第50話-1 〈オルビスの傷痕〉を越えて
「大丈夫だよね? 今の〝ホーリーヒール〟でちゃんと治ったよね?」
聞こえないことなどお構いなしにルードに語りかけるアトリの慌てっぷりに、パノンは苦笑を漏らしてしまう。
(ルードのことを信頼しているといっても、やっぱり心配なものは心配ってことか。アトリらしいっちゃアトリらしいな。……ま、今回ばかりはウチも大概心配しまくったけど)
ルードがあそこまで追い詰められているところを見るのはパノンも初めてのことで、正直仕合が終わるまでは気が気でなかった。
アトリの慌てっぷりを見ていなければ、こうも冷静でいられなかっただろうと、パノンは思う。
(アレやな。自分よりもよっぽど慌ててる人間を見るとかえって冷静になるって話、ほんまやってんな)
一方ルードはというと、アトリが距離感もへったくれもなく顔を近づけてくるせいでドギマギしっぱなしなものだから、パノンの苦笑は深くなるばかりだった。もはや嫉妬する気すら失せている自分のことも含めて。
助け船というわけではないが、パノンはアトリを優しく引き剥がした後、トン・ツーを用いてルードに訊ねる。
『実際、体の調子はどうなん?』
『完治とまではいかないが概ね良好だな。正直、折れた左腕と内臓ごとやられた脇腹は後遺症が残ることを覚悟していたが、どちらも戦闘に支障がない程度には回復している。まあ、さすがに無理は禁物だがな』
『そうか。ほんま、アトリの唱力は凄いな』
『ああ。この分だと、ものの数日で完治するだろうな』
『それ、そのままアトリに伝えてええか?』
ルードは首肯し、『頼む』と返してきたのでそのまま伝えてやると、アトリはその場にへたり込み、涙目になりながらも安堵の吐息をついた。
「よかったぁ……」
ルードの戦いを見守っていた時は毅然としていたのに、今はもうすっかりこれである。
別の意味で堪らない気持ちになってきたパノンは、アトリの頭をワシャワシャと撫で回した。
「なんというか、今夜は信じられない出来事の連続だな」
少し離れた位置に騎兵たちを残して一人歩み寄ってきたヤクーが、疲れたような声音でパノンに話しかけてくる。
「それは、ま、ウチも同じや」
地面がすり鉢状に陥没してできた大穴と、その底にさらに陥没してできた大穴を見つめながらパノンは同意する。
本気の本気で戦うルードの強さにも驚かされたが、グリッツの強さにはそれ以上に驚かされた。
魔唱もなしに地面にこれほど大穴を空けるなど、およそ人間の業ではない。
まさしく人外と呼ぶにふさわしい強さだった。
おまけに、戦いが終わったわずか一分後に目を覚まし、
『どうやら、今回は僕の負けのようだね。いやぁ実に楽しかった。次は勝てるよう鍛え直してくるから楽しみにしていてくれ』
と、ルードへの伝言を残し、治療も受けないまま「これは、だいぶ肉を食べる必要がありそうだね」と独りごちて、さっさとどこかに消え去っていったものだから開いた口が塞がらない。
グリッツならば肉を食べて一日寝たら全快していてもおかしくないと思っているのは、おそらく自分だけではないだろうとパノンは思う。
(グリッツの伝言を伝えた後の、ルードの嫌そうな顔といったらなかったな。いくらアトリと出会って表情筋が緩んだいうても、あの顔はレア中のレアやで)
今のアトリの立場を考えたら、本命の護衛の一人であるグリッツを死なせることなく退けられたのは最上の結果といっても過言ではないが、それを差し引いても、ルードにとって、グリッツに目をつけられたデメリットは大きかったようだ。
グリッツについては考えれば考えるほど顔が引きつってしまいそうなので、強引に頭を切り替えてからヤクーに訊ねる。
「ルードの護衛としての実力、さすがにもう疑いようはないやろ?」
ヤクーは数瞬沈黙を挟んだ後、ため息まじりに答える。
「認めざるを得ないな。私では彼の実力を測る物差しにすらならないという、あの青年の言葉も含めてな」
「ほな――」
「だが、まだ二人を見逃すと決めたわけではない」
言葉の意味に気づいたパノンが、小さくため息をつく。
「騎兵の誰かが言ってたとおり、判断するのはアトリが橋を架けるのを確認した後……そういうことやな?」
「そういうことだ」
声でパノンの位置を把握したのか、話を聞いていたアトリがこちらに向かってコクコクと頷いてくる。
ルードががんばったから次は私が――と、奮起しているのだろう。
フンスとかわいらしく鼻息を漏らすアトリの表情は、気合充分なご様子だった。
斯くして、ルード、アトリ、パノンの三人は騎兵たちとともに、マイア最後の障害となる〈オルビスの傷痕〉を目指した。




