婚約者が怖いので、記憶喪失になって忘れようと思います。
残暑しぶとく居座る夜。
就寝のために整えられた自身の体を見下ろして、バージニア・エルメスは深々とため息を吐いた。
「お嬢様、いつまでそうしているおつもりですか? 早く寝てください」
後ろに控えた侍女ベラが、こめかみに青筋を立てて文句を言う。
「だって、寝たら明日になるじゃない」
「寝なくても明日になります。往生際の悪い、観念なさいませ」
「嫌よ! 諦めたらそこでおしまいよ!? 諦めなければきっと望みは叶うわ!」
「叶わないのでさっさと諦めてください。手遅れです」
即答でばっさりだ。
「どうしても嫌なの。ねえ、明日の予定に風邪って書いてない?」
「何アホなことおっしゃってるんですか。お気の毒ですが、明日のお嬢様は健康そのものです」
……今アホって言った?
「ぐぅ……こうなったら、逃げるわ!」
「逃がしませんよ? 私が選んだ最高の一着を無駄にさせるものですか」
「ベラ、あなた本当に私を着飾るのが好きよね」
「美しいものは愛でるタイプです。自らの手で磨くことができればなお嬉しい」
ベラは、素直な性格だった。
「褒めてくれてありがとう、ベラ。じゃあ選んでくれたドレスは着るから、明日は二人でお茶しましょう?」
「バカおっしゃらないでください。ブランドン卿と並んで初めて完成するように整えてあります」
……遂にバカって言ったぞこの侍女。
マーカス・ブランドン。王国騎士団第七班の長を務める、バージニアの婚約者である。明日はそんな婚約者との、月に一度のデートの日。
「ひどいわベラ! 私はただ、あの方とお会いしたくないだけなのに!!」
「声高になんてことを、婚約者でしょうに」
そう、バージニアはどうしても、逃げてでも婚約者と会いたくなかった。
父には何度も頼んだ。ブランドン卿との婚約を白紙に戻してほしい、と。私では釣り合わない。彼の心を理解できない。あの鉄仮面の隣で夫婦できる自信がない。かなり直接的な表現で訴えかけた。しかし、どんなに言葉を重ねても父は大丈夫、と笑うばかり。何が大丈夫なんだ、と声を荒げても、大丈夫の一点張り。婚約は継続され、バージニアはストレスで禿ができそうだ。
「だって、だって怖いんだものマーカス様……」
マーカス・ブラントン。悪魔、魔王。おおよそ騎士に冠されるとは縁遠い、悪の概念をもって形容させる男である。
まず、顔が怖い。愛想笑いの一つも浮かべないその相貌は険しく、やたらと整った造形をしていることが拍車をかけ、とんでもなく凄みのある顔をしている。眉間に刻まれたしわは深く、時折揉み解している姿を目撃されてはいるものの、まったく解れる気配はない。
次に、彼は寡黙な男である。美形が沈黙すると、妙な圧を感じさせることがある。真摯な性格が災いし、話をする時はきちんと相手の目を見つめるのだが、引き結ばれた口端と猛禽類を思わせる鋭い眼光の男に真顔でじぃっと見つめられると、思わず顔を背けたくなる衝動に駆られてしまう。
最後に、いざ発言したと思えば圧倒的に言葉が足らない。簡潔に述べられる言葉は的確ではあるが情に欠ける。婚約者と良好な関係を築くべく手向ける言葉に、ああ、とか、わかった、とかそんなことばかり。会話は広がらず間が持てない。誰かと時間を共有するのに、これほど苦痛なことがあるだろうか。返事があるだけいいかな、などと前向きに考えようにも妥協点としては低過ぎる。
結果として、バージニアはマーカスを苦手とし、最近では怯え恐れるまでに至った。もう婚約者に向ける感情ではない。
愛を育もうにも、水をやっても肥料をやっても、まずそもそも芽が出ない。
婚約して二年、バージニアは疲れていた。
マーカスの顔色を窺いながらのティータイムは、気を張りすぎてお茶の味がわからない。会話しようにも相手が打ち止めるのでは広げようもなく、横たわる沈黙が気まずくて胃が痛くなる。目が合うだけでも笑顔が引きつりそうになり、そもそも相手は無表情を貫いているのに何で自分だけ笑っているのかわからなくて気が狂いそうだ。顔を見るだけで怯えてしまって肩が震える。
