第51話 にじり寄る悪意、遠ざかる善意
そこはマイア城から遠く離れた場所にある、マイア国王――サウルン・ロッド・レゼリウスが個人的に所有している別荘だった。
マイア城内において、別荘の存在を知っているのはサウルン本人と、国王を護る一部の近衛騎士のみ。
マイア騎士団長であるカースラントはおろか、国王の妃でさえも、この別荘の存在は関知していなかった。
なぜならこの別荘は、とある女性と密会するために建てられたものだから……。
「まったく、どうしてこんなことに……」
大きなベッドが備えつけられた無駄に大きな一室にて、サウルンの口から陰鬱としたため息が吐き出される。
その大きなベッドの上で、一糸も纏わずに腰掛けていた銀髪の女が、蠱惑的な声音でサウルンに優しい言葉をかける。
「心中お察ししますわ、サウルン様。このような事態、いかな賢人であっても見抜くことはできなかったでしょう」
そう言って、裸の女――ラライア・カーロインは、聖母を思わせるような優しい笑みをサウルンに向ける。
「そなただけだな。余の苦悩を察してくれるのは」
サウルンはどこか安堵した表情を浮かべると、テーブルの上に置かれたデキャンタ――卓上用のガラス製の酒瓶――に入っていたワインをグラスに注ぎ、ラライアに渡す。
「ありがとうございます、サウルン様」
グラスを受け取り笑みを深めるラライアを見下ろしながら、サウルンは、自分のオアシスはここしかないと言いたげな微笑を浮かべ、彼女の隣に腰を下ろした。
現在、サウルンが身に纏っているものは豪奢なガウン一枚のみ。
部屋の外には二名の近衛騎士が直立不動で警護をしているが、部屋が無駄に広く、入口とベッドの距離が大きく離れているため、盛り上がりすぎない限りは近衛騎士にここでの出来事を聞かれる心配はない。
まさしくこの部屋は、愛妻家を演じることに疲れ切っていたサウルンにとっての、最高の不倫の場だった。
もっともそのオアシスも、一週間前に起きたとある事件のせいで空気が淀んだものになってしまっているが。
当代の唱巫女――アトリが、エーレクトラに渡ったという事件のせいで。
「〈オルビスの傷痕〉に架けられた橋の数々が、〝テラアルケミー〟なる魔唱の力によって為されたことは周知の事実。だが、兵団からの報告によると、当代の唱巫女が架けた〝もの〟は最早橋と呼べる規模ではなく、〈オルビスの傷痕〉を隔てるその威容はまさしく大地そのものだという話だった。それほどの唱力、過去の唱巫女の記録を紐解いても類を見ない。それこそ、目が見えないハンデを補ってあり余るほどに……」
「悩んでいらっしゃるのですね。当代の唱巫女に〝慈悲〟を与えるという決断が正しかったのかどうかを」
サウルンは妃にさえ明かしていない想いを、首肯という形で露わにする。
「エーレクトラ国王から送られてきた親書に、当代の唱巫女を切り捨てるのは早計だと、ただちに唱巫女の手配書を取り下げるべきだと書かれていた。もし仮に、他国の王もエーレクトラ国王に賛同した場合……余は確実に糾弾されるであろう。世界の全てから」
大臣たちには決して聞かせることのない弱音を吐くサウルンに、ラライアは再び聖母を思わせるような優しい笑みを浮かべる。
「そんなことは、この私が絶対にさせませんわ。そもそもエーレクトラに渡ったからといって、当代の唱巫女がマイアで〝大地に捧げし唱〟を奉じたとは限りません。それに、ああも派手に〈オルビスの傷痕〉を渡ったのは、捧唱の旅を続けている〝振り〟を世界に見せつけるためだった可能性が極めて高いです。当代の唱巫女――アトリの本性を考えると、それくらいのことをしでかしても不思議ではありませんから」
平然と嘘をついてアトリを貶める、ラライア。
ラライアの本性など露ほども知らないサウルンは、まんまとその言葉を鵜呑みにする。
「確かに、その可能性も否定できないが……このまま座して何も手を打たぬわけにはいかぬ。ゆえに余は直接エーレクトラへ赴き、エーレクトラ国王と会談しようと考えているのだが……ラライアはどう思う?」
「素敵なお考えだと思いますわ。胸襟を開いて話し合えば、エーレクトラ国王様もきっとサウルン様のお気持ちをわかってくださるでしょう」
「……そうであろうか?」
「そうに決まってますわ。でも、もしサウルン様がまだ不安に思っていらっしゃるのなら――」
ラライアは双眸に妖しい光を湛えながら、優しくも力のこもった声音でサウルンに告げる。
「《私もご一緒いたしましょう。そして、いざという時は私を頼ってください。大丈夫です。私に任せていただければ万事うまくいきますから》」
ラライアの言葉を聞いた瞬間、サウルンの目がどこか虚ろになる。
「……そうだな。そうしてくれると、余も助かる」
出てきた言葉も、どこか虚ろとしていた。
ラライアは優しげに妖しげに微笑み、魂が抜けたような顔をしているマイア国王を、子供をあやすように抱き締めた。
◇ ◇ ◇
一方その頃――
「……海……」
涼しげな美貌をした女は、夕陽によって茜色に染まった海を見つめながら愕然と呟く。
「おかしい……エーレクトラとの国境を目指していたはずなのに、どうして海にたどり着く?」
腰まで届く艶やかな銀髪を潮風に棚引かせ、浅黒い肌をわなわなと震わせながら、唱巫女の護衛を務めるはずだった女――ライム・シャルクは、砂浜に両手をついて項垂れた。
マイア城を出た後、馬に乗ってエーレクトラとの国境がある北西方面を目指したはずなのに、気がつけばマイア城から南東方面にある町にたどり着き、それならば真逆の方角に進めばいいだけだと思って馬を走らせたら……なぜか、そこからさらに東にある海にたどり着いた。
ここまで言えば、もはや言に及ばない。
魔獣退治専門の傭兵――掃除屋の中でもトップクラスの実力を誇るライムは、極度の方向音痴だった。
普段は巡回馬車などを利用しているが――それでも大概迷うことはさておき――今回の件は他人に頼るわけにはいかないと思い、馬を購入して一人唱巫女のもとへ馳せ参じようとしたわけだが、それが見事に裏目に出てしまった。
カースラントとの口論が尾を引いて、変に意地を張って一人で行こうとした結果がこの様である。
「ごめんね、アトリ。すぐに駆けつけなくちゃいけないのに、こんなところで足踏みして……」
普段の凜とした物言いはどこへやら。
金色の双眸に涙を滲ませながら情けない声を漏らす、ライム。
だが、それもほんの数秒の話で、指先で涙を払うとすぐさま海に背を向け、決然とした足取りで歩き出す。
「あともう少しだけ待っていてくれ、アトリ。貴方のことは〝お姉ちゃん〟が絶対に護ってあげるから」
とは言ったものの、彼女がアトリと再会を果たすのは、まだ当分先の話だった……。
一旦終了。




