第44話-1 触れ合い【ルード】
それから五日間、俺とアトリは廃村から一歩も出ることなく、息をひそめるように養生に努めた。
パノンが小まめに退治していたおかげか魔獣は一度も現れることはなく、この五日間、思いのほか平穏な日々を送ることができた。
もっとも、いまだアトリはよそよそしいままなので、俺の心には平穏が訪れていないが……。
『煙幕玉とナイフ、いっぱい用意したったで』
パノンがテーブルの上に置いた、煙幕玉が詰め込まれた布袋と、ナイフが差し込まれたベルトを吟味し、問題がないことを確認してから礼を言う。
『まさか、こんなにも沢山煙幕玉をつくってくれるとはな。恩に着る』
パノンは得意げな顔をしながら椅子に腰を下ろし、
『ええよええよ。ゴブリンに村襲われた時、ルードが使てる煙幕玉があったらもっと楽に立ち回れたやろなーって思てたところやから、煙幕玉のつくり方教えてもらえたのは渡りに船やったし』
『そうか。ところで、アトリの傷は本当にもう大丈夫なのか?』
『ほんまアトリのことになると、とことん心配性やな。傷はもう完全に塞がってるから大丈夫やで。正直、出発は明日の夜やのうて今日の夜にしてもええくらいや』
『今日の夜だと、今すぐ出発することになるが』
『生真面目なツッコみやなー。準備がまだやし、明日の方が都合がええってことはわかっとるって』
『ならいい。それから一つ確認したいことがあるのだが』
『なんや?』
『アトリのこと、いつまで待てばいいんだ?』
直後、パノンは露骨に視線を逸らした。
『下手に俺が動かなくても長引いているように見えるのは気のせいか?』
『これはウチも予想外やってんって。まさか、五日経ってもアトリがなんのアクションも起こさんとは思わんかってんって。ほんま堪忍して』
両手を合わせて平謝りした後、パノンは言葉をつぐ。
『とりあえず、明日まで待ってみて。明日の夜に出発することはアトリにはもう伝えてあるから。さすがに、ルードによそよそしくしたまま出発しようとはアトリも思てへんやろし』
確かに一理あるな。
それに、実際のところ、よそよそしくしているアトリと対してどう接すればいいのかわからない俺には、パノンに言われたとおり待つ以外にできることはなさそうだしな。
『わかった。明日の朝まで待ってみよう』
『それまでにアトリが動いてくれることを祈ってるわ』
パノンは両手を組んで大きく体を伸ばし、椅子から立ち上がる。
『ほな、ぼちぼち帰らせてもらうわ。明日の準備もあるしな』
『すまない。この借りはいつか必ず返す。村の人たちの分も含めてな』
と伝えてから気づく。
――『じゃあウチと付き合って』とか言ってきそうだな。
だが、まあ、その場合は丁重に断ればい――
『ええよええよ。ウチらの方こそルードに借りがあるしな。なんてたって、ルードは村の危機を救ってくれた英雄様やからなー』
予想外の返答に、思わず目を丸くしてしまう。
そんな俺の反応を見て、パノンはハッとした表情を浮かべると、
『そんじゃ、いい加減帰るわ』
と伝え残し、逃げるようにこの建物から去っていった。
アトリほどではないが、この五日間、パノンも少しばかり様子がおかしい気がするが……アトリにしろ、パノンにしろ、女心というものは複雑怪奇すぎる。
考えたところで、俺に理解できるような代物ではない。
パノンに関しても、静観を決め込むのが無難だろうな。
今日はもう特にやることはないので、明日の夜に備えて英気を養うためにもさっさと寝ることにした俺は、アトリのいる寝室へ向かう。
今さら説明するまでもないことだが、俺用のベッドはアトリのいる寝室と同じ部屋に置いてある。
そして、これもまた今さら説明するまでもないことだが、最初の夜以降、俺とアトリは別々のベッドで寝ている。
――だから、なおさらアトリとの距離を感じてしまうわけだが。
詮無いことを考えつつも寝室の扉を開けると、ベッドの上にちょこんと腰掛けているアトリの姿が目にとまる。
この五日間、養生するために寝ていることが多かったせいか、アトリは見るからに眠たくなさそうな顔をしていた。
扉を開ける音と、空気の流れの変化に気づいたのか、アトリは俺の方に顔を向け……すぐに横に逸らした。
おそらく、気配だけで俺だとわかったのだろうな。
五日間ずっとこの調子だから、心の平穏など訪れるはずもない。
――本当に待っているだけでいいのか?
