第2話 旅立ちの日【アトリ】
私の背中に聖痕が現れてから三ヶ月の時が経った頃、ついに旅立ちの日がやってきた。
大地が枯れ始めたことを考えたら、三ヶ月どころか一刻も早く捧唱の旅に出るべきだと思うけど、どうにも、そういうわけにはいかないみたいなの。
捧唱の旅は文字どおりの意味で世界中を旅することになる。
なぜなら、私が唱を捧げるのは、この世界の九割を占める大地そのものだから。
でも、だからこそ捧唱の旅は世界中の国々から支援を受けることができるの。
私たちナトゥラの民の集落がある、世界一の国力と領土を誇るマイアを筆頭に、エーレクトラ、ターユゲーテ、アルキュオネ、ケライノ、アステロペ、メローペの計七国が旅の資金を出し合い、それぞれの国の物凄く強い人たちが旅の護衛として派遣される。
本当に心強いことこの上ないけど、残念なことに現在アステロペとメローペが戦争中のため、この二国は護衛を派遣しないことを宣言し、余計な火種を抱えるくらいならいない方がマシだと判断した他の五国が宣言を受け入れることにした。
それによって戦力ダウンが生じたことを気にしてか、それとも目が見えない私のことを気にしてか、ナトゥラの民の識者とマイアの大臣様たちが集まって、捧唱の旅で最も注意すべき〝裏〟の人たちを攪乱するための策を講じた。
三ヶ月という期間は、七国の支援を含めた諸々の準備に要した時間だった。
そして、出発当日の朝――
「まあ、よく似合ってるわ」
アルナお婆様の口から感嘆の声があがる。
私は今、家の自室で、ナトゥラの民の民族服からドレスに着替えさせられていた。
お婆様の反応を聞く限り、私のドレス姿はそう悪くないっぽいけど……民族服に比べたら動きにくくて、お婆様には悪いけど私はあまり好きじゃないかも……。
控えめにコン、コン、と部屋の扉を叩く音が聞こえてくる。
お婆様が「どうぞ」と促すと、
「おぉ、アトリのこのような姿を見られるとは。長生きはするものじゃな」
お爺様が、お婆様以上に感嘆した声を上げて、こちらに近づいてくる。
お爺様の反応が大袈裟すぎてこそばゆいけど悪くない気分だった。
お婆様だけじゃなくてお爺様にも褒められたせいか、ドレスも悪くないかもって思っちゃったのは、ちょっと現金……かな?
「あとは、これね」
そう言って、お婆様は私の頭にトークハットと呼ばれる帽子をかぶせると、顎紐を結んで固定する。
この帽子には顔を隠すためのベールが付いており、そのせいか、なんとなく目の前に圧迫感を覚えて落ち着かない。
そんな私の機微を察してくれたお婆様が、
「お城に着くまで我慢してね」
と、申し訳なさそうに言い、逆に私の方が申し訳ない気持ちになってしまったので、かぶりを振ってたいした問題じゃないことをアピールした。
「アトリ……」
お爺様が、少しかすれた声で名前を呼びながら抱き締めてくる。
私よりも大きくて、けどどこか力のこもらないその体は、切なくなるほどに温かかった。
「必ず、無事に帰ってくるのじゃぞ。もうこれ以上、家族を失うのはゴメンじゃからな」
家族――その言葉に、思わず、ジワリと涙が滲んでしまう。
流行病で家族を失ったのは私だけじゃない。
お爺様とお婆様も、同じ流行病で息子さん夫婦とお孫さんを失っている。
その大事な家族と同じだと言ってもらえたことが、たまらなく嬉しかった。
絶対に捧唱の旅を成し遂げて、無事に帰ってきて、恩返ししたいと心の底から思った。
「一緒に行けないのは歯がゆいけど……私たちはここでアトリの旅の無事を祈らせてもらうわ」
そう言って、お婆様が後ろから抱き締めてくれた。
落ち着いた声音とは裏腹に、私よりもか細いその体は、なにかを堪えるように震えていた。
二人とも、私を捧唱の旅に出すのが心配で心配でたまらないのだ。
けど、みんなのためにも、私のためにも、踏み出す足を止めるわけにはいかない。
「いってきます……お爺様……お婆様……」
これ以上心配をかけまいと涙は堪えたけど、絞り出した声の震えまでは堪えることはできなかった……。
◇ ◇ ◇
お爺様とお婆様にお別れの挨拶を済ませた後、迎えに来てくださった騎士隊長のレイソン様――声を聞いた限りだと三十代のおじ様だと思う――にエスコートされて、馬車へ移動する。
杖さえあれば一人でも歩けることは事前に伝えていたので、エスコートといっても手を引いてもらうような大袈裟なものじゃなくて、私の歩く速度に合わせてレイソン様に先導していただく形なんだけど……私が歩くのが遅いせいで、レイソン様に嫌な顔とかさせてない、よね?
