【書籍化作品】命の美食
「最高の美食」の条件は……。
温かな湯気が立ち上り、えも言われぬ旨そうな香りが広がった。
給仕係が料理の上にかぶせていたあの銀色のドーム型の蓋を持って一歩下がり、恭しく頭を下げた。
我ながら情けない程語彙が貧困だが、料理の知識なんか何もないのだから仕方がない。とにかくとても美味しそうだ、という以外の言葉は思いつかなかった。
「君をお招きするのは初めてですからね。まずは自慢の魚料理でもお召し上がりいただきましょう」
F氏は柔和な笑顔で言った。僕は我慢できない程の空腹を抱え、無言でうなずいた。口の中でさかんに唾液が分泌されているのがわかる。下手をすると粗相をしてしまいそうで、口を開く事ができなかった。
F氏はそんな僕を見て満足そうに微笑んだ。
「では、いただきましょうか」
「は、はい。いただきます」
至福の時が始まった。
僕がF氏と知り合ったのは、いや、知り合う事ができたのは、奇跡的な偶然と言う他なかった。僕は一介のアルバイト学生で、F氏は会社をいくつも経営している大富豪。住む世界がそもそも違うのだから。
僕のアルバイト先は酒問屋で、いわゆる高級店などとも取引がある。
その日、とある高級料理店に商品を搬入している時、とても身なりの良い初老の紳士に声をかけられた。それがF氏だった。
「君。良かったら今までに食べた中で一番美味しかったものを教えてくれませんか」
もちろん僕は高級な料理など食べた事はなかったし、そんな事は僕の身なりを見ればわかりそうなものなのに、F氏は真剣に、興味を持ってそう尋ねていた。
「僕はそれほどたいしたものを食べた事はありません。お力になれず残念ですが……」
僕は申し訳なく思いながら答えた。
「いや、こちらこそ突然こんな質問をして申し訳ありませんでした。
私は美食を研究していましてね。様々な方が食についてどう考えているのか知りたいのです。
このような店を出しているのも、その研究の一環でしてね。
是非君の意見も聞かせて欲しいのですよ」
F氏は重ねてそう尋ねた。
こんな高級店のオーナーが、僕みたいな学生にも礼を尽くして話してくれている。なら僕もできるだけ力になりたい。もし僕で力になれるなら……僕はそう思った。
「ご参考になるかわかりませんが……。強いて挙げれば去年の夏に食べた桃、でしょうか……」
僕の答えに、F氏はその目を輝かせて身を乗り出した。
「ほう、桃。それはどのような桃だったのですか?」
「いえあの、特別な桃ではありません。去年の夏、とても暑くて配達も忙しい日があったんです。汗だくになって一日中働いていました。配達が終わって、銭湯で汗を流しましてね。戻ったら社長の奥さんが桃を冷やしてくれてまして。半分凍りかけの桃にかぶりついた時のうまさはもう……」
F氏は何度もうなずきながら聞いていた。でも、こんな話は参考にはならないのでは……?
「ありがとう。とても素敵なお話でした。そこで一つ、お願いがあるのですが」
F氏は少し興奮した様子で、僕にそう切り出した。
「あ、はい、何でしょう……?」
「今度の日曜日、私のために時間をとってもらえないでしょうか。是非あなたに召し上がってもらいたいものがあるのです」
突拍子もない提案だった。だが、F氏の目は優しくも真剣で、からかっている様子はない。
僕にはそれを断る理由など考えられなかった。
これが、僕とF氏の出会いだった。
それから、僕の幸福な人生が始まった。
F氏はたびたび僕を食事に招いてくれ、その頻度は増していった。
振舞われる料理の全てが絶品だった。食材、調理技術共に一切の妥協を許さぬF氏のこだわりが感じられた。
それにしても、F氏は何故僕なんかにこんな素晴らしい料理を味わわせてくれるのだろう。他にももっと舌の肥えた人はいるだろうし、料理に対して造詣の深い、もっと有益な感想や分析を披露してくれる人もいるだろうに。
そしてその人たちもまた、F氏の招きにあずかる事を切望しているだろうに。
そしていつしか僕は食事の全てをF氏と共にするようになっていた。
「今日の料理はいかがでしたかな?」
F氏は食事の後お決まりの質問を投げかけてきた。さあ来たぞ。
この質問は、ただ感想を聞いているだけではない。メイン食材が何であるか、当てさせようともしているのだ。もちろん大抵は当たらない。料理の知識が乏しい僕が、味だけでそれが何の肉なのか、なんという魚なのかわかるわけがないのだ。種明かしの時に、生まれて初めてその名前を聞くという事だって珍しくない。
今日の料理は、大ぶりの肉がごろごろと入っているシチューだった。濃厚な味わいのホワイトソースに、香ばしい焼き色を付けた野菜の数々。そして存在感のある大ぶりの肉は淡白な味わいの中にもプリンとした弾力の歯ごたえがあり、生命力にあふれた野性味が僕の細胞一つ一つにしみわたっていくようだった。
味わいは鶏肉に近い。でも、何かが違う。
