第1話 唱巫女の少女【アトリ】
私、アトリ・スターフルの世界は常闇に包まれている。
光という言葉は聞いたことがある。
眩しいものだという話も聞いたことがある。
けれど、所詮それはただの知識であり、真の意味で光を知っていることにはならない。
だからこそ知りたい。
あの地獄から私を連れ去ってくれた〝この人〟は、私にとって光なの? それとも闇なの?
もし闇だったら……そう思うと、体の震えが止まらなかった。
常に闇とともに生きてきたからこそ、闇の恐ろしさを、冷たさを、私は誰よりも深く理解している。だから、恐くて怖くてたまらなかった。
でも……それでも、私は信じたい。
今、目の前にいるであろう〝この人〟が、私にとって光だと信じたい。
目の見えない私は、誰かに頼らなければ生きていけない。
これまでも、これからも、私にはこの生き方しかできない。
こんな生き方しかできないからこそ、成し遂げたい。
この旅を、捧唱の旅を成し遂げたい。
それができたら、誰かに頼りきりだった私でもみんなの役に立てる。
これまで頼ってきた人たちに、これから頼るであろう人たちに恩返しができる。
だけど……
そのためには、〝この人〟に頼らなければならない。縋らなければならない。
それ以外に私が捧唱の旅を成し遂げる方法は、ない。
仮に〝この人〟が私にとっての光だったとしても、〝この人〟には多大な……本当に多大な迷惑をかけることになる。
あの地獄の最中、自分にもやれることがあったのに、恐怖のあまりただただ震えることしかできなかった、情けない……本当に情けない私のために、〝この人〟には多大な苦労を背負ってもらわなければならない。
だから私は手を前に差し出すことで〝この人〟に問う。
あなたは、私にとっての光なの?
それとも闇なの?
光であったとしても、こんな私とともに行く覚悟はあるの?
そんな強気な問いとは裏腹に、差し出した手は、ますます自分で自分が情けなくなるほどに震えていた……。
◇ ◇ ◇
時は三ヶ月前に遡る――
幼い頃に流行病で両親を亡くした私は、私たちの部族――ナトゥラの民の族長を務めるルゴルドお爺様に引き取られ、十年という両親と過ごした時間よりも長い間、お爺様の家のお世話になっていた。
そんなある日、
「あなた! ちょっと来て、あなた!」
湯浴みのために、私と一緒に浴室に入ってくれたお爺様の奥様――アルナお婆様が、突然素っ頓狂な声を上げながら私から離れていく。
今、私は湯浴みをしようとしていたため裸になっている。
そして、お婆様は異性を浴室に招き入れようとしている。
そんな風に冷静に状況を確かめた後、身を隠すものが何もないことに気づいた私は、慌てて四つん這いになり、床をまさぐって身を隠すものを探した。
お爺様にとっては孫に等しい私の裸を見たって、なんとも思わないかもしれないけど……私はなんとも思うっ!
見えなくても恥ずかしいものは恥ずかしいのっ!
普段のお婆様なら、そういった機微はしっかりと感じ取ってくれるのに……。
余程のことがあったのか、聞いたことがないほどに取り乱していたお婆様は、機微と呼ぶにはあまりにも大きすぎる私の危惧に気づいてくださらなかった。
どうしよう……どうしよう……どれだけ探しても、体を洗う布も桶も見つからない……。
なんでもいいから、早く身を隠すものを見つけ――いったぁっ!?
〝なにか〟に思いっ切り指ぶつけたぁ……。
痛みでちょっと涙目になりながらも、指をぶつけた〝なにか〟をまさぐってみる。
これは……浴槽? うん、浴槽だ。
ナトゥラの民の家は基本石造りで、浴槽も石でできてるの。なにが言いたいのかというと、まだ指が痛い。すっごく指が痛い……。
……あっ、そうだ!
浴槽のお湯に浸かって体を隠せば――と思ったけど、その状態の私がどの程度体を隠せているのかわからないし、布や桶と違ってお湯の感触は、なんというか、頼りなくて不安だから、やっぱりやめた方がいい……よね?
うぅ……どうしよう……って、お婆様とお爺様の足音がもう近くまで来てる!?
どうしようはどうしようでも、どうしようもなくなったことを悟った私は、近づいてくる足音に背を向ける形で床に腰を下ろし、膝を抱えて座ることで隠すべきところを隠した。と、自分に言い聞かせた。
だって、完璧に隠せてるかなんて、目が見えない私には確認できないもん……。
ほどなくして二人分の足音が浴室に到着し、こみ上げてきた恥ずかしさが私の頬を熱くする。
「なんと!」
なにを見て驚いているのか、お爺様が驚愕の声をあげ、私の方がビックリしてしまう。
再び出てきた「なんと……」は、なぜか悲痛に滲んでいた。
いったい、なにがあったの?