「ベラ、明日マーカス様に会わないとダメ?」
「……なんて情けない顔をなさるのですか。私の庇護欲を掻き立てないでください」
ベラは、バージニアの顔が好きだった。
「素直に言ってしまえばよろしいじゃありませんか。顔が怖いですって」
「そんな失礼なこと言えないわよ」
「では、笑顔が見たいですってねだってみては?」
「マーカス様って笑ったりできるのかしら」
その発言の方が失礼ではないだろうか。口から滑り落ちそうになった言葉をすんでのところで飲み込む。
「言葉で解決できないなら、実力行使しかありませんね」
「ベラ、物騒な話はダメよ。マーカス様が相手では誰も勝てないわ」
勝てる相手ならやるのだろうか。開きかけた口をきゅっと結ぶ。
「もう、どうしたらいいの?」
「……上目遣いやめてください」
「はぁ、マーカス様……いっそ私のことを忘れてくれないかしら」
ベラの脳裏に閃光が走った。
「お嬢様、頭は頑丈な方ですか?」
「急に何? 頭突きでもするの?」
「いいえ。頭突きではなく思い切り殴るか、そうでなければ石でもぶつけようかと」
「え、何? 物騒な話はダメって言ったでしょ!?」
怯えたように後ずさるバージニアに、ベラがにじり寄る。
「忘れてしまえばよろしいのです。マーカス様は頭が硬そうですから、お嬢様の頭に衝撃を与えます。記憶喪失ですよ! 合法的にマーカス様を忘れられます。……なぜ逃げるんですかお嬢様?」
「記憶が飛ぶほど殴ると言ってる侍女が迫ってきてたら誰でも逃げるでしょう!?」
「大丈夫です。痛かろうが血が出ようが、記憶喪失になれば忘れますから」
「そういう問題じゃないわよ!」
逃げるバージニア、追うベラ。
明日のティータイムのあと、馬車までの道中で決行します。合図は出すので、どっしり構えて、決して避けないこと。倒れた後は私が何とかします。記憶がちゃんとなくなっていることを確認するまでは誰も部屋に入れないから安心してください。大丈夫、お任せください。
晴れやかに言い切ったベラに、何一つ大丈夫じゃないし何も任せたくない、と悲鳴を上げて。けれど結局、じゃあ任せるから今日はもう寝る、と。肩で息をしながら、激しい呼吸の合間に言葉をねじ込んだバージニアは、考えるのをやめた。
◇
空は清々しく澄み渡り、雲一つない晴天に恵まれた翌日。
向かい合ってティータイムを過ごす二人の間には、曇天より重い沈黙が横たわっていた。
「いいお天気ですわね」
「ああ」
「今日はお招きありがとうございます」
「ああ」
「こ、このお菓子とっても美味しいですわね」
「ああ」
「……わ、私チョコレートが一番好きなんです」
「そうか」
――無理!
少ない口数、動かない表情筋。そういう機械仕掛けだと言われれば信じてしまえるような鉄仮面っぷりに、バージニアの腹は決まった。
――ベラ、思い切りやってちょうだい。
もう血でもなんでも出てしまえ、と思うほどの気合の入りようで、バージニアは時間が過ぎるのをひたすら待った。いっそ派手に流血して、マーカスが慌てる様子でも眺めてやる。
会話をするのは諦めた。どうせ帰りには記憶喪失になるんだ。二人して黙りこくって会話もなくこの時間が終わったって、帰りには全部忘れるのだから構うものか。
やけっぱちだった。記憶を失うことは前提で、失敗は考慮しない。意地でも忘れてやる。
そして、運命の時がやってきた。
ではそろそろ、といつものようにマーカスが迎えの馬車までエスコートする。邸を出、庭を横切り、門にたどり着くその寸前。
「ああっと、おじょーさま、あぶなーい」
ベラは、素直な性格だった。黙ることはできても嘘は吐けない。もちろん演技の素養などあるはずもなかった。なぜかすごく離れた場所に立っていたベラのものすごく棒読みな声に、バージニアは内心で頭を抱えた。
ベラ、大きく振りかぶって、投げます!
