第5話 束の間の【ルード】
アトリさんの手を引いて歩きながら、俺は心底安堵していた。
――なんとかコミュニケーションを取ることができた。
彼女自身にジェスチャーさせて、こちらの意思を伝える。
我ながら、なかなかの妙案だったが、必然的に彼女と触れ合うことになるのが問題……というほどではないな……むしろ嬉しい……は駄目だろ…………と、とにかく!
その一点だけは色々と気をつけないといけないな。
あと、もう一つ気をつけなればならないのが、彼女にジェスチャーをさせる際に『見る』ジェスチャーを極力使わないようにすることだ。
『探す』のジェスチャーについて考えた際、俺は手に庇をつくって周囲に視線を巡らせるジェスチャーをさせることを最初に思いついた。
しかし、冷静に考えてみれば、視線を巡らせるという行為自体が目が見える人間の発想で、目が見えない彼女には何をしているのか理解してもらえない可能性があった。
仮に理解してもらえたとしても、目が見えない人間に『見る』ジェスチャーをさせるのは、さすがに無神経すぎる。
どうしても、それでしか伝わらない状況でない限りは、使わないに越したことはないだろう。
それはそうと、どうやらこの大森林地帯には夜行性の魔獣はいないようだな。
日中に比べると、全くと言っていいほど気配を感じない。
正直言って、かなり助かる。
もうこれ以上、彼女に恐い思いはさせたくないからな。
それに、ナトゥラの民の集落を出た矢先にこれだ。心身ともに疲れ切っているだろう。さっさと隠れる場所を見つけて休ませてやりたいところだ。
…………んん?
なんか、先程から思考がアトリさん中心になりすぎてないか?
いや、待て。
別に間違ってはいない。
彼女は今回の仕事の護衛対象だ。気を遣うのは当然の話だ。
いや、待て。
護衛団が瓦解した今、この仕事は失敗扱いになって報酬をもらえなくなるのでは?
だったら、そこまで気を遣う必要もないのでは?
いや、待て。
報酬云々よりも、ここで仕事を放り出したら、護り屋としての俺の経歴に傷がつくかもしれない。
だから、気を遣うのは当然の話だ。
だから、思考がアトリさん中心になるのも当然の話だ。
ともあれ、経歴のためにも、報酬のためにも、アトリさんのためにも、まずは彼女を無事マイア城に送り届けなければならない。
だが、その行動はあの黒装束どもも読んでいるはず。
アトリさんの身の安全を考えると、直接マイア城を目指すのはやめた方が無難だろう。
ならば、必然的にしばらく彼女と二人きりでいられるということか……じゃなくて!
黒装束どもの裏をかいて、マイア城から離れる形で移動し、森を出た後に人里を探してマイア騎士団に接触して保護してもらい、彼女を城まで送ってもらう。これが最善だな。
唱巫女であるアトリさんが行方知れずになったことで、色々と騒ぎが起きるかもしれないから迅速に行動したいところだが、焦った結果、黒装束どもに見つかってしまっては元も子もない。
だから、日数を費やしてしまうことも、彼女と二人きりでいる時間が長くなってしまうことも、仕方ないことなのだ。
そう、仕方ないことなのだ。
……心なしか、思考の中で彼女のことを名前で呼ぶ回数が増えている気がするが……まあ、気のせいだろう。
そのアトリさんだが……思ったよりも体力を消耗しているのか、歩くペースがどんどん落ちてきている。
彼女のペースに合わせて歩いていたつもりだったが、もしかすると、俺に気を遣って普段よりも早足で歩いているのかもしれない。
心の底から、早く隠れる場所を見つけてやりたいと思う。
そんな俺の願いが大地の神に届いたのか、ほどなくして洞ができた巨木を発見する。
洞の中は、小柄な俺たちならば足を伸ばせるほどに広かった。
しかも、嬉しいことに川の匂いがしている。
匂いの濃さから逆算すると、もう少し歩いた先に川が流れているはずだ。
上手い具合に月明かりが差し込んで、洞の中が思ったよりも明るいのも悪くない。
木に含まれている水分のせいか、それとも洞の形のせいかはわからないが、湿気が多いことさえ目をつぶれば、隠れて野宿するには最適な環境だった。
木の根などで足場が不安定になっているので、しっかりとフォローしながらアトリさんを洞の中に案内する。
俺が先に座って下から手を引っ張ることで、『座っていい』を伝えると、アトリさんは腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。やはり相当無理をしていたようだ。
そんな彼女に必要なのは休息と食事、そして水だ。
腰の後ろにある、ブレ―ドと一緒にベルトに固定していた革袋を外し、中から水袋を取り出す。
さすがに俺も喉が渇いていたので、飲み口の栓を抜いて一口だけ水を煽る。
その後、アトリさんの耳元で水袋を振って水の音を聞かせてから、彼女に渡した。
アトリさんは慎重に水袋をまさぐり、飲み口を見つけると一心不乱に水を飲み始める。やはり、相当喉が渇いていたようだ。
……当たり前のようにそのまま渡してしまったが、これ、間接キスになってないか?
