第15話-1 あ~ん【ルード】
…………………………………………………………………………………………ッ!?
弾かれたように目を覚ました俺は、肩から滑り落ちた〝それ〟を反射的に掴み取る。
手触りだけで〝それ〟がブランケットであることを把握しつつも、まず真っ先にアトリさんが起きているかどうかを確認すべく彼女に視線を向ける。
アトリさんは上体を起こしたまま、ベッドの上でコクンコクンと船を漕いでいた。
一度は目を覚ましたことに胸を撫で下ろした反面、アトリさんが目を覚ました時に眠りこけていた自分の間抜けさに心底呆れる。
アトリさんが魔唱でウェアウルフを吹き飛ばした後、俺は死に物狂いで走り、夕方になる前に大森林地帯を抜けた。
そこで一度、地図と方位磁針で現在地を確認した後、最も近い位置にある村――アルカスを目指して再出発。日が沈んでから二時間後に到着した。
アルカスは木造の家屋が二十軒ほど建ち並んでいるだけの小さな村で、娯楽らしい娯楽がないのか、それとも朝が早いのか、俺たちが着いた時にはもう全ての店が閉まっており、夜警の番をしている者以外に外を出歩いている人間はいなかった。
今世話になっている宿屋もご多分に漏れず閉まっていたが、こっちは必死だったので迷惑を承知で扉を叩きまくり、気難しそうな顔立ちをした壮年の宿主に向かって何度も頭を下げて泊めさせてもらった。
あらかじめ知ってもらっておいた方がトラブルが少なく済むので、俺の耳が聞こえないこと、アトリさんの目が見えないことは筆談で宿主に伝えておいた。
ついでに、住んでいた孤児院が潰れて行く当てがなくなり、二人で旅をして安住の地を探しているという嘘も伝えておいた。
アトリさんが唱巫女であることを下手に吹聴したら、護衛団を襲った黒装束どもの耳に入ってしまう恐れがある。
だから俺は、多少強引な嘘でもいいから、アトリさんの素性を隠すことにしたのだ。
余談だが、俺はいつでも筆談ができるよう、紙にあたるもの――焦げ茶色の木の板と、ペンにあたるもの――白亜と呼ばれる石を棒状に加工したものを二セット、革袋に入れて持ち歩いている。
一セット余分に持ち歩いているのは、もちろん、相手が紙とペンを持っていなくても〝会話〟ができるようにするためだ。
水に濡れても乾かせば再び使えるようになるうえ、白亜で書いた文字は手で擦れば消すことができるので、耳が聞こえない俺にとっては必携の道具だった。
話を戻そう。
ベッドが二つ、テーブルが一つ、椅子が二つ、申し訳程度にキャビネットが一つあるだけの、殺風景な二人部屋を借りた俺は、宿主と娘の手を借りてアトリさんをドレスからネグリジェに着替えさせ、ベッドの上に寝かせた。
できれば医者に診せたかったところだったが、どうにもこの村にはいないらしく、仕方がないので俺が付きっきりで看病することにした。
ベッドの隣に椅子を置き、そこに座って長い時間アトリさんを看ていたが……いつの間にやら睡魔に襲われてしまい、眠ってしまったようだ。
ブランケットをかけられていたのは、たぶん、アトリさんが宿主か娘にお願いしてくれたのだろう。
それにしても、ブランケットをかけられたことに気づかないほどに熟睡してしまうとはな。
緊張の糸を緩めるにしても、さすがにこれは緩めすぎだ。
外がもうすっかり暗くなっているのも、なかなかに頭が痛い。もうここまでくると熟睡というよりは爆睡だな。
もし敵意や害意を持った相手が近くまで迫っていたら……まあ、さすがに気づくだろうが、それでも察知が遅れるのは必至。気を引き締め直す必要があるな。
と、思ったそばから、部屋に近づいてくる小さな気配を一つ察知する。
数秒後、勢いよく扉が開き、
「■――――――――――!! ■■■―――――――――――!!」
茶色い髪を揺らして中に入ってきた宿屋の娘が、何かを叫ぶように大口を開けながら俺を見つめた。
彼女の手に持たれたトレイには、アトリさんのために用意したと思われる粥が載せられていた。
娘の叫び声は相当大きかったらしく、船を漕いでいたアトリさんがガクッと動きを止め、ゴシゴシと目元を擦り、ポケ~っとした顔をしながら目を覚ます。
耳が聞こえない俺がいちいち擬音をつけたくなるほどに、仕草の一つ一つがかわいらしい。
娘は粥の載ったトレイをテーブルの上に置くと、すぐさまこちらに駆け寄り、何事かアトリさんに話しかける。
どうやら娘は、俺が目を覚ましたことをアトリさんに伝えてくれたようで、彼女は見えない目を見開くと、つい先程まで俺が突っ伏していた場所をまさぐり始めた。俺のことを探しているのだ。
『俺はここにいるよ』と伝えるために、ベッドの端をまさぐっていたアトリさんの手を優しく握ると、アトリさんの目の端に、ジワリと涙が滲む。
こ、これは、俺が思っていた以上に心配させてしま――――…………ッ!?
