心の在処 第一話 +油川城絵図
白取氏は外ヶ浜横内の堤氏の家来にして、同じ外ヶ浜の原別の領主である。善知鳥(青森)平野の東端を抑え、街道筋の野内宿を統括する役割を担っていた。後に野内は江戸時代に入ると、大間越・碇ヶ関と並んで津軽三関と呼ばれる重要な拠点となる。
夏の盛りながら……北国の海沿いは寒い。土地は広いといえど、風に直接あたるので作物は育ちにくく、凶作続きもままある。そこに此度のこと。浪岡は津軽平野の北端、山の狭間に入る先っぽにあり、ちょうど北風が山に遮られる土地柄だ。同じ寒いにしても、夏は盆地のように暑くなる。原別と比べると確実に過ごしやすい。そこで “私が浪岡に入る” と立候補したのだ。主君である堤氏から言われていることには、あと三年無事に治まったならば、一族郎党ごと浪岡に移せばいいと内約を得ている。
こうして意気満々に浪岡へ入ったのだが……かつての在来の民は各所に散らばってしまい、戻ってきた者は半分以下。残りの土地はかつて為信が引き入れた他国者が耕している。この二つの住民の仲は悪く、激しい喧嘩こそしないが、いがみ合っている。加えて長年の南部と大浦の闘争により、土地は豊かだが耕す人がおらず、放棄されているところも多い。しかもいまだ他国者の心は為信にあると見えて、もし戦事が起きたならば兵の徴収に応じず、逆に浪岡へ逆らうかもしれぬ。そういった危うさが確かにあった。他国者を束ねる存在として大戸瀬や鰺ヶ沢の有力者がいまだ居座り、西浜よりさらに他国者を浪岡に引き入れている始末。どうらや為信の重臣である兼平の手の者や商家長谷川が担っているようだが……。
次第に浪岡の在来民の肩身が狭くなる。彼らの性格はどちらかというと物静かで、おそらくはかつて領主だった高貴な浪岡北畠氏によって感化された部分もあるだろう。それに対し他国者のどんどん押していく強さ。今でいうところの ”フロンティアスピリッツ” とも言うべきか。そのうち全員が追い出されるかくらいの圧で……。
戦を起こさないだけではなく、この両者の仲を取り持つのが浪岡代官としての早急の課題だった。
油川城絵図
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2018/02/15 挿絵に関して
出典元:特集 津軽古城址
http://www.town.ajigasawa.lg.jp/mitsunobu/castle.html
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