第10話 雨は止めど【ルード】
――朝、か。
洞窟の入口から差し込んでくる日の光を横目で見ながら、深々とため息をつく。
雨は深夜まで降り続いたため、結局そのまま洞窟の中で一夜を過ごすこととなった。
結局ついでに言っておくと、昨夜俺は一睡もできなかった。というか、できるわけがなかった。
下着姿のアトリさんが、俺に身を預けるように寄りかかりながら寝ているのだ。眠れるわけがなかった。
今この時も、嬉しさと心地よさと恥ずかしさが俺の心をグチャグチャにかき乱し、心臓が痛みを伴うほどに激しく脈動している。
すぐにでもアトリさんの隣から逃げ出したいという衝動と、このままずっとこうしていたいという衝動が、俺の中でせめぎ合っている。
おかげさまで目が冴えて仕方がない。
さすがに、いつまでもこの甘さに浸っているわけにはいかないので、アトリさんに外套を譲り、体に包んでから、そっと寝かせる。
薪にしていた小枝が底をつき、夜明け前にはもうすっかり消えてしまったたき火の跡を跨いで、服が乾いているかどうかを確認する。
……よし。俺の旅装もアトリさんのドレスも、だいたい乾いているな。
昨日の雨の影響か、そこそこ空気が冷えていたので、旅装に袖を通した後、たき火用の薪と朝食を調達すべく洞窟の入口へ向かう。
まあ、向かうといっても、この洞窟は人間二人が寝泊まりするには少々広いという程度の大きさなので、ものの数秒で入口に到着するわけだが。
隆起した地面の傾斜を裂くようにして出来た、横長の入口を抜けて外に出る。
やはり、雨が降ったせいで地面がぬかるんでるな。
アトリさんの体調次第では、地面が乾くまで休むことも視野に入れておいた方がいいかもしれない。
ぬかるんだ地面を歩くのは意外に体力を削られる。
目が見えないアトリさんは、なおさらしんどいだろう。
残り少ない干し肉を温存するためにも朝食を調達したいところだったが、近くに川はなく、野生動物や、食べられるタイプの魔獣――当然ウェアウルフは論外だが――の姿も見当たらなかったので、ひとまず薪だけを集めて洞窟に戻ることにした。
アトリさんは……まだ寝ているようだな。
だったら、朝食の調達はアトリさんが起きてからでいいな。
たき火の番をする必要があるし、何かの拍子で外套に火が燃え移ったら事だからな。
集めた薪をたき火の跡に置き、火打ち石を打って火を熾す。
その音で目が覚めてしまったのか、アトリさんが目元を擦りながらゆっくりと上体を起こし……俺は神速で上体を捻って彼女から視線を逸らした。
なぜなら、アトリさんの体を覆っていた外套がずり落ち、その拍子で肌着の肩紐もずり落ちて、右胸の上半分が思いっきり露出してしまってるからで……その……目のやり場に困る。
いや、待て。
よくよく考えたら、アトリさんは一人でドレスを着ることができるのか?
もし、できなかった場合は……色々と勘弁してほしかったので、祈るような気持ちでドレスを手に取り、できる限り彼女の方を見ないようにしながら渡してみる。
まだ寝ぼけているのか、アトリさんはポケ~っとしながら、ゆるゆるとドレスを着始める。
その際、シュミーズの裾がめくれてパンツがモロに見えてしまったことは脳裏に焼きつけ――るのはどうかと思ったので、見えなかったフリをする。
やがて、アトリさんがドレスを着終える。
結局、背部の紐は俺が結ぶことになったが、それ以外はアトリさん一人でもできたことに心底安堵する。
下着姿の彼女を見ているだけでも、心臓が爆発しそうなほどに脈打っているのだ。
ドレスを着させることになろうものなら、本当に心臓が爆発してしまうかもしれない。
我ながら馬鹿馬鹿しい言い回しだが、それほどまでに心臓の暴れっぷりはひどかった。
とにかく、これで朝食の調達にいけるな。
そのことをアトリさんに伝えようと思った瞬間、アトリさんは突然、腰を抜かしたようにペタンとその場に座り込んだ。
よく見ると、アトリさんの顔がいつもよりも赤くなっているように見える。
まさかと思い、アトリさんの額に手を当てて見ると、
――熱が出てる……! 風邪を引いてしまったか……!
思わず歯噛みする。
こんなことなら、恥ずかしがらずに濡れそぼっていたシュミーズも脱がせるべきだったと後悔するが、もはや後の祭りだ。
とにかく今は、どう行動するのがアトリさんにとって最善かを考えろ……!
このままここで看病するのは……駄目だな。環境が悪すぎる。風邪が悪化するのが目に見えている。
となると、選択肢は一つしかない。
俺が彼女を背負って走り、可及的速やかに森を抜けて人里を見つける。アトリさんの負担も大きいが、これしかない。
そう決めるや否や、革袋から地図と方位磁針を取り出し、今までの道程から大雑把な現在位置を特定して、最寄りの村がある方角を再確認する。
距離は……休むことなく走り続ければ、今日中に村に着くことができるかもしれないな。
この森に来てからは寝るにしても浅い眠りに留めていたうえ、昨夜は一睡もできなかったせいで体調は万全とは言い難いが、泣き言は言っていられない。
そうと決まれば時間が惜しい。
朝食の調達にいくのはやめて、革袋に残っていた最後の干し肉をこの森での最後の食事にすることにした。
風邪のせいでアトリさんの食欲が露骨に落ちていたが、それでもなんだかんだで完食してくれたことに、俺は胸を撫で下ろす。
走るとなると背負われる側にも相応の体力が要求される。
出発前に、少しでも精をつけることができたのは大きい。
準備ができたところで、アトリさんに歩み寄る。
寝起きのせいか熱のせいか、彼女はどこかぼんやりとしながら力なく座っていた。
アトリさんの両手を優しく掴み、肩よりも高い位置に持ち上げると、一度手を離し、体を反転させてから彼女の両手を掴み直す。
この時点で俺がやろうとしていることに気づいたアトリさんは、こちらから手を引っ張るまでもなく俺の首に両手を回し、体を預けてくれた。
その際、アトリさんの豊かな胸が押し潰される感触を背中で感じ取るも、今は興奮している場合じゃないと自戒し、雑念と邪念を気合で意識の外に追い出す。
続けて、腰の後ろに固定していたブレードと革袋にアトリさんのお尻と脚を乗っける形で背負い、立ち上がる。
その直後、アトリさんは何か言葉を口にしたようで、耳朶を撫でる彼女の吐息が数瞬不規則になる。
当然、俺には彼女が何を言ったのかは聞こえない。
だが、何を言ったのかはわかる。
『ごめんなさい』
彼女はそう言ったのだ。断言してもいい。
なぜなら彼女はそういう人だからだ。
そういう人だからこそ、仕事など関係なしに護ってやりたいと思ったのだ。
心の奥底から。
――気にしなくていい。
届くかどうかはわからないが、背負い直すことで俺の〝言葉〟を伝えた後、一秒でも早く人里に着くために、すぐさま走り出した。