いきなりアトリさんが抱きついてきたので、俺は慌てて抱き止めた!
目が見えないから距離感も何もあったものではなく、抱きつく方向も若干ズレていたから抱き止める側からしたら、なかなかに心臓に悪い。
……まあ、悪いといっても、胸に押しつけられている柔らかな感触に比べたら、心臓に与える影響など微々たるものだが。
おかげさまで、血行が良くなった顔がとにかく熱い。
色もさぞかし赤いことだろう。
……よし。
心臓やらなんやらはとんでもないことになっているが、俺はいたって冷静だ。
冷静にアトリさんの豊かな胸の感触を堪能し――じゃなくて!
冷静に周りが見えている。
視界の端で宿屋の娘が狂喜乱舞しているのがよく見えている。
これに関しては、耳が聞こえない俺でも断定できる。
娘は今、黄色い声というやつをあげている。絶対に「キャーキャー」言って喜んでいる。
娯楽小説で散々見た描写そのままだから間違いない。
視覚的な意味でも大概にやかましい。
アトリさんと抱き合うのは至福といっても過言ではないが、誰かに見られながら続けるのは、さすがに気恥ずかしいものがある。
アトリさんに至っては顔が熟れたリンゴのように真っ赤になっており、どう見ても気恥ずかしいというレベルを突き抜けていた。
いきなり抱きついてしまった自分に驚いているように見えるが、娘の黄色い声に羞恥心を刺激されているようにも見える。いや、この場合はその両方かもしれないな。
兎にも角にも離れた方がいいと思った俺たちは、ゆっくりと、されど可及的に速やかに体を離した。
露骨に残念そうな顔をしていた娘だったが、突然何か閃いたような顔をし、続けてあくどい笑みを浮かべ始める。正直、嫌な予感しかしない。
娘はキャビネットの上に置いてあった紙と羽根ペン、インクの入った壺をテーブルに移動させると、慣れた手つきで紙にペンを走らせていく。
ほう……娘の方も読み書きができるのか。
おそらく宿主が教えたのだろうが、これは嬉しい誤算だな。
第三者を介してアトリさんと〝会話〟する際、何かと勘ぐってくる宿主よりも娘が第三者を務めてくれた方が色々と話がしやすいからな。
いや、待てよ。
それ以前に……そうだな……よくよく考えたらそうだったな。
俺はようやく、初めて、アトリさんと〝会話〟ができるのか……。
知らず感慨に耽っていると、娘が得意げな顔をしながら文字を書いた紙を俺に見せつけてくる。
『ミーシャはと~~~~~~~~~~ってもいそがしいから、ルードおにいちゃんがアトリおねえちゃんにおかゆをたべさせてあげてね』
ミーシャという名前だったのかとか、アトリさんが俺たちの名前を教えたのだろうなとか、希望的観測だと思っていたからアトリさんが俺の名前を知っていたことに驚いたとか、今さらながら住んでた孤児院が潰れたという嘘にアトリさんが上手くのっかってくれているのか心配になってきたとか、その辺のことはもうこの際どうでもいい。
俺がアトリさんに粥を食べさせるだと?
干し肉や焼魚と違って、アトリさんに渡したら『はい終わり』では済まない粥をか?
どう考えてもアトリさん一人では食べられない粥をか?
娯楽小説みたいに、「あ~ん」とか俺たちにやらせるつもりか、この娘は?