なんだかそんな声が聞こえたような気がする。
侍女にしておくのがもったいないほどの強肩で、投げられた何かが風を切って迫ってくる。……記憶どころか頭が飛びそう。
冷や汗をかくバージニアの顔に風が当たり、ぎゅっときつく目を閉じる。――衝撃は、来なかった。
「無事か?」
「へ?」
目を開けて、こちらをのぞき込むマーカスと目が合った。肩が跳ねたのは反射に近い。
「あの侍女、あなたの家の者ではないのか?」
「ハ、ハイ。ソウデスネ」
キッとベラを睨みつけるマーカスにますます冷や汗をかきながら、バージニアは慌ててベラに手招きし門の方へ踏み出す。
「ま、マーカス様、本日は楽しかったですわありがとうございましたあなたは命の恩人ですお礼は後日必ずそれではまたさあベラ帰りますよ!」
後半は息継ぎもせず言い切った。マーカスの返事は待たない。
さあ帰ろう、と振り返った先、眼前にあったのは、門だった。
「きゃうんっ!?」
止まろうにも間に合わず、遠慮なく額からぶつかって変な声が出た。目がチカチカして開けていられない。痛みでふらつく足がもつれ、バランスを崩した体が倒れる。
「ぎゃんっ!!」
今度は後頭部に激痛が走り、バージニアの意識はそこで途切れた。
◇
目を開けるとそこは、自室のベッドの上だった。
「お目覚めですか?」
聞こえてきたのはベラの声で、顔の向きを変えると、いつも通りピンと背筋を伸ばして立っていた。
「ここには私とお嬢様しかおりません。……さて、私が誰かわかりますか?」
こくり、と頷く。途端、ベラが舌打ちして苦々しく表情を曇らせ地団駄を踏んだ。
「なんてことでしょう失敗です! あんなに派手にひっくり返っておきながら記憶を保ったままだなんて、お嬢様、ふざけてるんですか!? せっかく私が殺気たっぷりにブランドン卿を睨みつけてうっかりお嬢様を受け止めないよう工夫したのに!」
後ろに倒れた時はせめて受け止めてほしかった。
「ねえ、ベラ? せめて安堵の素振りくらい見せない?」
「お嬢様は石頭ですから大丈夫です。血も出ませんでしたし」
血が出ないから石頭というのは違うだろう、とちょっと寂しくなる。はちゃめちゃに痛かったのに。
「しかし困りましたね。目を覚ましたら見舞いたいと、ブランドン卿から脅されているんです」
前後で文章がおかしかった。特に後半がおかしかった。見舞いの申し込みは普通、脅してするものではないだろう。
「……ど、どうして脅されているの?」
「さあ? お嬢様に石を投げつけて殺そうとしたと疑われているのに、倒れたお嬢様を強奪してお邸に戻った挙句、部屋に誰も入れないよう細工したからでしょうか?」
恐る恐る、扉を見遣る。扉の前にはタンスや本棚が置かれていた。窓の方にも視線を向けると、板が打ち付けてあった。
「ベラ? ベラ!? なんだか大変なことになっていない!?」
「大丈夫ですよ。ちょっとお嬢様を監禁していると疑われているだけです」
「何が大丈夫なの? 何も大丈夫じゃないわよ!?」
やっぱり、大丈夫任せてください、なんて言葉を信じるんじゃなかった。
「旦那様はいつもと変わらず、大丈夫大丈夫、と笑っておられましたが……。お嬢様、どうしましょう?」
「どうしましょうって……」
「記憶喪失作戦、続行します? この際、本当でも演技でも構わないでしょう」
「それどころではないのよ、ベラ」
体を起こす。何だかどっと疲れた。
ぶつけた箇所を触ると、こぶになっていたけれど痛みは引いていた。
「お嬢様、ブランドン卿は部屋の前でお待ちです」
「はぇ!?」
目が覚めたら見舞うって、目が覚めたことを察知した瞬間に部屋に踏み込むってこと!?