と、思った矢先のことだった。
アトリは俺から顔を逸らしたまま、ベッドの空いている場所――アトリから見て右側――を二度、叩いた。
意図をはかりかねていると、アトリはまた自分の隣を二度叩き、少し間を置いてからまた二度叩き……これは『隣に座って』……で、いいのか?
恐る恐るアトリに近づき、恐る恐る彼女の隣に腰を下ろしてみる。人一人分座れるほどの隙間を空けて。
依然としてアトリが俺から顔を逸らしたままだったせいもあって、密着して座る勇気はさすがになかった。
彼女の方に顔を向ける勇気も、なかった。
そこからは、ただただ静かな時間が流れていった。
上手く説明できないが、耳が聞こえないとかそういう話とは別に、精神的な意味で静かさを感じるような、そんな時間だった。
そんな時間の最中だからこそ、どうしても思ってしまう。
――触れ合いたい。アトリと。
やましい意味ではなく、ただ純粋にアトリと触れ合いたかった。
アトリが今、何を思い、何を感じているのか知りたくて、心の底から触れ合いたいと思った。
なぜなら、俺とアトリは、触れ合うことでしかお互いの想いを確かめることができないから……。
アトリから顔を逸らしたまま、アトリを求めて左手を少しずつ少しずつ彼女の方へ伸ばしてみる。
下手に行動して、ますますアトリがよそよそしくなってしまったら――そんなことばかりが脳裏をよぎるせいか変に怖じ気づいてしまい、俺の左手は一向にアトリのもとにたどり着けなかった。
たった人一人分だけの隙間が、〈オルビスの傷痕〉よりも大きな隙間に思えてならなかった。
それでも、めげることなく少しずつ少しずつ手を伸ばし、道半ばというところで指が〝何か〟にぶつかってしまい、思わず手を引っ込めてしまう。
――今のは……?
指にぶつかった〝何か〟の感触を思い出してみる。
あの感触は、
――指、だな。
そうだ……アトリの指だ!
まさかアトリも、俺と同じように、触れ合いたいと思って俺に手を伸ばそうとしていたのか?
彼女の方に顔を向けようかと思うも、そんなことをしたらアトリに逃げられてしまう気がして、どうしても顔を向けることができなかった。
だから、もう一度、少しずつ少しずつ手だけをアトリの方に伸ばしていく。
やがて、再び、俺の指はアトリの指にぶつかる。
俺とアトリは同時にビクリと震えてしまう。
互いが互いに、触れ合った指を通してビクリとしてしまったことがわかってしまい、俺の指もアトリも指も気まずそうに硬直してしまう。
触れ合ったまま、動けなくなってしまう。
そこからはまた、静かな時間だけが流れていった。
俺はアトリから顔を逸らしたままだった。
アトリがこちらに顔を向けた気配は全く感じられないので、おそらく彼女も顔を逸らしたままだろう。
――ん?
不意にアトリの指が――いや、手が動き出し、俺の手の甲に掌を重ねてくる。
そこまでいったところで、アトリの手は動かなくなる。
アトリの掌からは、照れているような、戸惑っているような、そんな感情ばかりが伝わってくる。
それと、もう一つ。
――間違いない。
――アトリも俺と『触れ合いたい』と思ってる……!
手と手を重ねたことで、アトリの思いを感じ取ることができた。
文字よりも明確に、言葉よりも雄弁に、感じ取ることができた。
俺はゆっくりと左手をひっくり返してアトリの手を握り、指を絡める。
すると、応じるようにアトリも指を絡めてきて、握り返してくれた。
なぜアトリが俺によそよそしくしていたのかとか、あの夜は『一緒に寝て』という解釈で正しかったのかとか、知りたいことは山ほどがあるが、今はそんなことはどうでもよかった。
今俺はアトリを感じ、アトリは俺を感じている。
――それだけわかれば充分だ。
心の底からそう思った。
アトリと触れ合う幸せを噛み締めながら。
だからだろうか。
ほどなくして睡魔が訪れるも、俺は全く抗う気になれず、そのまま深い眠りに落ちていった……。