冗談じゃない。そんなことになったら俺の羞恥心がはち切れてしまう。これは嬉しくない誤算だ。
筆談で、さっさとミーシャに『やめろ』と伝え――る前にアトリさんに伝えやがったな、こいつ!?
ようやく赤みが引いたアトリさんの顔が、また真っ赤になってるぞ!?
ミーシャは心底楽しげな笑みを浮かべながら、俺たちに手を振って部屋から出ていった。
もっとも、部屋を出てすぐに入口の扉を少しだけ開けてこちらの様子を覗き見しているから、実質出ていっていないのと同じではあるが。
ミーシャの首根っこを掴んで引きずり込み、アトリさんに粥を食べさせてやれば済む話だが……なんでアトリさんは顔を真っ赤にしてるくせに、ちょっと期待してるような顔をしてるんだ!?
もしかして、やりたいのか!? 「あ~ん」をやりたいのか!?
本当に勘弁してほしいところだが、このままイタズラに時間を浪費しても粥が冷めるだけだ。
やるしかない……ようだな。
覚悟を決めた俺は、テーブルの上に置かれた粥をトレイごと持って、椅子に座る。
トレイを左手で掴み、固定しながら太股の上に乗せ、器に盛られた粥をスプーンで掬う。
当然と言えば当然だが、粥に毒が盛られた形跡はなかった。
なぜそう断言できるのかというと、毒については師匠に徹底的に教え込まれた上に、俺の鼻が常人にはわからないような匂いでも察知できるほどに鋭いからだ。
聴覚が欠けたことで鋭敏化したのは、なにも触覚だけの話ではない。
それにしてもこの粥、思ったよりも全然温かいな。冷めることを危惧していたが、どうやら杞憂だったらしい。
まあ、おかげさまで、なおさらミーシャに嵌められた気分になってしまったが。
それにしても、この粥、本当に何の変哲もない麦粥だな。味付けは薄そうだが、病み上がりのアトリさんには薄いくらいが丁度いいのかもしれない。
……現実逃避はこれくらいにして、そろそろ向き合うか。「あ~ん」と。
別に無理して「あ~ん」をしなくても、アトリさんの口にスプーンを押しつければ『口を開いてほしい』という意図を伝えることは充分可能だ。
しかし、やり方としては強引もいいところで、やられる側もあまり気分のいいものではない。
アトリさんにそんな思いをさせるくらいなら、俺が恥ずかしい思いをした方がマシというものだ。
だから「あ~ん」をやるしかない。
それ以外に方法はないし、「あ~ん」くらいなら俺でも発音できるかもしれない。
二度目の覚悟を決めた俺は、無駄に緊張している心と体をほぐすため、アトリさんに悟られないよう静かに、深く、一呼吸する。
そして、
「■~■」
「あ~ん」の発音はともかく、『口を開いてほしい』というこちらの意図が伝わることを祈りながら、粥を掬ったスプーンを彼女の口元まで運ぶ。
アトリさんは数瞬モジモジした後、意を決したように目を瞑り、口を開いてくれた。
そんなアトリさんが親鳥にエサをねだる雛鳥に見えてしまったのは、ここだけの秘密にしておこう。
アトリさんの下唇にスプーンをかすらせながらスプーンを口の中に入れ、静止させる。
そうすることでアトリさんに『もう食べていい』を伝え、しっかりとこちらの意図を汲み取ってくれたアトリさんが口を閉じてスプーンを咥える。
扉の向こうにいる気配が一気に騒がしくなったことに辟易しながら、スプーンをゆっくり引き抜くと、アトリさんはゆっくりと瞼を上げ、粥を咀嚼し始めた。
やってみてわかったことだが、気恥ずかしさよりも、形容しがたい謎の高揚感の方が強くて……不覚なことに、ちょっと病みつきになりそうだ。
自分のこんな新たな一面は知りたくなかったぞ……。
だが、まあ、一度「あ~ん」をやってしまえば、後はアトリさんも勝手に口を開いてくれるだろうから、こんなわけのわからない高揚感に振り回されることもないはず。と思っていたら、一口目の粥を食べ終えたアトリさんが口を開けてくれないだと!?
まさかアトリさんは、食べるたびに俺に言わせるつもりか? 「あ~ん」を?
ちょっと待ってくれと思う一方で、微妙に喜んでいる自分がいることを自覚した俺は、半ばヤケクソになりながら「あ~ん」と言った。