問い質したいけど、今の自分がお爺様から見てどれほどあられもない有り様になっているのか想像もつかない。
だから、亀のように縮こまる以外のことはしたくなかった。
そんな私の機微を感じ取ってくれたお婆様が、私の肩に手を置き、かたい声音でこう言ってくる。
「あなたの背中に、聖痕が現れているわよ」
…………………………え?
◇ ◇ ◇
私の背中に聖痕が現れたことにより、族長であるお爺様を含めたナトゥラの民の有力者たちが集会所に集まり、部族会議を開くことになったのだけれど……
「やはりアトリに聖痕が現れてしまったか……」
「確かにアトリの唱力はずば抜けている。しかし、目が見えない彼女を唱巫女に選ぶなど、オルビスはいったい何を考えてるんだ!?」
「アトリに捧唱の旅は無理だ!」
「無理だと言ってもやってもらうしかなかろう! まさかとは思うが、聖痕を他の者に移すなどという非人道的なことをするつもりではあるまいな!?」
「そ、そこまでは言ってない!」
みんな怒鳴ってばかりで、すごくこわくて、当事者だというのに私は集会所に隅っこで縮こまることしかできなかった。
実際、私なんかいなくても会議は進んで…………いるのかな?
何時間も前から同じような内容を怒鳴りあってるだけで、あんまり進んでる感じがしないけど……とにかく、私なんかいてもいなくても同じだという事実に変わりはない。
会議の内容も耳を塞ぎたくなるようなものばかりで、聞いているだけでつらかったので、私は自分の殻に閉じこもるように、私を取り巻く状況を黙々と整理することに勤しむことにした。
私たちの世界の九割は大地でできている。
残り一割の海については今は置いとくとして、大地は太陽の恵みを受けても雨の慈悲を受けても、なにもしなければ百年そこそこで枯れてしまうほどに弱々しいものだった。
私には見えないということについても今は置いとくとして、それでもなお世界に緑が広がっているのは、私たちナトゥラの民が信奉する、大地の神オルビスのおかげだった。
オルビスの力で活力を得た大地は緑が溢れるほどの豊かさを取り戻したけど、あくまでもそれは一時的なもので、先にも言ったとおりどれだけ大地が豊かになっても、やはり、なにもしなければ百年そこそこで枯れることに変わりはなかった。
神といえども、その力は万能というわけじゃないみたい。
そこでオルビスは、己を信奉する人間――ナトゥラの民に魔唱を授けることにした。
魔唱と言っても、現在使われている唱の体を為していないようなものではなく、れっきとした、されど確かな〝力〟を秘めた唱だった。
そしてそれこそが、枯れた大地に活力を与え、大地に豊かさを取り戻す力を秘めた、オルビス自らが創造した唯一無二の魔唱だった。
その魔唱に名前はなく、かといって私たち人間が神が創造した唱に名前をつけるなど恐れ多いということで、便宜上〝大地に捧げし唱〟と呼ばれるようになった。
その〝大地に捧げし唱〟をみんなで唱えば万事解決!――で、済むほど世の中もオルビスも甘くはなく、〝大地に捧げし唱〟は唱巫女と呼ばれる存在以外が唱っても効果はなく、また、唱巫女だけが耳を傾けることができる〝大地の声〟に従い、特定の場所に赴いて唱わなければ、大地に活力を与えることができない。
唱巫女が大地の求める場所に赴き、唱を捧げてまわることで大地の息を吹き返す――それが会議の争点になっている、捧唱の旅だった。
そして、オルビスが当代の唱巫女に選んだのが……私だった。
大地が枯れ始めた時、オルビスは、ナトゥラの民の中で最も優れた唱力を持つ若い女に聖痕を与え、唱巫女に任ずる――その伝承のとおりに私は選ばれた。
ここだけの話だけど、オルビスを信奉するナトゥラの民において、私は敬虔な民とは言い難かった。
流行病からお父様とお母様を護ってくれなかった神様を、みんなと同じように信奉する気にはなれなかったの。
あ、でも、部族のみんなと比べてという話で、全く信奉していないわけじゃないからね。ほんとだよ?