ぎょっとしてベラを見ると、なぜか誇らしげに胸を張っていた。
「ブランドン卿に関する記憶だけを失った、ということにすれば、あの方の心をボコボコにしてやれますよ!」
今それどころではない。
嘘を吐く相手が一人なら、何とかなるかもしれない。両親にかける心配も削減できるかもしれない。言いたいことはわかったが、言い方に納得はできなかった。
「ベラ? マーカス様のこと嫌いになったの?」
「私のお嬢様を苦しめるならたとえ旦那様でも嫌いですが?」
なぜ当然のことを聞くんですか、とその顔には書いてあった。
「そ、そう……」
喜ぶべきだろうか……違う気がする。
「とりあえず、部屋から出ましょう。私が無事でいる姿を見せて、あなたの潔白を証明しないと」
記憶喪失とかなんとか、そんなことは後回しだ。
「では早速!」
あっという間にバージニアの身支度を整え、ベラが扉の前のタンスと本棚を移動させる。
「ではお嬢様、参りましょう!」
バァン! と派手に扉を開け放った。
部屋の外、扉の前にいたのは、マーカスだけだった。目を丸くして、けれどしっかり立っていた。
「ブランドン卿お待たせいたしました。お嬢様が目を覚まされました」
「貴様よくも抜け抜けと!」
怒気あふれる声に、バージニアの肩が震えた。それを見てハッとしたマーカスが慌てて姿勢を正す。駆け寄りバージニアの肩に手を置く。
「バージニア、無事か!?」
「……は、はい。私の侍女がご迷惑をおかけしました」
案じてのことだろうが、バージニアには積み重なった恐怖がある。向けられる視線に応じることもできず、顔からは血の気が引いた。
「バージニア?」
「ブランドン卿、お嬢様は少々混乱しておられます。頭を強く打ちましたからね」
間に割って入ったベラが、自らの方へバージニアを引き寄せた。
「先ほど確認いたしましたら、どうやらブランドン卿のことだけすっぽり記憶が抜け落ちてしまっているようでして」
残念ですが、と付け加えた声は弾んでいるように聞こえ、マーカスは顔を顰めた。この侍女は二年前、バージニアとの初顔合わせの日からずっと、マーカスを毛嫌いしている。
「バージニア、本当か?」
「ハ、ハイ。ソウデスネ」
バージニアはもうやけっぱちだった。
マーカスはやはり怖くて、ベラは記憶喪失作戦を強行、殺人未遂の嫌疑がかけられたうえに監禁の容疑までかけられているというのに。もうめちゃくちゃだ。どうにでもなれ。
「ま、……ブランドン卿のこと、何も思い出せなくて……申し訳ございません」
頭を下げるついでに視線から逃れる。顔を上げるタイミングで、そっとベラの後ろへ隠れることも忘れない。
「そういうことですので、お嬢様はしばらくの間、絶対安静です。記憶が戻りしだいご連絡差し上げますので、どうぞお引き取りくださいさあお帰りください記憶が戻るまでは私がお嬢様を独り占めです!」
最後の最後で本音をぶちまけたベラに、マーカスは眉間のしわを深くする。
「バージニア、少し話をさせてもらえないだろうか」
すかさず拒絶しようと口を開いたベラを手で制す。
「俺はあなたの婚約者だ。せめて自己紹介だけでもさせてもらえないだろうか」
できれば避けたい、とバージニアは心の中で冷や汗をかく。ぼろを出さない自信がない。
「あなたが頭を打った際にそばにいながら、守れなかった。騎士として不甲斐ない限りだ」
申し訳ない、と深く腰を折るマーカスに、バージニアの罪悪感が爆発した。
「ベラ、お茶の用意をしてくれる? 用意だけでいいわ。二人でお話しします」
「お嬢様!」
やめた方がいい、絶対にやめた方がいい。ベラの目が強く訴えてくる。
バージニア自身、演技ができるなどと思ってはいない。けれどこのままマーカスを帰らせては、バージニアは罪悪感で胃に穴が開く。
「だ、大丈夫。少しだけだから。今は打ったところも痛まないし」
「……かしこまりました」
不本意であると顔面すべてで表現しながら、ベラは渋々、いやいやながらバージニアから離れた。人生で一番急いでお茶の準備を整え戻った頃には、二人は部屋の中央にあるテーブルをはさんで向かい合って座っていた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう、ベラ。お話が終わったら呼ぶから、呼ぶまで入ってこないでね」
