表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
津軽藩起始 油川編 (1581-1585)  作者: かんから
第二章 多田玄蕃、為信に従う 天正十年(1582)晩夏
12/102

心の在処 第一話   +油川城絵図


 白取(しらとり)氏は外ヶ浜(そとがはま)横内(よこうち)(つつみ)氏の家来にして、同じ外ヶ浜の原別(はらべつ)の領主である。善知鳥(うとう)(青森)平野の東端を抑え、街道筋の野内(のない)宿を統括する役割を担っていた。後に野内は江戸時代に入ると、大間越(おおまごし)碇ヶ関(いかりがせき)と並んで津軽三関と呼ばれる重要な拠点となる。


 夏の盛りながら……北国の海沿いは寒い。土地は広いといえど、風に直接あたるので作物は育ちにくく、凶作続きもままある。そこに此度のこと。浪岡は津軽平野の北端、山の狭間に入る先っぽにあり、ちょうど北風が山に遮られる土地柄だ。同じ寒いにしても、夏は盆地のように暑くなる。原別と比べると確実に過ごしやすい。そこで “私が浪岡に入る” と立候補したのだ。主君である堤氏から言われていることには、あと三年無事に治まったならば、一族郎党ごと浪岡に移せばいいと内約を得ている。


 こうして意気満々に浪岡へ入ったのだが……かつての在来の民は各所に散らばってしまい、戻ってきた者は半分以下。残りの土地はかつて為信が引き入れた他国者が耕している。この二つの住民の仲は悪く、激しい喧嘩こそしないが、いがみ合っている。加えて長年の南部と大浦の闘争により、土地は豊かだが耕す人がおらず、放棄されているところも多い。しかもいまだ他国者の心は為信にあると見えて、もし戦事が起きたならば兵の徴収に応じず、逆に浪岡へ逆らうかもしれぬ。そういった危うさが確かにあった。他国者を束ねる存在として大戸瀬(おおとせ)鰺ヶ沢(あじがさわ)の有力者がいまだ居座り、西浜よりさらに他国者を浪岡に引き入れている始末。どうらや為信の重臣である兼平(かねひら)の手の者や商家長谷川が担っているようだが……。



 次第に浪岡の在来民の肩身が狭くなる。彼らの性格はどちらかというと物静かで、おそらくはかつて領主だった高貴な浪岡北畠氏によって感化された部分もあるだろう。それに対し他国者のどんどん押していく強さ。今でいうところの ”フロンティアスピリッツ” とも言うべきか。そのうち全員が追い出されるかくらいの圧で……。


 戦を起こさないだけではなく、この両者の仲を取り持つのが浪岡代官としての早急の課題だった。


油川城絵図

https://18782.mitemin.net/i410958/

挿絵(By みてみん)



2018/02/15  挿絵に関して


出典元:特集 津軽古城址

http://www.town.ajigasawa.lg.jp/mitsunobu/castle.html

鰺ヶ沢町教育委員会 教育課 中田様のご厚意こうい(あずか)りまして掲載が許されております。小説家になろうの運営様にも、本文以外でのURL明記の許可を得ております。


光信公の館

〒038-2725

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字種里町字大柳90

http://www.town.ajigasawa.lg.jp/mitsunobu/

TEL 0173-79-2535


鰺ヶ沢町教育委員会 教育課

〒038-2792

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字本町209-2

TEL 0173-72-2111(内線431・433)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