鵺
「ああ、もう! ぐだぐだじゃあ!」
紫朔が研究所の通路を走りながら、苛立ちを口にする。
「ま、待って……ぜぇはぁ……走るのは……何年ぶりかで……ぜぇぜぇ……速いぃ……」
そんな紫朔の少し離れた後ろを必死に走っているのは、さきほど殺されかけた眼鏡の男だった。
紫朔は引き離さないよう一旦立ち止まると、嫌悪をこれでもかと込めまくった眼差しで男を睨みつける。
男は紫朔になんとか追いつくと、壁に寄りかかり荒い呼吸を繰り返した。
「何を弱音を吐いておるんじゃ。つべこべ言わず走れ」
「そうは、いっても……」
「奴に八つ裂きにされて死ぬか、死ぬ気で走って死ぬか。どちらか選べ」
「……選択肢が選択できない」
「あの世は一番安全じゃぞ? 人間」
「絶望もなければ希望もない場所なんだが……」
若干意地悪な物言いの紫朔に、男は若干呆れまじりに返答した。
「この事態の元凶を作ったくせに文句が多いのう。なれば、わしがおぬしを糸で引っ張ってやろうかのぅ? 必然的に引きずる形になるゆえ、無事は保証できんが」
「……自分で走ります」
男が紫朔との問答に折れて静かになった。その間に多少呼吸ができたようで、先程より息の荒さが落ち着いている。それでもぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しているのだが。
……ほんとに死なれては寝覚めが悪いし助けた意味もなくなるので、ある程度男の息が整うまで待つことにする。ちょっと意地悪し過ぎた気もするし。
とはいえ、できる限り移動し続けなければ危険なのは本当だ。ある程度距離は離したと思うが、鵺が追ってきていないとは断言できない。生きたければ、死ぬ気で走るしかない。
糸による運搬もできないわけではないが、こういった長距離の運搬には適しているとはお世辞にも言い難い。担いで行こうにも自分とでは体格差がありすぎる。高身長に化けてもいいが、万が一に戦闘になってしまった場合に化けることに妖力と魂魄消費を割いてしまうため対応が遅れてしまう。また、慣れた体格でもない分機動力がガタ落ちしかねない。
結局、五体満足ならば自主避難させるのが一番なのである。
「ともかく、しばし大人しく休んでおれ。仲間に連絡を終えたら一階まで案内してもらうでのぅ」
紫朔は男にぶっきらぼうに言い放つと、片耳に手を当てた。
紫朔の片耳にはノウェムから貸与された通信機――確か”いんかむ”と言う物――がついていた。以前はこういった機械系の道具には不慣れだったが、玄々に言われて多少は扱えるように練習していた。こういった緊急事態に素早く連絡を取れるのは確かに便利ではある。
「ノウェムよ、緊急事態じゃ。聞こえるか?」
『はい、こちらノウェム』
通信機に声をかけると、すぐにノウェムの声が通信機から聞こえてきた。どうやらちゃんと連絡できているらしい。
僅かな安堵を感じつつも、紫朔は言葉を続ける。
「すまぬが拙い事になった。怪異に資料を奪取された。それとここの人間が造ったらしい謎の怪異に追われておる。一度玄々たちと合流を……む?」
ノウェムとの通信中、紫朔はふいに殺気を感じて黙った。
その殺気は勘違いではなく、どんどんと大きくなってきていた。
「……おい人間。今すぐに階段へ向かって走れ」
紫朔は通信機から手を放すと、素早く端的に男へと声をかける。
「……え?」
男は突然声をかけられて素っ頓狂な声をあげた。
事態が飲み込めてない男の胴体に、紫朔は糸を素早く絡める。
「いいから走れぃっ!」
紫朔は大きく叫ぶと、自分の後方へと男を思いっきりブン投げた。
次の瞬間、感じていた殺気が爆発するように膨れ上がった。
ドガンッという凄まじい音とともに、男と紫朔が居た付近の壁が叩き壊され、巨大な木の幹のような腕が突き出してきた。
紫朔は辛うじて体を捻って直撃を回避するが、衝撃波まではさすがに回避しきれず思いっきり吹き飛ばされてしまった。
「うぐっ!?」
床を跳ねるように転がるが、なんとか受身をとって体勢を立て直す。
そして、壁を突き破ってきた妖怪――鵺を睨みつけた。
「ちぃ……もう追いついて来おったか」
紫朔は小さく愚痴をこぼした。
情報の伝達もまだ途中だというのに。次から次へと問題が起きてしまう。ともかく、手遅れになる前にあらかた情報を連絡しなくては。
瞬時にそう判断すると、紫朔は再度ノウェムと連絡を取るために素早く片耳に手を当てる。
だが、その手が触れたのは、自分の耳だけだった。
――通信機が、ない。
「!?」
慌てて周囲に視線を走らせるも、近くには見当たらない。
さきほどの衝撃波でどこかへ飛んでいってしまったのだろうか。これでは連絡がとれない。
別の通信装置で連絡を取ることもできるかもしれないが、そんな悠長なことができる状況でもない。
悪いことはいつも重なってしまう。もはや最悪の事態である。
鵺はさきほどから巨大な目玉をぐるりぐるりとまわしていた。
その目の動きはまるでカメレオンのように左右別々に動いていた。
だがそれはカメレオンのような生物的な動きではなく、不必要だと思えるほど忙しなくぐるりぐるりと動いていた。
その目玉がふたつとも紫朔を捉えた。
「ヒョォォォォオオオオオオオオオオオオ」
鵺は高音と重低音が混ざったような、まるでトラックのクラクションのような雄叫びをあげた。
ビリビリと空気が振動するのを肌で感じるほどの大音量である。
「うるさい奴じゃのう……。そう叫ばんでも相手くらいしてやる」
紫朔は小さく呟くと、息を深く長く吐く。
連絡は取れないが、それでも戦闘音があればそれを頼りに駆けつけてくれるはずだ。
自身とて、苦手とはいえ正面切っての戦闘もできないわけでもない。何度か経験だってある。
それと……。
紫朔は、鵺をじっと見据えた。
理性が全く感じられない狂気に狂った目。さきほどからずっと感じている歪な妖気。対話すらまったくもって不可能。おそらく、あの薊という怪異から投与された薬品のせいだろう。
あれでは奉仕活動はおろか、社会復帰も無理か。放置もまた危険である。
完全に凶暴化してしまった怪異は、討伐処理となる。
ならば、加減もいらない。
紫朔は素早く両手から糸を生成し、妖気をまとわせて構える。
「鵺よ……。今、楽にしてやるでのぅ」
紫朔の殺気を感じ取ったのか、鵺はもう一度クラクションのような雄叫びをあげると、紫朔に向かって突撃した。