「もうすぐ馬車に着きますよ」
私の不安を見透かすように、レイソン様が穏やかに声をかけてくる。
もしかして顔に出てた? だとしたら恥ずかしい……。
馬車に到着すると、私たちを出迎えるようなタイミングで、扉が開く音が聞こえてくる。
そういえば、私が乗る馬車は箱型だってお爺様が言ってたっけ。
「お、レイソン。いいタイミングだな。こっちも、ちょうど嬢ちゃんの荷物を積み込み終えたところだ」
「サイト……唱巫女殿を嬢ちゃんと呼ぶのはやめるよう言ったはずだが?」
そう言って、レイソン様は呆れたようにため息をついた。
サイト様は護り屋と呼ばれる、護衛の仕事を専門にしている傭兵さんなの。声からして、年齢はレイソン様と同じくらいだと思う。
このお二人が、少しの間だけ私を護ってくださる護衛団の2トップで、騎士様三十名の隊長を務めるレイソン様がリーダ―を、護り屋さん二十名の代表を務めるサイト様が副リーダーを務めていた。
「そう、固いこと言うなって。こちとら騎士様と違って、教養の『きょ』の字もねえんだからよ」
「自覚しているなら、少しでも身につける努力をしろ」
「努力はしてるつもりだが、すぐに忘れちまうんだな。これがな」
「まったく、お前という男は……」
そんな気心の知れた二人の会話がおかしくて、ついクスリと笑ってしまう。
「ったく、お前がそんなだから唱巫女殿に笑われてしまったではないか」
「いや、どっちかつうかとお前のせいじゃね?」
「え? あ、すみません!」
笑ってしまったことを謝ろうと頭を下げた瞬間、左右からお二人に肩を掴まれ、私はドキリとしてしまう。
なぜかというと、肩を掴まれなければ、
「駄目ですよ、そのように勢いよく頭を下げてしまっては。ベールがめくれて誰かに顔を見られてしまうかもしれませんから」
レイソン様が小声で注意したとおりの事態が起きていたかもしれないからだ。
続けて、サイト様も小声で話しかけてくる。
「気をつけなよ、嬢ちゃん。この策は、ナトゥラの民以外に嬢ちゃんの顔を知っている人間が、ほとんどいないことを前提にしたものなんだからよ」
「あぅ……すみません……」
「次から気をつけりゃいい。だから、そう何度も謝りなさんな」
サイト様はそう言ってくれたけど、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
なぜなら、ナトゥラの民の識者とマイアの大臣様たちが三ヶ月かけて考えてくれた策を、私の不注意で台無しにしてしまうところだったから。
策の内容はこのように聞かされている。
捧唱の旅を始める際、唱巫女はマイアの国王様に謁見――私がドレスを着ているのはそのためなの――し、旅を始めることを報告することが慣例になっている。
だから唱巫女である私は集落を出た後、護衛団に護られてマイア城に赴くことになっている。
そして、国王様との謁見が終わり次第、旅立つのだ。
私の替え玉を務める女性と、彼女を護る護衛団が。
そう、この五十名に及ぶ護衛団は囮だった。
唱巫女の替え玉を護る護衛団が先に発って、〝裏〟の人たちの注意を充分に引きつけた後、本物の唱巫女である私は、各国から集まった少数精鋭の護衛の方たちとともに捧唱の旅を開始する。それが策の全容だった。
策について知っているのは、この場においては、族長であるお爺様を含めたナトゥラの民の有力者と識者数人。そして、今私のそばにいるレイソン様とサイト様の二人のみ。
敵を欺くにはまず味方からということで、私が別の女性と入れ替わったことが護衛団の人たちにバレないよう、私は顔を隠さなければならなかった。
だから、私の不注意で策を台無しにしかけたことが申し訳なくて……なにも知らない護衛団の人たちにも申し訳なくて……ただただそういう気持ちでいっぱいになっていた。
「おい、サイト。どうして護衛団にあんな子供が混じっている?」
突然レイソン様がこわい声を出して、思わずビクッと震えてしまう。
自分が怒られてるわけじゃなくても、こういう険のある声って言えばいいのかな? とにかく、こわい声を聞くのはこわい……。
だけど、内容そのものは興味深かったので、またこわい声が出てこないことを祈りながらも耳を傾けることにした。
いくらなんでも十歳そこそこの子供が護衛団に入れるとは思えないから、年齢は私と同じくらいなのかな?
