄々の背中から顔だけ出して応えた。
彼女も陰で頑張ってくれていたのだ。目が若干充血してるのについては、なにも言わないでおこう。
「貴様が無事ということは、まさか私の鵺が負けたのか? あれはわたしの研究成果の集大成だぞ! そんな馬鹿な!」
玄々たちの姿を見つけて、もうひとり声をかけるものがいた。
例のあのメガネをかけた研究者の男である。
縄で縛られたまま、なにかうるさく叫んでいる。よくもまあ縛られるやつだ。
「あ、ありえん……。どれだけ奴に力を与えたと思っているのだ。並の妖怪では太刀打ち出来んほどのちからのはずだぞ。しかも霊薬の原液を投与されさらに強化されていたはずなのに……。なぜだ、どうすればそれほどの力を得られるのだ……?」
困惑といった表情で紫朔や玄々たちを見つめるメガネの男。
研究者とは皆、こうも面倒な人種なのだろうか。そんなものを聞いてどうする。
探究心があるのは結構だが、ここまで固執するともはや病的とも言える。
「うーん、なんていったもんかなぁ……」
「そんなもの、決まっておるじゃろう」
そんなに知りたいなら教えてやらんこともないか。
玄々が言葉に困っている中、紫朔は玄々の背中から再び顔を出していたずらっぽくにやりと笑い、言い放ってやった。
「"毎日三食しっかり食ってるから"じゃ」