「本当に? 絶対に入ってきてはいけませんか? ちょっとでも駄目ですか?」
「終わったら、呼ぶから。ね?」
本当はそばにいてほしいけれど、ベラがそばにいると話が進まないことが目に見えている。絶対に邪魔する。マーカスの発言すべてに噛みつくという確信があった。
シュンと肩を落として部屋を出るベラを見送って、バージニアは深く息を吸った。腹にぐっと力を込め、気合を入れる。頑張れ私、私はやればできる子よ! 胸の中で百回は唱えた。
「バージニア」
「ひ、はい」
目を合わせることはできず、マーカスの鼻に視線を向ける。
「時間をくれてありがとう」
「え……いいえ、お礼を言われるほどのことでは」
驚いてさっそくミスをした。視線を上げてしまい、目が合う。
すぐさま逸らしたが間に合わず、肩がびくりと跳ねた。
「すまない。俺はどうにも顔が恐ろしいようでな。前からあなたを怖がらせている」
怯えていることはバレていたらしい。
「い、いえ私とても失礼なことを……申し訳ありません」
「あなたの前では緊張して、顔に力が入ってしまう。そのせいでより怖がらせているとわかってはいるのだが……」
「緊張、されていたのですか?」
あの鉄仮面のような顔は、緊張している時の顔だったのか。
「あ、あなたはその……大変な美人なので、俺のように女性と接する機会の少ない身としては……眩しいのだ」
右を見ればむさくるしい男。左を見れば暑苦しい男。女性とはもう、それだけで直視できないほど高嶺の存在だ。中でもバージニアは大輪の、天に届くほど高嶺に咲く花だと思っている。バージニアを初めて見た時、女神は実在したのかと本気で考えたほどだ。
「び、美人だなんて……」
バージニアは早くもいっぱいいっぱいだった。マーカスに褒められるのは初めてのことだ。
もう今の言葉だけで、これまでのデート中の全発言よりたくさん喋ったのではないだろうか、と思うほど、今日のマーカスはよく喋った。
別人だと言われたら信じる。
「デート中も気の利いた言葉一つ思いつけず、あなたにはさぞつまらない婚約者だろうと。……しかし、解消を言い出すことはできない」
見れば、マーカスの耳が真っ赤になっている。
「お、俺はあなたに心底惚れている」
バージニアの頭の奥で何かが、ぱぁんっと弾けた。
「だから、あなたが婚約解消を申し出ても俺は拒否する」
「ふぇ?」
「自己紹介というのは方便だ。俺はあなたの記憶喪失を利用しようとしている」
マーカスの鋭い視線が突き刺さる。しかし今度は混乱が勝り、恐怖は置いてけぼりにされた。
「俺のことを忘れた今のあなたと、初顔合わせからやり直そうとしている」
「それは、私に伝えてしまってよろしかったのでしょうか?」
黙ってやらないと効果半減だろう。
バージニアの指摘に、マーカスはぐぅ、と呻ってわずかに顔を逸らした。
「き、緊張して、言うつもりのなかったことまで喋ってしまっている……」
マーカスの顔が真っ赤に染まった。
「くっ、こんなはずでは……すまないバージニア、やり直しをさせてくれ」
マーカスはもう、自分が何を言っているのか半分も理解できていない。頭が沸騰しそうだ。バージニアの前では痛いほど早鐘を打つ心臓こそいつものことだが、火が出そうなほど熱い顔は初めてだ。普段は頭の中で騎士団の規則を序文から順に唱えることで心を落ち着かせている。
「だ、駄目です。今のマーカス様とお話ししたいです」
バージニアはもう、自分が何を言っているのかほとんど理解できていない。予想もしていない事態に頭は溶けそうで、心臓の音はマーカスに聞こえてしまうのでは、と不安になるほどうるさい。熱くて目が回るしくらくらする。
「わ、私ずっと、マーカス様と仲良くなりたくて。でもマーカス様はいつも無表情でお返事も素っ気なくて、嫌われているのだとばかり……」
記憶喪失設定など頭の中から消し飛んでいたが、バージニアは気づかない。
「俺の態度が誤解を招いた、申し訳ない。嫌いだなどと、むしろ逆の感情が行き過ぎてあの態度に……記憶が戻ったのか?」