「子供ってのはもしかして、あっちで本読んでる、クッソ無愛想で無駄に達観していて可愛げの欠片もない黒髪のガキのことか?」
「そこまでは言っていないが……ああ、彼のことだ。見たところ唱巫女殿と同じくらいの歳に見えるが」
「嬢ちゃんと同じくらいどころか一コ下の十五だ。ついでに言うと、あいつは生まれつき耳が聞こえねえんだな。これがな」
年齢はだいたい予想どおりだったけど、まさか耳が聞こえないなんて……。
そんなハンデを背負っているのに十五歳という若さで護衛団に入れるだなんて、どれだけすごい子なんだろう?
「十五歳というだけでも業腹だというのに耳が聞こえないだと!? やはり護り屋の選定も私が行うべきだったか……!」
「いやいや。お前が選定してたら、あいつ……ルードっつうんだけど、絶対に落としてただろ。そんなことされたら護衛団の戦力がガタ落ちになっちまうから、俺が選定して正解だったっつうの」
「ガタ落ちだと? 冗談も大概にしてほしいところだな」
「冗談どころか事実なんだな。これがな。なにせあのガキは今この場にいる誰よりも強えからな」
レイソン様は絶句しているのか、すぐには言葉を返さなかった。
かく言う私も同じように絶句しちゃってるけど。
この中で一番強いっていう話が本当なら、すごい子なんてものじゃないよね……。
少しして、レイソン様が我に返ったように訊ねる。
「誰よりも強い、だと? 私とお前よりもか?」
「よりもどころの話じゃねえよ。俺とお前の二人がかりでも、たぶん無理だぞ。あのガキときたら、あの歳で護り屋の業界じゃ五本の指に入るほどの実力者だからな。伝説の傭兵クラウス・フォウンの秘蔵っ子って噂まで出てやがるが、あながち間違いじゃねえって思わされるくらいには強いぞ。ぶっちゃけ、耳さえ聞こえりゃアッチに選べてただろうよ」
「それほどなのか!?」
ますます言葉を失うレイソン様以上に、私は驚いていた。
アッチってつまり、囮じゃなくて〝本当の〟護衛になれたってことだよね?
それってつまり、各国の物凄く強い人たちと同じくらい強いってことだよね?
私よりも年下で、耳が聞こえないのに、本当の本当にすごいんだ……。
それに比べて私は、その子よりも一つ年上なのに、みんなに頼り切りで、なにもできなくて……。
そんなことを考えていたら居ても立ってもいられなくなり、つい、こんなことをお二人にお願いしてしまう。
「あ、あのっ! その子と……ルードくんとお話しさせていただけませんかっ!」
目の見えない私が、耳の見えないルードくんに興味を持ってもおかしくないと思ったのか、レイソン様はサイト様にこう訊ねてくれた。
「まだ出発まで時間はあるな?」
「あるにはあるが、二人とも肝心なとこ見落としてねえか?」
「肝心なとことは…………あ」
レイソン様の口から、やけに間の抜けた声が漏れる。
肝心なとこって、なんだろう?
「耳が聞こえねえあいつの会話方法は基本筆談だ。だから、まあ、嬢ちゃんと会話するのは、ちょっと無理だな。それに……わりぃな。俺たちも通訳に付き合ってやれる時間までは、ちょっとないんだわ」
サイト様が私のことを気遣って、直接的な表現を避けながらも疑問に答えてくれた。
……そっか。そうだよね。
目の見えない私には、ルードくんが書いた文字が見えない。
耳の聞こえないルードくんには、私が言った言葉が聞こえない。
サイト様の言うとおり第三者に通訳してもらえば話すことができるけど、そのためだけに誰かに迷惑をかけるのは、ダメ……だよね。
……いけない。
ここで気落ちしたら、またお二人に気を遣わせてしまう。
だから私は、できるだけ明るい声で「それなら仕方ないですね。わかりました」と答えた。
たった一つの感覚が欠けただけで話すことすらできない相手がいる現実が、少しだけ……本当に少しだけ、つらかった。