第11話 疾風怒濤【ルード】
森の中をひたすら、走って、走って、走り続けた。
草花を踏み散らし、ぬかるんだ地面を蹴立て、休むことなく走り続けた。
ペース自体は順調だが、
――予想以上に体力の消耗が激しい……!
体調がどうこう以前に、地面のコンディションが悪すぎる!
雨が降る前は〝多少〟だった地面のぬかるみは、今やもう〝全て〟になってしまっていた。
地面からはみだした木の根が多いせいで、ただでさえ足場は悪いというのに……これでは片時も気が休まらない。
否が応でも神経が磨り減らされ、体力が削られていく。
これは思っていた以上に、時間的にも体力的にもギリギリかもしれない。
――ギリギリ、か。
思えば、護衛対象のためといえども、ここまでの無理をするのは初めてかもしれないな。
普段なら、護衛対象を護るために最低限の余力を残すようにしているところだが、今は余力が残っているなら、さっさとアトリさんのために使ってしまえという気分になっている。
これは間違いなくアレだな。
娯楽小説で見た、ゾッコンというやつだな。
我が事ながら、苦笑を禁じ得ない。
正直、アトリさんのためならば、どんな無理でも無茶でもやれる自信がある。
無理をした程度でアトリさんを助けることができるのなら安いものだと、本気で思ってしまう。
無茶をしなかったせいで森を抜けられず、野宿した結果、アトリさんの風邪が悪化して取り返しのつかないことになったら……そんな想像をしただけで、経験したことのない恐怖が俺の心を掻き毟る。
その苦しみに比べたら、無理や無茶からくる苦しみなど些事もいいところだった。
だから、俺は走り続ける。
何時間でも走り続ける。
一秒でも早く人里に着き、安全なベッドの上で彼女を休ませるために。
ふと、思う。
――誰かのためにここまで必死になれる一面が、俺にもあったとはな。
もちろん、護り屋の仕事をしている時も護衛対象のために必死になっていたが、どうやらそれは仕事の範疇での必死だったようだ。
今のように、自分の身を顧みない、文字どおりの意味での必死には程遠い。
本当に、アトリさんと出会ってからは、自分の知らない自分に出会ってばかりだな。
同業の護り屋たちから文句をつけられていたとおり、十五のガキのくせに達観しすぎだと、可愛げがないと、俺自身が思っていた。そうあるべきだとさえ思っていた。
なぜなら、俺の人生は、達観でもしなければやりきれないことばかりだったからだ。
この世界において、貧しさゆえに自分の子供を労働力として期待する親がいることは、そう珍しい話ではない。
ご多分に漏れず自分の子供を労働力として扱っていた俺の親は、耳が聞こえない俺を使えないと判断したのか、六歳の誕生日を迎えたばかりの俺を捨てた。
身ぐるみ一つで追い出された俺は、もう二度と家の中に入れてもらえなかった。
それどころか、家の近くにいただけで暴力を振るわれ、最終的に町の外まで追い出された。
一人で生きていくしかなくなった俺は、干し草を運ぶ馬車に紛れて別の町に移住した。
移住といっても頼るアテなどあるはずもなく、路上が俺の寝床となった。
耳が聞こえない俺にできることなどゴミ漁りか盗みくらいで、その日その日を惨めったらしく生きていくしかなかった。
こんな目にあわせた親に対する憎しみはあったが、六歳まで見捨てずに育ててくれたと心が勝手に解釈したせいで、復讐したいと思えるほどにまでは憎むことができず、我ながら甘いと思いながらも、家族の名前を捨てることでどうにか溜飲を下げた。
それからの一年はひどいものだった。
耳が聞こえず、言葉が話せないせいで、俺は同じ浮浪児からも疎まれた。
耳が聞こえないせいで騙された回数は、両手の指を使っても足りなかった。
この世界には俺の味方はいない。
この世界には俺の敵しかいない。
そう思い込むことで、なんとか一人で一年の時を生き延びることができた。
七歳になったある日、俺はとある男の財布をスろうとして、返り討ちにあった。
その男の名は、クラウス・フォウン。
当時の時点ですでに現役を引退していた伝説の傭兵と呼ばれる男で、俺の師匠となる男だった。
俺に何を見出したのかは知らないが、師匠は勝手に俺を弟子に仕立て上げた。
利用するだけ利用したら隙を見てバックれよう――そんなことを考えながら師匠の弟子になった俺は、戦闘技術、サバイバル技術、読み書きなど、俺が生きていく上で必要なことを沢山教えてくれた。
弟子と言いながらも実の子供のように可愛がってくれる師匠に俺は心を許すようになり、いつしか実の親以上に信頼するようになった。
そして、俺が十二歳になった時に『もう教えることは何もない』と言って、俺に護り屋の仕事を紹介し、初仕事の成功を見届けてから、師匠は姿を消した。
『簡単に他人を信用するな』
最後に、この言葉だけを残して。
〝他人〟とは師匠自身を含めていたのかどうか……そこまでは教えてくれなかった。
だが、耳が聞こえない俺にとっては確かな指針となる言葉だった。
なぜなら、耳が聞こえないことにつけ込んでくる〝他人〟は、護り屋になってなお大勢いたからだ。
しかし、文字が読めない相手と会話する時など、〝他人〟を頼らなければならない場面が多々あるのも事実。
だから俺は信用できる〝他人〟と信用できない〝他人〟を見分ける目を鍛え、いつしか騙されることがなくなり、気がつけば、護り屋でも五本の指に数えられるほどの実績を積み上げていた。
まあ、アトリさんに関しては、信用できる〝他人〟かどうか見分ける前に、一目惚れしてしまったわけだが。
いや、そもそも、アトリさんを〝他人〟に定義しようとすること自体が間違ってるな。
娯楽小説で見た表現を借りるなら、アトリさんは俺のもう一枚の翼。片翼だ。
もはや信じる信じないとかいう次元の話ではない。
だから俺は無茶をする。
だから俺は走り続ける。
アトリさんのために。
俺の片翼のために。
だから、立ち止まってなどいられない。
なのに、
――くそ……!
