禅譲 第四話
為信は弟の拳がギュッと握られるのを見逃さなかった。ならば弟は兄を殴るか。いや必死になって堪えているようだ。ただし今こそ絶えてはいるものの……何かの拍子に殴り掛かってきてもおかしくはない。感情を察するに余りある。
予想通り、信勝は必死に堪えていた。ただし次第に……殴ったら大変なことが起きるという当たり前の思考はもちろんのこと、疲弊感や哀しさが “殴ってどうなるのか” と訴えかけてくる。
為信も余計なことを言うまいと、弟に背を向けた。そして他の者らへ宣言する。
「よし。後続の兵らが付き、浪岡も落ち着き次第、我らは油川へ攻めかかる。もう少しで日は傾く。闇夜に紛れて山々に潜むぞ。」
兵らは途轍もなく大きな声で雄叫びを上げた。為信はその群れの中に吸い込まれ、姿はまったく見えなくなった。広間に取り残された信勝はただただうずくまり、やかましい男どもの声を聞くまいと耳に手をあてる。それでも容赦なく騒音は入ってくるので、気が狂うほかない。そのうち体のすべての力が抜け、その場に横たわってしまった。……畳の上は嫌に冷たく、激しく動く足の音も伝わってくる。しかし、もう動きたくはない。立ちたくはないのだ。すべてを無にしたい。何もかもが嫌だ。嫌だ嫌だ……。
倒れたまま、横にさしてある小刀を思い出したが……果ては抜く気力さえなかった。そのまま気を失い、目が覚めたのは全てが終わった後だったという。
さて浪岡に後続の兵らも着き、他国者や有志の士も加わり、大浦軍は総勢三千へ膨れ上がった。めでたい空気に包まれているだろう油川は、備えをろくにしておらぬはず。あとは情報が洩れることなく、静かに囲むこと……。油川へ続く抜け道は、明行寺に頼んである。城の手薄なところも存じておるし、城内にも手下の者を入れている。大浦本隊と戦う前に……すでに決着を見るかもしれない。
為信をたびたび苦しませた奥瀬善九郎……命は明日で最後。首級を上げれば第一の誉れ。




