弟の腐心 第一話
天正十年(1582)旧暦五月十七日、比内浅利氏当主の浅利勝頼は長岡(大館)城にて殺害された。当時は城内にて酒宴が開かれており、蝦夷地より当主就任の挨拶にきていた安東家臣の蠣崎慶広を接待するためだった。蠣崎氏は海側だけでなく奥地も見聞することを望み、ならばと同じ安東従属下の浅利氏領国に向かわせたという。
ただしそこに企みがあり、浅利家臣の片山氏は安東と内通。以前より浅利勝頼は反骨の意図を示していたため、酒宴の席にて殺害しようと。蠣崎氏が伴ってきた安東の兵らによってその場の混乱は鎮圧され、さらには山に潜ませていた大軍によって城は占拠された。
実をいうと浅利氏は安東に対抗しうる勢力として南部氏や大浦氏に接触を図ってきた。ただし南部にはしばらく事を起こす意志はなく、大浦は力を無くし南部に再従属している始末。誰とも手を結べずにいた頃合いでの変事である。
……こうなると危ういのは津軽南方、平賀郡の動向だ。一応は南部氏より平賀郡は大浦領と認められていたが、実際に力の及んでいる範囲は狭い。大浦家臣の乳井氏や三々目内の多田氏ぐらいまでが勢力圏で、よくて宿河原まで。それ以降の川沿いはいわば大浦と安東の緩衝地帯。六羽川合戦の折、大浦(津軽)家に属した多くの勢力は安東によって攻め滅ぼされてしまったし、残ったのは安東になびいている国人ら。
しかも大浦家臣であるはずの多田氏も信用はできない。元をただせば六羽川合戦を滅茶苦茶にした要因は多田氏の面の良さであある。敵軍を平野部へ向けて素通りさせた責を負い、当主だった多田秀綱は大浦城内にて自刃させられた。父を殺されたも同然の多田玄蕃ならば、いつ安東に与してもおかしくはない。
いまだ津軽には詳しい報が伝わらず、比内には安東の大軍が入ったということしかわからない。これが勢いを持って津軽へと再び差し向けられれば……なし崩しに大浦家が滅ぼされる恐れがある。