とんでもなく恥ずかしいと思いながら言葉を紡ぎ、マーカスは気づいた。
「バージニア?」
バージニアの顔からさあっと血の気が引いた。
「あの、これは……オ、オモイダシマシタ」
ぎこちなく顔を逸らすバージニアを見て、マーカスは色々察してしまった。
記憶喪失を演じるほど怖がらせていたことに大いに落ち込み、しかし同時に間違いなく協力者であろうベラの高笑いが聞こえた気がしてかちーんときた。
「バージニア、やり直しをさせてくれ」
「ま、マーカス様?」
「俺はあなたを愛している。俺と一緒になってほしい」
我ながら信じられないほど自然に滑り出た言葉に驚く。怒りとは時に、人を冷静にする。
「俺のことを思い出した今のあなたは、恐ろしい俺のことが嫌いか?」
今度はバージニアが、ぐぅと呻って顔を逸らした。
好きになりたかったから、好き同士でありたかったから、恐怖を覚えるまでバージニアは頑張ってきたのだ。芽も出ていないと思っていた愛がとっくに実をつけていたと知って、こちらから根を引き抜くような真似をするはずがない。
「お慕いしております。きっとこれからもっと、好きになります」
恐怖ではない感情に耐えられず、バージニアは顔を覆ってうつむいた。
「ではバージニア。改めて、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
指の間からそっと覗き見ると、微笑んだマーカスと目が合った。……今日は初めてのことばっかりだ。心臓がもたない。
落ち着こうとティーカップに手を伸ばし――ばあんっ! と開いた扉に驚いて椅子からお尻が浮いた。
「ブランドン卿! いつまで私のお嬢様を独占しているおつもりですか!!」
待ちきれなくなったベラだった。
「貴様……!」
青筋を立てるマーカスを無視して、ベラがバージニアのそばまで駆けつける。
「お嬢様? 大丈夫ですか? 何もされていませんか? 男はみな狼です、特にこの方はお嬢様にべた惚れなのです。いつまでも二人きりなどいけません!」
「貴様は俺を何だと思っているのだ!」
「私からお嬢様を攫って行く憎たらしい悪魔に決まっています」
清々しさを感じるほどの嫌いっぷりだった。
しかしバージニアはそれどころではない。
「ベラ? マーカス様の気持ちを知っていたの?」
「知らないのなんてお嬢様くらいのものです。なぜここまで鈍感なのかと、常々不思議に思っておりました。旦那様も、どうしてあんなにすれ違うのだろうね、と笑っておられましたよ」
あまりの衝撃に言葉が出ず、しばらく開いた口をはくはくと動かす。ややあってハッと声を張る。
「どうして教えてくれなかったの!?」
「黙っていれば勝手にすれ違って婚約を解消してしまわれるかと期待して」
あっけらかんとしたベラに、マーカスは頭痛を覚えた。
「貴様、主人への愛が重いぞ」
「なんとでもおっしゃってください」
「バージニアが俺のところへ嫁いだら、貴様もついてくるつもりなのだろうに」
「当然です。私はお嬢様の嫁入り道具として数えていただきます」
バージニアも頭痛がしてきた。
「ベラは本当に、私のことが好きね」
「はい、大好きですよお嬢様」
ぎゅう、と抱き着いてくるベラの背に腕を回しながら、
「私もベラのことが大好きよ」
と、溜め息を飲み込んで言葉をかける。すると、マーカスが不満げな声をあげた。
「バージニア」
意図することを察し、しかしこちらはすぐに言葉が出ない。ベラも察したのか、言わせまいとぎゅうぎゅう締めてくる。
「ま、マーカス様のことも、だだだ大好きです」
顔に集中する熱を自覚しつつもなんとか言い切った。
「俺もあなたが大好きだ」
あっさり返され、ますます熱くなる。
私の方が好きです、とすかさず声をあげたベラがマーカスと喧嘩を始めた。
婚約して二年。ずいぶん遠回りをして記憶喪失のフリまでしたけれど、本当に忘れてしまわなくて良かった、とバージニアは心から安堵する。
「お嬢様、私の方が好きですよね?」
「バージニア、聞く耳もつな」
矛先を向けられバージニアは微苦笑する。
これから先、ずっとこうして三人で騒いでいるのだろう。それはとても、幸せなことに思えた。
「どちらのことも大好きです」