とにかく、そんな私が唱巫女に選ばれたということは、あくまでも選定基準は唱力――魔唱を扱う力のみで、敬虔であるかどうかや、目が見えているかどうかは二の次みたい。
……だいぶ長く一人で考え込んじゃったけど、会議の方は……だいぶこじれちゃってるみたい。
言うまでもない話だけど、捧唱の旅は物見遊山じゃない。
命の危険が伴う過酷な旅で、その途上で命を落として聖痕を移譲した唱巫女も少なくない。
その旅を、目が見えない私なんかが成し遂げることができるのか……会議がこじれにこじれているのは、そこに原因があるみたい。
それとは別に、こじれる原因がもう一つ。
部族会議を開くようお爺様に進言した、部族の有力者筆頭――ラバソ・カーロイン様の存在だ。
必死になって場を鎮めようとするお爺様の邪魔をするように、ラバソ様は、私には唱巫女は務まらないと声高に叫び、あっという間に議論を大火事にまで燃え上がらせる。
そのせいで昼過ぎから始まった会議は遅々として進まず、日が沈んだ今になっても会議開始直後と同じような内容を、お爺様以外のみんなが怒鳴り合っていた。
お爺様以外のみんながこわいのも、ラバソ様が原因だった。
不意に、誰かが私の肩を優しく叩く。
この感触はもしかして、
「アルナお婆様?」
「当たりよ」
そう言って、お婆様はクスリと微笑の吐息を漏らした。
「あの調子じゃ、明日になっても終わりそうにないわ。もう遅いし、これ以上は付き合いきれないから先に外に出て待ってなさい。男連中に夜食を配ったら私もすぐに行くから」
早くこの場から抜け出したかったせいか、思わず弾んだ声で「はい」と答えてしまい、お婆様の笑いを誘ってしまう。ちょっと恥ずかしい……。
お婆様が離れた後、私は壁に立てかけていた杖を掴み、それを頼りに前方を確かめながら集会所の入口を目指して歩いて行く。
目が見えないといっても壁などといった大きな障害物なら、なんとなくだけど、その存在を感じ取ることができる。
さらに言うと、杖をついた際に出る音の反響で、もうちょっとだけ正確に障害物を把握することができる。
その上、集会所には何度も訪れていて構造も熟知しているから、私は一人でも迷うことなく外に出ることができた。
肌を撫でる心地良い夜風を堪能した後、入口脇の壁にもたれかかり、お婆様が来るのを待つことにした。
しばらくして、集会所の奥から一人分の足音が聞こえてくる。
足音がこちらに近づいてきたので、お婆様が来たのかと思ったら、
「会議をほったらかして、こんなところで油を売ってるなんて良いご身分ね、アトリ」
敵意を隠そうともしない若い女性の声に、私は思わず身構える。
声の主が、声音どおりに私を敵視していることを、私だけじゃなくてお爺様とお婆様のことを悪く言う人間であることを知っていたからだ。
「その会議の方が私をほったらかしにしているから、ここにいるんですよ。ラライアさん」
そう言って私は、ラライア・カーロインさんの声が聞こえた方を睨みつけた。
私よりも六歳年上のラライアさんは、私に次ぐ唱力を有しており、私がいなければ十中八九唱巫女に選ばれていたであろう女性だった。
捧唱の旅は、おおよそ百年周期で行われているため、私たちの代から唱巫女が選定されることはわかっていた。
だから、唱巫女に選ばれることを確実視され、事実そうなった私のことを、ラライアさんは目の敵にしているのだ。
ラライアさんに、目が見えないことを馬鹿にされたことがあった。
あなたなんか死んでしまえばいいのにと言われたこともあった。
それくらいならいくらでも我慢できたけど……お爺様とお婆様が私を引き取ったことを部族のみんなの印象を良くするための点数稼ぎだとか、かわいそうな子を引き取る自分に酔っているだとか言って馬鹿にしたことだけは、どうしても許せなくて、私はあの時、生まれて初めて取っ組み合いの喧嘩をした。
組み合ってしまえば目が見えなくても意外となんとかなるもので、髪を引っ張ったり、顔を引っ掻いたりしていたら周りにいた人たちに止められて……その喧嘩を境に、私とラライアさんの溝は決定的なものとなった。
事実、私は今でも、ラライアさんがお爺様とお婆様を馬鹿にしたことを許していない。
ここからは私の推測だけど、会議中にラバソ様が、私には唱巫女は務まらないとしつこく叫んでいたのは、ラライアさんに原因があると思ってる。
なぜなら、ラライアさんはラバソ・カーロイン様の娘だからだ。
自分が唱巫女になるためなら実の親さえも利用する……ラライアさんがそういう人間であることを、私は嫌というほど知っていた。
「ねえ、アトリ。今からでも遅くないから、あなたの聖痕、私に頂戴。その方が世のため人のためになるし」
当代の唱巫女が死した時、聖痕は消え、オルビスが新たに選定した者に移譲される。
そして、それ以外の方法で聖痕が移譲されることは、ない。
直接的な表現じゃないけど、この人ははっきりと私にこう言っているのだ。