思いっきり間接キスになってないか?
いや、それ以前に、何を俺は意味もなく浮かれているんだ?
そういう、やましい感情を護衛対象に抱いてどうする?
水袋は一つしかない。
だから、これは仕方のないことだ。
だから、妙に頬が熱くなっているのは、きっと気のせいだ。
そんなことをウダウダ考えているうちに、アトリさんが水袋を返してくる。
かなりの量が余っているが、もしかして俺の分を残してくれたのか?
少し飲んだ程度では、またすぐに喉が渇くだろうに。
アトリさんにはもう少し、護られる側の人間だということを自覚してほしいところだな。護衛の俺に気を遣いすぎだ。
そんな彼女の優しさに触れたせいか心臓がいつまで経っても大人しくなってくれないから、できればやめてほしい。あくまでも、できればの話だが。
水に関しては後で川で補充していっぱい飲ませてあげるとして、次は食事だな。
夜の森で食料探しに出るのは効率が悪く、危険も大きいから、革袋に入れていた干し肉で我慢するしかないな。
アトリさんに干し肉の包みを渡し、しっかりと両手で持たせた後、包みを開いて香辛料の匂いを嗅がせることで、今渡した物が食べ物であることを認識させる。
匂いのせいで腹が鳴ってしまったのか、彼女の頬がほんのりと朱に染まるのが見て取れた。
どうせこの人のことだから、自分一人だけ食べるのは申し訳ないとか思うはず。
事実、彼女は一向に、干し肉に手をつけようとはしなかった。
仕方がないので革袋から俺の分の干し肉を取り出すと、わざと大きな音を立てて包みを開き、これみよがしに噛みちぎって俺も干し肉を食べていることを彼女に伝える。
その音を聞いた途端、アトリさんはもう我慢の限界だと言わんばかりに干し肉にかぶりついた。
余程腹が減っていたのか、干し肉を食べているアトリさんの顔は実に幸せそうだ。
臭みをとるために塩漬けした挙句、香辛料を振りまくってるから味付けは無駄に濃いわ、肉は硬いわで、お世辞にも旨いとは言えない代物なのだが、どうやら空腹という調味料が利きまくっているらしい。
さすがに一つだけでは足りないだろうから、もう一つ干し肉の包みを渡してみると、アトリさんは見ているだけでこちらの腹が膨れそうな食べっぷりで、あっという間に完食した。
いくら空腹という調味料が利いていても、味付けが濃いという事実に変わりはない。
だから最後に水袋を渡してあげると、アトリさんは申し訳なさそうな顔をしながらも水に口をつけた。
例によって俺の分を残して返してきたので、全部飲めという思いを込めながら突っ返すと、彼女もまた返してきて……そんなやり取りを十回ほど繰り返してから、ようやく根負けしたアトリさんが水袋の水を飲み干した。
あとはもう水を補充して休むだけなので、川に行ってくることを伝えようと思ったが……さすがにこれを身振り手振りだけで伝えるのは無理だな。
そうだな……代わりに伝えるとしたら『ここで待っていてくれ』だな。
俺はアトリさんの両肩を押さえることで『待っていてくれ』を伝えてみる。
数瞬、小首を傾げていたアトリさんだったが、得心したように手を叩き、崩していた膝を抱えて座り始める。
わかりやすいほどに『待っている』体勢だった。
会心の回答だと思ったのか、したり顔になっているのがかわいい……じゃなくて……いや、もういい。かわいいでいい。ここまでくると認めてしまった方が楽だ。
と、とにかく待ってもらうことは伝えたので、俺は水袋を持って、川の匂いがする方角へ移動する。
思った通り、少し歩いただけで川を発見することができた。
念のため、手で川の水を掬い毒味してみると……問題ないどころか普通に旨いな、ここの水。
そうとわかれば、さっさと補充を終わらすべく、川に水袋の飲み口を突っ込んで水を吸い上げる。
彼女が口をつけた飲み口が洗い流されていくのを心の奥底が残念がっている気がしたが、あえて無視。
俺は間接キスなどで浮かれる人間ではないと自戒する。
水袋がいっぱいになるまで補充したところで巨木の洞に戻ってみると、アトリさんはもうすでに横になってぐっすりと眠っていた。
無理もないか。心身ともに疲れ果てているはずだからな。
外套を脱いで毛布代わりにかぶせてあげると、彼女の傍に腰を下ろし、周囲を警戒する。
眠っていても、害意や悪意を持った生物が近づいてきたら気づける自信はあるが、それでもやはり、起きている時に比べたらどうしても発見に遅れが出てしまう。
状況を考えると、今宵は寝ずの番をした方が無難だろう。
長い夜になりそうだが、特段問題はなかった。
夜が終わるまでの間ずっと、彼女の寝顔を間近で見ることができるのだ。
むしろ贅沢だとさえ思っているのだから……いよいよもって認めるしかないな。
俺が彼女に……アトリ・スターフルに一目惚れしてしまったということを。