俺は止まった。止まらざるを得なかった。
なぜなら、ウェアウルフの包囲網にかかってしまったからだ。
この大森林地帯に入って以降、俺は相当な数のウェアウルフを殺している。
その仇討ちか、あるいは人間如きにやられっぱなしでいるのが我慢ならなかったのか、三十を超えるウェアウルフが俺とアトリさんを取り囲んでいた。
ウェアウルフが俺たちを追いつつ、数を増やしていたことには気づいていたが……やはり、アトリさんを背負った状態で振り切れる相手ではなかったか。
煙幕玉で煙に巻こうにも、鼻の利くこいつらが相手では、たいした効果は見込めない。時間と体力を削られることになるが、ここは戦うしかない……!
木を背にする形でアトリさんを地面に下ろした後、乱れた気息を整えながら周囲に視線を巡らせる。
人間の形をした狼どもが、今にも二足歩行から四足走行に以降しそうな前傾姿勢を保ちながら、ジリジリとにじり寄ってくる。
普段ならばウェアウルフが何十体来ようが、アトリさんに指一本触れさせることなく殲滅できる自信があるが、何時間もぶっ通しで走り続けて消耗している今は、アトリさんを護りながら戦うのは正直きついものがある。
だから、
――ウェアウルフどもの狙いを俺だけに集中させる!
知能が動物並みといっても、この群れを率いるボスは確実に存在する。
他のウェアウルフと違い、前傾姿勢になっていない〝そいつ〟がボスだと推測した俺は、奴らが襲いかかってくる前に先手を打つべく、地を這うような姿勢で森を疾駆した。
木々を縫うように走ってウェアウルフどもを攪乱しながら、気づかれることなく〝そいつ〟の背後をとる。
匂いで察知したのか、弾かれるようにこちらに振り返ってきたが、もう遅い。
ブレードの柄を逆手に握り、抜きざまに放った斬撃で〝そいつ〟の首を刎ね飛ばした。
首が地面に落ちた瞬間、ウェアウルフどもの視線がそこに集中し、たじろぐ気配を感じ取る。
推測どおり、仕留めた〝そいつ〟がボスだったことを確信した俺は、地面に転がっていたボスの首を踏みにじり、挑発するようにウェアウルフどもを睨めつけた。
直後、空気が震えるのを肌で感じ取る。
ウェアウルフどもは、挙って大口を開けていた。
おそらく、怒りの咆哮でもあげているのだろう。
この場にいる全てのウェアウルフが、俺に向かって殺気をぶつけてきているから、まず間違いない。
これでやりやすくはなったが、怒りの咆哮を聞いたアトリさんが恐がっていないかだけが心配だな。
転瞬、前後左右から四体のウェアウルフが飛びかかってくる。
四体同時に相手をしてやる義理はないので、前方のウェアウルフに突貫し、すれ違いざまに首を刎ね落とす。
遅れて、目標の速さについてこれなかった三体がぶつかり合い、無様に地面に倒れ伏す。
この好機を逃す手はない。
左右から襲い来る別の二体の爪をかわしつつ、腰のベルトに差していた投げナイフを投擲し、起き上がろうとしていた三体の眉間を刺し貫いた。
執拗に攻撃してくる二対の爪を上体の動きだけでかわしながら、アトリさんの方に視線を向けようとしていたウェアウルフにも投げナイフをくれてやり、こめかみに刺さるのを視界の端で確認しながら、いい加減鬱陶しかった二体をブレードで斬り伏せる。
背後から迫る二つの獣気。
俺は手近の木を蹴って飛び上がりながら宙返りを打ち、その内の一体の両肩に着地。と同時に、ブレードで脳天を突き刺した。
絶命して倒れようとしているウェアウルフからブレードを引き抜き、肩を蹴って飛び去りながらも、大口を開けるもう一体に投げナイフをご馳走してやる。
飛んだ先にあった木の幹に反転しながら着地し、重力に引きずり下ろされる前に木を蹴って再度跳躍。
すれ違いざまに二体の首を刎ねながら、開けた場所に着地した。
ここならば思う存分戦えると思ったのか、残ったウェアウルフどもが嬉々として俺に飛びかかってくる。
その瞬間、俺は獰猛に笑んだ。
嬉々としているのは、こちらの方だ。
三分の一ほど秒殺してやっただけで、奴らの頭からはアトリさんの存在が完全に消え失せ、俺に対する憎悪でいっぱいになっている。
あとは思う存分に戦うだけでいい。
俺たちの行く手を阻んだ罰だ。
獣如きでは視認すらできない、絶死の刃をくれてやる……!