死ね――と。
「捧唱の旅を成し遂げることができた唱巫女は、富と名声だけじゃなく、オルビスの恩恵をも手に入れることができる。歴代の唱巫女はみ~んな、そのことについて口を閉ざしてるけど、私たちナトゥラの民の間では周知の事実。あなたのことだから、オルビスの恩恵で目が見えるようになることを期待してるのかもしれないけど、そうはいかないわ。私はね、全てが欲しいの。富も、名声も、オルビスの恩恵も。あなたなんかに、一つたりとも渡したくないの」
それが、ラライアさんが唱巫女に拘る理由だった。
捧唱の旅が過酷を極めるのはわかっているはずなのに、ラライアさんはそんなことのために唱巫女という立場を欲してるの。
そのために私に死ねと言ってるんだから、こういう言葉はあまり好きじゃないけど……正直、狂ってると思う。
「でも勘違いしないでね。さっきも言ったとおり、これは世のため人のためでもあるんだから。千年以上に及ぶ長い歴史の中で、捧唱の旅に出た唱巫女が〝裏〟の組織に捕まり、大地そのものを人質にされて、国々が多額の身代金を払わされるハメになった事例がいくつもあったことは、愚鈍なあなたでも知ってるでしょ? 目の見えないあなたが捧唱の旅に出たところで、〝裏〟の人たちに捕まって、身代金を引き出すために飼い殺されるのがオチよ。あなたがそれで不幸になるのは自業自得だけど、そのせいで大地が枯れたり、お金をふんだくられたりする世界のみんなが可哀想だとは思わない?」
本当に、長々と、言いたい放題言ってくれるんだから……。
この人にだけは言われっぱなしでいるのは我慢ならないので、私は精いっぱいの皮肉を込めて反撃する。
「驚きですね。ラライアさんに誰かを可哀想だと思う心があったなんて」
「アトリ……あなた言うようになったわね」
ラライアさんの声に怒りが混ざる。
おかげさまで少しだけ溜飲を下げることができたけど、ラライアさんが言っていた内容そのものを否定することはできなかった。
なぜなら、ラライアさんの言葉に一理あることは、私自身が一番よくわかっていたから。
私も含めて、唱巫女に選ばれた女性は一人の例外もなく優れた唱力を有している。
それはつまり、唱巫女の存在そのものが優秀な魔唱使いであることを意味しており、歴代の唱巫女は自衛できるだけの力を持っていたことを意味している。
しかし私には、その力を活かすための目がない。
そう……私は歴代の唱巫女とは違い、自分で自分の身を護ることができないのだ。
捧唱の旅には護衛の人たちが同行することが通例になってるけど、私が彼らにかける負担が通例とは程遠いことはわかってる。
ラライアさんの言う〝裏〟の人たち……たぶん、反体制組織や秘密結社のことだと思うけど、そういう人たちに捕まる可能性が、歴代の唱巫女よりも格段に高いこともわかってる。
でも、それでも、私はラライアさんにこう言った。
「ラライアさんがなんと言おうと、聖痕を譲るつもりはありませんから。私は必ず捧唱の旅を成し遂げ、唱巫女の責務を果たしてみせますので、どうかご安心を」
声に力を込め、なにも見えない目にも力を込め、宣戦布告するように断言する。
それをどう受け止めたのかはわからないけど、ラライアさんはつまらなさそうに「フン」と鼻を鳴らすと、
「そう。だったら私は、あなたの旅の無事を祈ってあげるわ。魔獣にでも喰われて、無事に死んでくれますように……ってね」
捨て台詞を吐き、もう一度つまらなさそうに鼻を鳴らしてから集会所の中に戻っていった。
足音が完全に聞こえなくなったところで、私はその場にへたり込む。
気が抜けたせいか、自分でも笑っちゃうくらいにガクガクと膝が震えていた。
ラライアさんと……ううん、どんな人間が相手でも、誰かと敵対するのは、すごくこわい。
こんな情けない私だけど。
こんな情けない私だからこそ。
誰かに唱巫女の座を奪られたくなかった。
死にたくないという気持ちは確かにある。
けれど、それ以上に、私自身の力で捧唱の旅を成し遂げたいという気持ちが強かった。
目が見えないせいで、私は今まで色んな人に苦労と迷惑をかけてきた。
亡くなったお父様とお母様に。
お世話になっている、ルゴルドお爺様とアルナお婆様に。
私に良くしてくれたナトゥラの民のみんなに。
恩返しがしたかった。
これまで私のために苦労を背負ってくれた人たちに、これから私のせいで迷惑をかけるかもしれない人たちに恩返しがしたかった。
捧唱の旅を成し遂げ、大地を豊かにすることで、みんなに恩返しがしたかった。
そのために、捧唱の旅に同行してくれる護衛の方たちに、多大な苦労と迷惑をかけるのは私のエゴでしかないけど……でも、それでも、恩返しがしたかった。
だから、もう一度心に誓う。
私は必ず捧唱の旅を成し遂げ、唱巫女の責務を果たしてみせる!
そして翌朝――
部族会議の決定により、私は正式に唱巫女として認められ、国との段取りが整い次第、捧唱の旅に出ることとなった。