「とても味わい深い、いつもながら……いえ、いつも以上に見事なお料理でした。毎食、必ず前回を大きく上回る美食をご馳走になっておりますので、その感動を的確に表現する言葉が見つからないのが歯がゆいのですが……」
F氏のもてなしに対し、称賛する適切な言葉を持ち合わせていないのが悔しくてならなかった。せめて、食材を見抜く事で、自分の舌の成長を見せられればいいのだが……。
無論、食材を当てられなかったからと言ってF氏が失望を見せる事はない。しかし僕はなんとなく、F氏が僕を育てようとしているのかも知れないと感じ始めていた。期待に応えなければならないと思い始めてもいた。
「淡白な白身肉……。でも鶏肉とは違う。肉食獣の味わいがあります。でも待てよ……。魚とか甲殻類みたいな風味もあったような……」
考えれば考える程わからなかった。水辺に住む肉食動物……なのか? 僕は頭を切り替えて、食材としてではなく動物の生態を意識して、あの肉が何だったのかを推理しようとした。そして。
「ワニ……でしょうか」
ワニも食用にされると聞いた事があった気がする。でもあのワニと、こんな繊細な味わいの白身肉とはイメージが結びつかなかった。
「……お見事。よく味わいましたね」
F氏は満足げに笑ってうなずいた。
「やはり私の見込んだ通りでした。あなたは、本当に食の楽しみ、そして幸せをわかっておられます。その舌が確かになる事によって、より深い食の幸せを味わえているでしょう?」
確かに僕は幸福だった。こんなにも美味しい食事を味わい、その味を詳細に感じる事もできるようになったのだから。
「ありがとうございます。しかし……どうして僕なんかにこんなに良くしてくださるんですか?」
最初からずっと思っていた疑問を、僕はついに口にした。
「あなたが以前話してくれた、桃の話ですよ。美食は、料理を極めるだけではない。食べる側の状況によっても大きく左右される。その事をわかっている人はそうそういませんからね。知識だけなら後からでも学べる。だが、本質に気づくには、知識に囚われてからでは遅いですから」
そうか。確かにF氏に招かれるようになってから、料理に対する知識や分析力は上がった自覚がある。銀色のドーム型の蓋がクロシュと呼ばれる事も、すでに当たり前の知識になっていた。
「食材、調理、そして召し上がる方の状態。その全てが最高の状態である事が、美食にとっての命なのです」
F氏の肉体は、初老とは思えないレベルに鍛え上げられていた。食べるための状態作り。健康でいる事、そして動いて汗をかき、お腹を空かせる事。
僕がF氏のお招きを受ける時は、必ず朝からF氏とともにジムへ行く。おかげで僕自身も健康そのものだ。それでこそ美食を堪能できるのだ。
「ところで、今日の肉には、いつもより生命力を感じませんでしたか?」
F氏の問いに、僕はドキッとした。そう。僕は確かに感じていたのだ。肉の持つ生命力を。それが僕の身体に染みわたってゆくのを。でも、あまりに荒唐無稽な気がして言えなかったのだ。それをズバリと見透かされた心持だった。
僕の表情からその思いを察知したのだろう、F氏は満足げにうなずいた。
「最高の食材とは、良い餌だけを与えなければならない。だから野生のものは使いません。ですが、完全に家畜化された飼育方法では生命力にあふれた肉にはならない。ですから、特に肉食動物の場合は、最高の生餌を狩らせる、つまり食材にも、その餌から命をもらって育つようにしています。命のやり取りをする、自然の掟を守らせるわけです」
この話は前にも聞いた事があった。確かにF氏が振舞ってくれる料理の食材は、家畜として飼われてろくに運動もせずに育った肉とは比べ物にならない至高の味がする。これも美食の命、いや、命の美食というべきだろうか。
「ですが私は、まださらに肉の味を高める方法が、生命力を高める方法があるのではないかと考えたのです」
F氏の話はまだ続いていた。
「何のことはないのですがね、肉の締め方を変えたのですよ。突然、これから殺される事を知る。そして自分を殺す存在が目の前にいる。それをはっきり意識させてから締めてみたんです。何も知らずに死んでいくより、死に抗い、生きたいと切望する、その感情が、肉に最期の生命力をみなぎらせるのではないかとね」
確かにそうかも知れない。残酷なようだが、それは紛れもない事実だった。
今日食べた肉は、生への渇望とも言える生命力にあふれていた。筆舌に尽くしがたい美味だった。
食べる事は、命をいただく事だ。敬意をもって、最高に美味しく食べる事が、むしろ礼儀にかなうのかも知れない。
「やはりあなたは理解してくれましたね。最高の美食の境地をめざす私の探求が。
次もね、考えてあるんですよ。豊かに、幸せを感じながら生きている生き物が、自分が食われる事を悟り、恐怖を感じる知性を持っていたら……」
F氏は期待に満ちた目で笑いながら、僕の身体を吟味するように、じっくりと眺めまわした。
やはりF氏は、僕を育てていたのだった。
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